最期の願い
最期の願い

 しとしとと降る雨。
 暗くなった辺り。
 ただ一人で薬品のチェック。
 物悲しい雰囲気。
 理科室以外の電気はほとんど消えている。
 この理科室に残って薬品チェックをしている男が今日は最後なのだろう。
 「塩酸が思ったより減ってるな……買ってもらわないとな」
 化学担当の大森隆一は、塩酸の瓶を眺めながらリストと薬品をチェックする。
 こんな事をしても残業手当などない。
 まぁ、それは仕方ないところだろうか?
 「ん?二酸化マンガンもかなり減ってるなぁ」
 手にした瓶を蛍光灯の明かりでチェックしながら、黙々と点検している。
 辺りは静まりかえって何も聞こえない。
 聞こえるのはしとしとと降る雨の音と、隆一が薬品を動かす作業の音のみ。
 それ以外はなにも聞こえない。
 「ったく、せっかく鈴木先生に飲みに誘われたのに……ついてないねぇ」
 ぼやくがあまり落胆した表情ではない。
 ある一種の諦めだろう。
 「さっさと終わらせて帰りますか」
 ここだけの話。
 学校の理科室の薬品庫というものを侮ってはいけない。
 あと教師。
 学校にある薬品で知識のある化学教師ならば、ダイナマイトくらい簡単に作れてしまう。
 もちろん、黒色火薬なんてあっという間だ。
 その他にも、劇物、毒物が山のようにはいっている。
 「これ…うわっ!なんでこんなヤバイもんが入ってるんだ?」
 なんて事は、管理のずさんな学校や、古くからの学校では良くある。
 隆一は見付けた薬品をそっと取り出した。
 ラベルがぼろぼろになっている薬瓶。
 そっと静かに、薬品庫の隅にく。
 「後から業者に回さないとなぁ……」
 周りはすでに真っ暗。
 結構時間が過ぎてしまったようである。
 しとしとと降る雨。
 静まりかえった学校。
 「怪談にはもって来いの雰囲気かな?」
 季節もちょうどいい。
 こんな事なら、数人生徒か教員を残して、怪談話にでも花を咲かせるんだったかなー、などと不謹慎な事がふと頭をよぎる。
 「あのぉ……」
 「へっ!?」
 いきなり声をかけられ、ビクリとして振り返る隆一。
 不謹慎な事を考えていたのがバレたかとドキドキする。
 が、そこに立っていたのは、一人の女子生徒。
 顔は見たこと無い顔だ。
 ただ、この学校の制服を着ている事から、生徒だと分かる。
 どこか大人びた感じのする。
 綺麗に伸びた黒い髪が印象的だ。
 「なんだ……脅かさないでくれ」
 「すみません」
 ぺこりと謝る生徒。
 やはり知らない顔。
 「どうした?こんな時間に。校舎には入れないはずだぞ?忘れ物か?」
 「いえ…そうじゃないんですけども……」
 歯切れの悪い言葉。
 隆一は首を傾げた。
 頭の中に嫌な予感が生まれる。
 「君!家出ならちゃんと帰りなさい。両親が心配してるぞ」
 「違います」
 「ならどうして学校なんかに?」
 「明かりが付いてたから」
 理解出来ない言葉だった。
 明かりが付いてたからなんだというのだろう?
 隆一は更に唸った。
 分からないのだ。
 この生徒が何を考えて、何を行動しようとしているのか。
 「君のクラスは?」
 「ありません」
 「は?」
 「だから無いんです。もう……」
 「学校を辞めたのか?」
 「辞めたというか……」
 歯切れの悪い言葉。
 ここを退学した生徒でもないようだ。
 ならあの制服は?
