a child
(京野 巽)
その小さな子どもは、初めて目にする仙人を、物珍しげに見上げていた。
「雷震子、この方がお前を弟子にとおっしゃっている方だよ」
父親が紹介する。
ご挨拶しなさい、と一番上の兄に言われて、子どもはぴょこんと頭を下げた。
「こんにちわ」
「初めまして。私は雲中子というんだ。よろしく、雷震子」
仙人は、笑みを浮かべて子どもを見下ろした。
少し離れた所からは、二番目の兄が、ふくれっつらで仙人を睨み付けていた。
彼にとってこの男は、可愛い末っ子をさらっていく略奪者だった。
その横では、長兄よりも年上に見える四番目の兄が、仕方のないことだという顔をして横目で次兄を窺いながら、事の成り行きを見守っていた。
子どもには、この場にいる家族の他に、兄姉が他に九十六人、義母が二十六人いる。
それが彼の家族だった。
血は繋がっていなくとも。
「仙人になりたいかい?」
「うん! 強くなって親父の力になるんだ!」
「…そうか。お父さんが好きなんだね」
「うん!!」
愛情に包まれて育った子ども。
実の親には捨てられたけれど。
ああ、捨てたのは悪い親だね。
でも、今の家族に囲まれて、きみは幸せだろう?
何が良いことなのか、何が悪いことなのか。
わからないね。決めるのは、結局自分。
仙人たちは皆、同じようなことを言った。
「きみが本気で弟子を育てているとは」
徒弟制度をうっとうしく思っている雲中子は、これまで数えるほどしか弟子をとらずにいた。
そしてその数少ない弟子たちは、適当に実験に付き合わせてから下界へ逃していた。
そういう仕打ちを受けても、ちゃんと生活していけるような人間ばかりを選んだ。
彼が弟子を仙人になるまで育てたためしはなく、弟子をとれとうるさく言ってきていた玉虚宮も、その有様を見続けて、とうとう何も言ってこなくなった。
彼はそうやって、だいぶ前から一人のびのびと終南山で暮らしていたのだ。
その彼が、いきなり自分から弟子をとったものだから、崑崙中の噂になった。
「別に、普通の事だろう。仙人が弟子をとるなんて」
雲中子の態度は、普段と何ら変わらない。
噂が広まってから、物好きな仙人たちは一度は覗きに来た。
太乙などは子ども好きなせいもあって、何度もやってきた。
厳しく育てられて生傷の絶えない雷震子に、たまに菓子をあげたりしてかわいがっていた。
「だってさあ、弟子に時間を割くなんて嫌だって言ってたじゃないか」
持参した魔法瓶から注いだ茶を飲みながら、太乙は外の木陰で昼寝をしている子どもを見遣った。
「今までの弟子なんか、弟子なんて名ばかりで、実験に付き合わせる時以外は放っておいてたくせにさ。どういう風の吹き回しだい?」
何度も聞いているのだが、雲中子はいつも適当に受け流す。
「どういうもなにも。やってみたくなっただけだよ」
「……あのさ、一部で噂になってるみたいに、長期的な実験なわけ?」
できればそうであってほしくなかったので今まで聞かなかったのだが、思い切って言ってみた。
「長期的な実験……ねぇ。……そうだな、そうとも言えるかもしれない」
「やめなよ、あんな小さな子どもにひどいことするのは……」
かなり嫌そうな顔をする太乙に、雲中子は笑った。
「別にそんな大層なことじゃないよ、ただ……。…そう、子どもを育てたかったんだ」
「……育児? スパルタで?」
「そう」
「ほんとに?」
「別に信じなくてもいいけどね。私の言い分は言ったからね」
さらりとした顔で言う彼の真意は、昔から測り難い。
どうしても不審そうな顔になってしまう太乙が、更に何か言おうとした時、高めの子どもの声が聞こえた。
「師父〜……ハチが刺した〜……」
半べその雷震子が戸口に立っていた。
腕に小さな赤い跡ができている。
雲中子は、慌てることなく、小さな弟子に近付いてしゃがみこんだ。
「そうかそうか。どんな蜂だった?」
子どもは、握っていた右手を差し出して広げた。
「ああ、蜜蜂だな。たいしたことないよ。座ってなさい、手当てするから」
