| 科学反応
生命の誕生は今や化学式で表せるらしい。
それなら、俺がこうやって呼吸しているのと、鉄が酸化することとなんの変わりがあるのだろう?
俺のトキメクキモチとか、つまらない化学式で表せてしまうのではないか?
彼女に対してのキモチは化学式みたいに冷たいんだろうか?
今考えると、勉強のし過ぎのノイローゼだったのかもしれない。
でも、その時の俺は、本気でそう恐れていた。
彼女の言葉に救われるまでは。
世の中には受験とかテストとか俺たち学生を悩ます物が存在する。
俺は、大学受験を控え、好きでもない勉強をするべく、塾に通ったり、一人机に向かったりしていた。
そんな時である。
化学の参考書に生命の誕生を、化学式で証明できる話が息抜きのコラムとして書いてあった。
化学はこんなに凄いんだ。
そう言いたかったのかもしれない。
俺はその記事を見て、何かぞっとするモノを感じた。
生命の誕生。
俺はそれまでその謎は、きっと何か壮大なナニカがあったと無意識に思っていたのかしれない。
横から殴られるような衝撃だった。
それは、俺が今頑張っている勉強も彼女とのドキドキも全て化学で証明されてしまうような、そんな気味の悪い衝撃だ。
不意にそれが怖くなると同時に、やる気というかそういうものが、穴のあいたビーチボールみたいに抜けていく感覚。
その日、それから勉強を少しでもしようとする気がなくなって、ベッドに倒れ込んだ。
「オハヨ」
学校に行くと、後ろから声をかけられた。
振り向かなくても声で分かる。
彼女の三浦だ。
なんだか、昨日の化学式のアレが頭の中に浮かんで、怖くなった。
自分の感情を全て化学反応というそれだけのモノで計られている。そんな気分。
「あ、あぁ」
いつもなら、挨拶を交わすのが普通だが、それすらも出来ない。
自分の感情という感情を出すのを恐れていた。
馬鹿な話を思うかもしれないけど、怖かった。
「どったの?不機嫌だよぉ」
「あーなんでもない。なんでもない」
「嘘。私の顔見ないじゃない」
こういう時の彼女は鋭い。
俺が振り向かないと思うな否や、俺の前にすっと立ち回る。
「うわっ。表情が不機嫌そのもの」
「昨日眠れなかったんだよ」
半分嘘で半分本当の答えを出す。
しかし、それでも三浦は俺の顔を心配そうに見ている。
相当酷い顔らしい。
「頑張りすぎじゃない?」
「就職組に言われたくないね」
「あー酷い」
あくまで三浦の口調は軽い。
それが、さらに俺を不機嫌にさせている気がした。
自分の感情が偽りのモノに見えてくる。
逆に彼女の感情がホンモノではないかと思えてくる。
くるくる変わる彼女の表情に苛つきを感じてしまう。
「うるさい!俺、三浦と馬鹿やってる暇ないんだ。先行くぜ」
「あ……」
三浦が何か言う前に走り出す。
心配してくれた相手を振りきって走った。
寝不足のせいだろう。
すぐに息が上がる。
頭もくらくらしてくる。
酸素を求めて、肺がきしむように痛んだ。
それでも俺は足を止めない。
逃げるように学校へ行き、自分のクラスに飛び込む。
三浦と違うクラスな事を初めてありがたいと思った。
三浦が俺を追いかけて来ない。
なんだか嫌われたような気がした。
「何やってんだ?俺は」
呟く声に誰も反応を見せない。
教室にいる進学組の奴らは、単語帳や参考書を持って勉強をしている。
就職組の奴らは、進学組とは別のところで、固まって話をしていた。
空しくなる。
今の俺はどちらにも加われない。
「本当になにしてんのかなぁ」
独白に似た呟きを天井に向かって吐く。
今のこのキモチも化学式で表現できるんだろうか?