 「あの……この学校に来る前の歩道橋は知ってますよね?」
 「ん?あぁ」
 「そこにお花があって…」
 「あぁ、誰か亡くなったみたいだね」
 「先生、それを見て、立ち止まって拝んで行ったじゃないですか」
 確かに隆一はそんなことを朝してきた。
 誰が亡くなったのか分からない。
 関係者ではない。
 でも、いつも通る歩道橋に花があった。
 それだけである。
 黙祷を捧げ、その場を去っただけ……。
 「あれ、私なんです」
 「は?」
 「だから、あそこで死んじゃったの」
 あまり面白くない冗談である。
 もっと気の利いた冗談は言えないモノであろうか?
 「死者の冒涜は良くないな」
 「本当です!」
 彼女の目は真剣だった。
 が、それを信じる気にはなれない。
 証拠も何もないから。
 もしかすると、彼女はどこかおかしいのかもしれない。
 「まぁ、化学の教師なんてしてるけど、幽霊とか信じないって訳じゃないよ。でも、君が死んでいるって証拠も何もないだろう?」
 「別に、そこにある塩酸を被ってもいいですよ?」
 恐ろしいことを言う。
 もし、それを隆一が実行しようとしたらどうする気だろうか?
 「君!いい加減にしないか!」
 あまりの無謀さに思わず、彼女の腕を握り、説教をしようと隆一は動いた。
 が、彼女の腕を触った瞬間に、動きが止まる。
 冷たいのだ。
 まるで、体温が無くなったかのように。
 「君……」
 「分かってもらえましたか?」
 「確かに、体温は冷たいけど……本当に本当?」
 「はい。ちょっとすみません」
 唖然としている俺に、彼女は素早く動いて、塩酸の瓶を薬品庫から取り出した。
 「お、おい!」
 止める暇もなく、少量だが、彼女はふたを開け、自分の手の平に垂らす。
 隆一は目を丸くした。
 希釈もしてない塩酸を手にかけているのだ。
 皮膚がただれてもおかしくはない。
 「ば、馬鹿野郎!何してるんだ!」
 「平気ですよ」
 慌てふためく隆一を後目に、彼女は平気そうな表情で自分の手を見せる。
 確かに、傷一つない。
 唖然とした。
 「これで信じて貰えます?」
 「信じるしかないだろう……」
 かろうじてそんな言葉を紡ぎだした。
 希釈していない塩酸を手に垂らして、無事でいられるのが人間であるわけがない。
 「本当に、幽霊…か」
 「はい」
 「初めて見る」
 「そうでしょう」
 隆一とは裏腹に、いぜんと落ち着いた口調の彼女。
 確かに、しとしと降る雨。
 夜のしずまり返った学校。
 そういうシュチュエーションには凄く良い。
 だが……
 「どうして学校なんだ?歩道橋で……その死んじまったんだろ?」
 「はい。あの歩道橋の階段から誤って転落して…馬鹿な事故だったんですよ」
 あまり聴きたくない類の話だ。
 気分の良い話でもない。
 「それで……私、今日が一周忌なんです」
 「……」
 「ははは。何とも言えませんよね?だからあそこに花が飾ってあったんですけど」
 「そうか」
 そうとしか答えられなかった。
 なんと答えればいいのか隆一にはまったく思いつかない。
 戸惑う。
 当たり前の事かもしれないが。
 「私の事、拝んでくれる人なんて、今まで両親くらいしか居ませんでしたから…つい」
 「ついってなぁ……それだったら俺よりも両親に会った方がいいんじゃないか?」
 隆一はそう言うが、彼女の顔がすっと曇る。
 「そんな事したら、私のことを忘れかかっている両親にまた傷を抉るような事になりますよ……そんなの残酷じゃないですか」
 「……そっか。君なりの親孝行…か」
 「はい」
 泣きそうな表情。
 こんな歳の女の子がそれに耐えている事がもう痛々しく思える。
 会いたいであろう両親にも会えない彼女が。
 少しでも労ってあげたかった。
 死んでもなお、まだ不安と悲しみに震えている彼女を。
 「泣いてもいいんだぞ」
 「え?」
 ぎゅっと抱きしめた。