痛いせいか、雷震子はおとなしく雲中子が座っていた椅子に腰掛けた。
雲中子は薬箱を出してくると、手際良く傷の処理をしていった。
太乙は口を出さずに、その様子を見ていた。
ほんとに面白い光景だなあ。雲中子が子どもの世話してるなんて。
「ほら、もうこれで放っておけば、すぐに治るよ」
「うん」
言われて安心したのか、雷震子は元気な表情に戻ると、また外に出ていった。
どうやら戸外の方が好きらしい。
「やれやれ」
棚に薬箱をしまって、雲中子は椅子に腰を下ろした。
「なんか割と様になってるねー。意外」
太乙が笑いながら言った。
雲中子も笑って返した。
「そうかな。…まあ、今のうちだよ、師父とか呼んでくれるのも」
「え……やっぱり何かするつもりなんだ」
太乙が眉をしかめると、雲中子はうまく内面を隠した笑みを浮かべた。
「さあね。でも、もう実験台にするよりもたちの悪いことしてるからね。嫌われた方がこっちはほっとするというか」
「実験台にするよりも悪いこと……? きみ……そんなに悪党だったの?」
嫌われなければ間違っているとでも言いたげな雲中子に、太乙は少し後ろに引いた。
頭の中には、思い浮かべられるだけの悪事が次々と浮かんできてしまっている。
警戒しているようなその様子に、雲中子は面白そうに笑んだ。
「何だと思う?」
「え…えっと………何かなあ?」
聞かない方がいいのかもしれないと思いつつ、曖昧な笑みを浮かべる。
「隠し事があるんだよ」
「……そんなにひどいことを隠してるのか……」
「多分ね」
そうなんじゃないかと思う。
また、さほど古くはない記憶が呼び起こされる。
きっと消えることのない記憶。
彼女と最初に会った時のことは、鮮やかに思い出せる。
「どこから来たの?」
窓から、気の強そうな美しい顔が微笑みかけていた。
少しくせのある長い黒髪に黒い瞳。化粧が濃くて、少し口紅がどぎつかった。
まだ若いのにもったいないな、というのが第一印象だった。
無許可で下界へ降りて、ぶらぶら街を歩いていた時に声を掛けられた。
仙人なんだと言ったら、やっぱりねと笑われた。
「そんな感じしたもの。不思議な雰囲気で」
そのまま自然に話が続いた。だいぶ長く話していたが、全然退屈しなかった。
初めて会った人間と、そんなに打ち解けたのは初めてだった。
彼女は夜の人間だった。裏路地の酒場で働いて、時には体も売ると言う。
「まあそっちは個人的な遊びだけど。本気じゃないのよっていう意味で、お金をもらうの」
「ふうん。いろんな生き方があるものだよねぇ」
「何、馬鹿にしてるの?」
「感心してるんだよ」
微笑みかけると、笑われた。
「可愛い顔するのね、あなた」
そのままなんとなく家の中に入ってしまった。
そのまま。
それから。
何も言われなかったが、元始天尊あたりにはばれていたかもしれない。
あれほど頻繁に下界に降りていたのだから。
一緒に過ごす時間が、とても楽しかった。
一人で過ごすことを好む性質だったのに、彼女といる時は一人になりたいとは一度も思わなかった。
愛していたのだろうか。
愛という言葉の意味は、よく解らない。
ただ、側にいることが好きだった。
彼女が好きだった。
あまりよくない冗談を言い合うことも多かったので、その時も冗談かと思った。
「子どもができたみたいなのよね」
窓わくに腰掛けていた彼女の表情は、逆光でぼかされていた。
「……へえ。私の?」
こちらは光に向かっていたので、わざわざ表情も声音も何もかもぼかさなければならなかった。
「そうなんじゃない? 最近はあなたとだけだもの」
彼女の声は落ち着いていた。
多分、打ち明けるまでに一人でたくさん考えたのだろう。
仙人と人間が共に暮らせる時間は、少なくとも仙人の感覚で考えると、短い。
それに加えて住む世界が違うのだ。一緒に暮らせるわけもない。
「産む気かい?」
「私はね。あなたはどう思う?」
何を言えというんだろう。
流せとでも?