そう思うと自分が無機物にでもなっている気がした。
もちろん、その日の授業はまるで身に入らなかった。
ただ、化学の授業だけは異様にむしゃくしゃして俺を苛出させた。
すでに時間は放課後。
今日は何も身に入らなかった。
クラスのみんなも俺がイライラしているのが分かったのだろう。
あまり話し掛けてこようともしてこなかった。
受験を受ける奴はピリピリしてる奴が多い。
俺もその一人だと思われたのだろう。
空しさ。
コレを化学式で証明出来るお偉いさんがいるのだろうな。
そう思うと、無性に苛ついた。
乱暴に鞄を掴むと下駄箱に向かう。
「あ……」
下駄箱に行くと、そこには三浦がいた。
俺を見つけると三浦は嬉しそうな、それでいて悲しそうな笑みを向ける。
「一緒に帰ろ」
すっと手を差し出してくれる。
俺の後ろから差し込む夕日の光で、彼女の髪を赤く染め上げた。
「私の事、嫌いになった?」
「え?」
差し出された手をどうしようか迷っていると、不意にそんな声をかけられた。
「やっぱり、ヤれない女は嫌?」
「は?」
「最近、そういう事しようって言わなくなったし。今日もなんか冷たいし」
焦った。
確かに初めて経験した時、三浦は痛がって、最後まで出来なかった。
しかし、それで嫌になった訳ではないし、受験の事もあって、彼女との肉体関係を持つのは控えていただけ。
身勝手な言い訳かもしれないが。
ヤりたいか?ヤりたくないか?と聞かれたらもちろんヤりたいと答えるだろう。
「エッチできない女じゃダメ?」
三浦の表情は、酷く落ち込んでいるような怯えているような複雑な表情をしていた。
なんと言ったらいいのだろう。
三浦は本音で俺にぶつかってきてくれている。
こうなれば、俺も本音を言うしかない。
でなければここで本当に終わりだ。
「あのさ」
「うん」
「話しながら行くか?」
「うん」
ぎこちなく二人で学校を後にする。
気まずい雰囲気。
足音と二人以外の喧噪しか聞こえない。
「えっと…」
「うん」
気まずくなって口を開いた。
「三浦の事嫌いになった訳じゃないから」
「本当?」
「受験の事でちょっとイライラしててさ」
苦笑を浮かべる。
もっとにこやかに笑えばいいのだろうが、俺はそんな事出来なかった。
不器用だと思う。
「でも、今日は凄く怖かった」
「え?」
「なんだか、全然話聞いてくれそうじゃなかったし。このまま別れようとか言われそうな雰囲気で。私、凄く不安だったんだからね!」
思いっきり睨まれた。
思わず動きが止まってしまう程に。
「私があの時最後まで出来なかったのがいけなかったのかな?とか、なんか悪い事言っちゃったのかな?とか色々考えたんだから!」
「ごめん」
「ごめんじゃないんだから!私、凄く不安だった!……ねぇ、一人で悩むの辞めようよ。私、馬鹿だからあまり力になれないかもしれないけど。それでも力になるよ」
不意に三浦の声が優しくなる。
なんていうか、甘えたくなるような優しい声音だった。
「笑うなよ」
「笑わないよ」
一応確認をして、昨日の話を切り出す。
自分の弱いところを見せるようで、なんだか恥ずかしかったが。
「昨日読んだ参考書に、生命誕生は化学反応で立証されるとかいう話が書いてあったんだよ」
「それで?」
「なんか怖くなったんだよ。こんななんでも化学式とか化学反応で証明されてたら、俺の怒ってる事とか、悲しんでる事とかって何だろうって。もしかすると、鉄が酸化するのも、俺が呼吸するのも実は変わらない事なんじゃないかって。三浦への…その…好きだって気持ちも」
「難しい事考えるんだ」
目を丸くして三浦は俺の顔をのぞく。
が、にっこり俺を見て笑った。
「私は頭良くないから納得できるような事言えないけど、私を好きだって気持ちは呼吸と同じレベルなんでしょ?」
「鉄の酸化もな」
「それって凄い事でしょ?呼吸しなきゃ人間死んじゃうんだよ?それと同じって事でしょ。私を好きってレベルは呼吸並みに普通で、必要な事なんじゃない?鉄が錆びるのだって自然でしょ?その自然と同じくらい私の事好きなんだよ」
凄い事を嬉しそうに三浦はしゃべる。
聞いてるこっちが赤面しそうになるくらいの恥ずかしい台詞をだ。
「恥ずかしくないか?」
「いいでしょ。別に聞いてる人他にいないんだから。ふふふ。そっか。私ってそんな必要だったんだ」
「あんなぁ」
「否定しないトコが怪しいぞっ。私と別れたら呼吸が出来なくなるくらい苦しいんだからね」
凄く嬉しそうに三浦は俺の背中を叩いた。
もしかすると、照れ隠しなのかもしれない。
まぁ、しかしよくもこんな恥ずかしい事が言える物だ。
なんか自分の悩んでいた事が馬鹿みたいに思える。
見る方向が違うだけで、こんな違う見方が出来る事に少し関心した。
「このこのぉ」
まだ背中を叩いてくる三浦を俺はぐっと抱きしめる。
「へ?」
「んじゃ、その証明しないとな」
「ん?」
返事が返ってくる前に、唇を重ねる。
三浦はそれを振り解こうとせずに、さらに積極的に身体をすり寄せてきた。
「あ、あの」
「ん?」
「元気出たついでなんだけど」
「おう」
「ラブホ行こう?最後まで頑張るから…ね?」
二人して赤面。
しかし、顔を赤らめながら大胆な事を言う三浦に、俺は三浦の言う事は当たっているかもしれないと思った。
彼女に対する気持ちは呼吸と同じレベルで、鉄が酸化するくらい普通の事何じゃないかな……と。
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