 悲しそうに隆一を見つめる彼女。
 冷たい彼女の体温が伝わってくる。
 でも、そんな事はどうでも良かった。
 彼女の辛さを少しでも和らげるなら。
 彼女の悲しさを取り除けるなら。
 安らかに眠ってくれるなら。
 「悲しみを知って欲しかったんだろ?辛いのを分かって欲しいんだろう?」
 「…………」
 「これでも教師だ。生徒が悩んでいるなら、いつでも相談に乗ってやる。死んでるとか生きてるとか関係ないさ」
 にっこり微笑む。
 安心すればいいと思って笑った。
 それが彼女の目にはどう映ったか不明だが。
 「せんせぇ……私…私……」
 「一年は長かっただろう?」
 こくこくと頷く彼女。
 そんな彼女の頭をそっと撫でてやる。
 それは、年相応の女の子の姿。
 生きているとか死んでいるとか関係なく。
 「誰かに泣きつきたかった。優しくして欲しかった……。痛みを知って欲しかった…」
 「沢山泣いてもいいぞ。気が済むまでな」
 「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
 彼女は隆一の中、大声で泣き叫んだ。
 一年分の辛さを吐き出すかのように。
 隆一はそんな彼女の背中をあやすようにさする。
 そっと優しく優しく。
 「せんせぇ…辛いよ…もうやだよ…こんなの辛いよ…辛すぎるよ。親にも謝りたいし、誰かに見守って欲しい」
 「頑張ったな。頑張ってきたんだもんな。でももういいだろう?」
 諭すように優しく口を開く。
 彼女をこのまま縛り付けているのは悲しすぎる。
 「先生が両親の方にも挨拶にいってやる。花だって変えてやる。だからもう……ゆっくりお休み」
 「いいの?」
 「あぁ、もう辛いだろう?君は十分頑張ったさ」
 笑みを浮かべる。
 彼女を助けるべく。
 泣いて、苦しんで、悲しんで、辛い辛い思いをしている彼女を。
 隆一はゆっくりと頭を撫でた。
 「だからゆっくり休もう。な?」
 「うん」
 小さな子供のように頷く彼女。
 こんなに素直になれなかったのだろう。
 優しすぎるから、ちゃんと成仏できなかったのかもしれない。
 「先生、ありがとう……」
 泣き顔に懸命に笑顔を浮かべると、彼女は俺に再度抱きつく。
 そして、煙のように消えてしまった。
 始めから存在していなかったかのように。
 綺麗に、何も残さず……。
 
 「よく頑張ったな。安らかに眠ってくれ」
 隆一は歩道橋の花を新しい花と交換した。
 そして、ゆっくりと拝む。
 一晩明けても、雨はしとしとと降り続いていた。
 彼女の涙のように。
 「あの……」
 ふいに声をかけられる。
 顔をあげると、知らない40代くらいの女性。
 「ウチの江美と知り合いですか?」
 その言葉で、その女性が彼女の母親だと分かった。
 「はい。彼女の学校で教師をしてまして」
 「そうですか……。江美がご迷惑をかけませんでしたか?」
 「いや、優しくていい生徒でしたよ」
 昨日の彼女の涙を思い出して、俺は優しく微笑んだ。
 優しすぎるくらいでしたよ……
 そんな言葉をぐっと飲み込む。
 「そうですか……」
 「これからおじゃましてもよろしいですか?江美さんにお線香もあげたいですし、江美さんについていろいろ話したい事もありますし」
 「ええ。喜んで。江美も喜びますわ」
 にっこりと少し悲しげに笑う母親。
 その笑みの影にはやはり彼女の死があるのだろう。
 しかし、その悲しさも時と共に薄れていく。
 それが優しい彼女の望む事だろう。
 「ありがとう……先生」
 どこからか彼女の声が聞こえたような気がした。
 「あ、晴れてきましたね」
 「ええ。江美も…こんな晴れた空を見るのが好きだったんですよ……」
 隆一にはそれが彼女が笑っているかのように思えた。
 やっと、心配事もなくなると……。 

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