「きみの体なんだから、きみが決めていいんだよ。ただし、私は父親にはなれないけれどね」
私ときみは、同じでありながら違う種類の生き物なんだから。
出会ってからこっち、ちょっと忘れかけていたけれど。
いや、それ以前に、きっと私には父親なんてできない。
彼女は、窓枠から腰を上げた。
「産むわよ」
決然とした口調だった。
「父親になってくれなくてもいいわ。ただ、この子がいるってことを覚えててくれればいい」
「…父親にはなれなくても、会いに来るよ。きみと私の子どもだものね」
目を細めて腕を伸ばした。彼女は微笑んでその手に触れた。
いつも暖かい手だった。
軽く握り合うのが、好きだった。
そして、彼女は子どもを産んだ。
医者の技術もあったので、臨月にはずっと付き添って、出産の手伝いもした。
彼女には身寄りがなく、赤ん坊も含めて三人での仕事だった。
男の子だった。
自分の産んだ子どもを見て、嬉しそうに笑っていた顔を覚えている。
彼女は化粧をしない方が綺麗だったが、その時の顔は特に美しく見えた。
そして。
彼女は、数ヶ月であっけなく死んでしまった。
産後の弱くなった体に、強い病魔が入り込んだのだ。
少し仙界に帰っている間に、どうやっても治せない状態にまでなってしまっていた。
最期まで、無理のない笑みを浮かべていた。
笑顔の多い人だった。
今でも、思い出の中では、大抵笑顔だ。
捨てたのは、悪い親だね。
そう。捨てたのは。
わかっていたから。あそこに姫昌が来ることが。
わかっていたから。私にはきみの父親役はできないことが。
駄目なんだよ。私には。
きっと改造とかやりたくなるからね。
嫌だろう? 親にそんなことをされるのは。
尊敬できる親や家族がいた方がいいだろう?
だから、弟子にしようと思った。
弟子にして、ただ一人、心をこめて育てようと思った。
……父親にはなれないから。
悪い事なんだろうね。
作っておいて、捨てるなんて。
でも、数年振りに会ったきみは幸せそうだったから。
私は、良かったと思うよ。
たとえ、誰もそう思わなくても。
「……ねえ、雲中子……そんなに考え込むほどひどいことを……?」
ふと物思いから我に返ると、太乙があからさまにびくびくしていた。
雲中子は苦笑した。
「ああ、実は私はあまりそう思ってないんだけど、多分傍から見たらひどいことなんじゃないかなと思うんだよ」
「………そう………」
詳細を教えてくれそうにないので、太乙はまた勝手に非道な事をあれこれ想像し始めた。
一体……。どうも雲中子の価値判断はわからないからなあ……。
太乙が黙って考え込んでいる間に、雲中子は勝手に魔法瓶の中の茶を自分用に注いだ。
飲みながら外を眺めると、小さな弟子が木に登っている。鳥をつかまえようとして、失敗したらしい。
残念そうに、飛び立っていく鳥を目で追っている。
可愛いねぇ。
雲中子は微笑んだ。
子どもの上の空は、青く澄み渡っている。
悪い事をしたとは思ってないよ。
きみは、この世でただ一人。
私の大切な子どもなんだから。
<終>
……よかったのでしょうか、ここまで捏造して。
雷震子の出生の話というのは、だいぶ前から興味がありました。
特に原作。本当に人間なんだろうかと思わせる登場シ−ン。
そして雲中子。
書いた話は、原作とは関連してませんけど。
(京野巽)