『闇夜』

(京野 巽)




 ほとほとと扉を叩く音がして、雲中子は仕方なく、眠りに沈みかけていた意識を物質世界に引っ張り上げた。
周城の中に用意された仮住まいは、広くも狭くもない適当な大きさの一室である。
その晩は月のない闇夜だったので、既に灯が消された部屋は真っ暗闇になっていた。
「………誰」
寝台の上で掛布にくるまったまま、眠たさを隠そうともせずに、雲中子はやる気のない声を出した。
適当に追い払って、再び快い眠りの世界に戻るつもりだったのだが、相手はまた扉を叩くだけで何も言わない。
「……あのさあ、眠りたいんだけど。急ぎの用事?」
やはり扉の外からは、ほとほとという音しか返ってこない。
しょうがないので、雲中子は面倒くさそうに目をこすりながら起き上がった。
不機嫌な手つきで灯をともし、寝台から降りて扉に向かう。
「やあ、雲中子。起きててくれてよかった〜」
そこに立っていたのは、少し赤らんだ顔に間の抜けた笑みを浮かべた太乙真人だった。
彼は、雲中子が何かを言うより先に、いきなり抱きついてきた。いや、倒れ込んできたというべきか。
「どうやら私の言ったことは、何も聞こえてなかったらしいねぇ……。太乙、きみ、酒臭いよ?」
自分より長身の太乙を支えながら、雲中子は少し眉をしかめた。
太乙は酒気を帯びた笑い方をした。
「うん、一人で飲んでたんだけどさぁ、つまらないから雲中子と一緒に飲もうと思って〜」
見ると、紐付きの小振りの瓶を片手にぶらさげている。
「酒なら、太公望の所にでも行けばいいだろう。私は眠る。おやすみ」
すげなく追い出そうとしたが、ふらふらしている体は離れようとしない。
「……太公望はだめだよ」
ぼそりと呟いた太乙の表情は、ひっつきすぎていたために窺えなかった。
雲中子は、力ずくで酔っ払いを引き剥がすべく実力行使に出ようとしていたのだが、その口調に何かを感じて動きを止めた。
「…太乙?」
顔を覗き込むと、太乙は微笑んだ。もともと綺麗な顔に酒で朱がさして少し艶っぽく、そして少し寂しげだった。
「ねえ。お願いだから、一緒に飲んでよ。今夜だけでいいからさ」
雲中子は、黙って太乙を見つめた。
しばらくの間、二人はどこか神妙な面持ちで向かい合っていた。
相手の胸の内を探るような、試すような。
その奇妙な空気を破ったのは雲中子だった。
「いいよ。一緒に飲もう」
小さく微笑むと、太乙も柔らかく微笑んだ。
「ありがとうね」
雲中子には、もう見当がついていた。
太乙が、本当は何のために来たのか。



「それはまあ、太公望の所には行けないよね」
回廊に出て、雲中子は一人で呟いた。
もう眠たくはなくなっていた。
太乙は雲中子の寝台で眠りこんでいる。
あの後、大して杯を重ねないうちに、彼は涙をこぼしはじめた。
最初はごまかすように何か言っていたが、そのうち雲中子にしがみついて本格的に泣き出した。
雲中子は何も言わなかった。
ただ時折、子どもをあやすように肩や髪を撫でていた。泣き疲れて太乙が寝入ってしまうまで。
太乙は、あの時からずっと、誰かに寄りかかって泣きたかったのだ。
大切な存在を一度に失った、あの戦いの時からずっと。
そして、もうそんな風に泣きつける相手は、雲中子くらいしかいなかったのだ。
太公望の前では、泣けない。
彼は、太乙が自分を責めているわけではないとわかっているだろうけど、それでも。
いや、だからこそ。
雲中子は、まだ夜明けには間がある空を見上げた。
晴れ渡った天には、ちりばめられた星が大きく輝いている。
それは魂魄の輝きにも似ていた。
「きみの悲しみなんて、わかりたくはないんだけどね……」
ぼんやりと呟いて、雲中子は欄干に寄りかかった。

何かを失うことに対して、雲中子は悲しみを感じない。
どんなに気に入っていた存在でも、その消失がどんな形で訪れても、当然のこととして受けとめるだけ。
それは、最初から失うことを想定しているからだった。
いつでも別れる時のことを考えながら、恋人と付き合っているようなものだ。
ずっと、そうやって生きてきた。
何かに心を預けたって、いつ放り出されるかしれない。
心を揺り動かされるのは嫌いだった。

こんなことは、普段あまり考えないでいるのだけど。
ため息をついた雲中子は、室内を振り返った。
太乙は静かに眠っている。
卓上には、飲み残しの入った酒瓶が置いてあった。
「残り、もらっていいよね?」
小さく寝台の方に囁いて、雲中子はひょいと瓶を持ち上げると、杯と一緒に回廊に持ち出した。
中庭に下りる階段まで歩いていって、腰掛ける。
ここに住むようになってから見つけた、いい具合に空が広がる場所だった。
まだ、星はその輝きを薄れさせてはいない。
片手で瓶を振ってみると、もう液体はさほど残っていないようだった。
夜が白むまでには、からになるだろう。
ぼんやりと空を見上げながら、雲中子は少しずつ酒を飲んでいった。
親しかった面々の、もう見ることのできない顔が、浮かんでは消えた。
太乙の泣き顔も、浮かんで消えた。
雲中子はそこに座り込んで、明け方までずっと星空を眺めていた。

天の星は動く際に、人間には聞こえない音をたてているのだという。
悲しみも喜びも、全てを包含する宇宙の響き。
ふと、その音を聞きたいと思った。


少し寂しくなったのかもしれない。



<終>



どうにも、まとまりが悪いような。
仙界大戦戦没者追悼をしようと思ったのですが、ちょっと何かがずれました・・・。
(京野巽)

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