◆ツーソンの日々・第一回
                 
「迫撃砲」


「伏せろー!」
 外から怒鳴り声が聞こえたので、私は学校の教科書を放り出し、机と椅子を倒しながら、大慌てで自室の床に伏せた。
 床に伏せてから約一秒後、『しゅぽん』という間抜けな音に続いて、とんでもない爆発音が響きわたった。家が揺れ、窓ガラスに亀裂が入る。机の上のペン立てがひっくり返り、インク壷が割れた。
 さらに十秒ほど伏せていたが、どうやらもう安全らしいと判ったので、ゆっくりと起きあがった。
 何が起こったのは明白である。音を聞けば判る。迫撃砲が暴発したのだ。記憶する限りでは、あの間抜けな発射音は60ミリ迫撃砲の音だ。
 念のため、ベッドの脇に置いてあった防爆ベストとヘルメットを手に取り、裏庭へ様子を見に行く。
 伏せろ、と言えたくらいだから、ジョンジーは大丈夫だろう。
 問題は、この家だ。
 どこも壊れていなければ良いのだが……と思った直後、こぼれたインクに足を滑らせて転んだ。


 案の定、60ミリ迫撃砲の暴発だった。
 裏庭は埃だらけ、煙に巻かれて、ろくすっぽ物も見えない有り様だ。建物の方を見ると、無惨にもテラスが半壊していた。壁も少し崩れている。望みは脆くも打ち砕かれた。
 風が吹いて砂煙が吹き払われると、家の裏庭の砂漠の中に、ひっくり返った緑色の下水管みたいなものが見える。60ミリ迫撃砲の砲身である。
 ああ、60ミリで良かった。最初にそう思う。これが81ミリとか100ミリ以上とかだったら、わが家は半分がた消失していたところだった。
 インクでべたべたの素足のまま、私は裏庭───というか、砂漠へ下りていく。インクを砂漠の砂で落とすためである。
「ジョンジー、生きてるー?」
 ちょっと心配しながら爆心地へ声を掛けると、近くの穴───塹壕から掌が突き出され、ヒラヒラと振られた。
「おーう、こいつはちょいとしたもんだったな、腐っても60ミリは60ミリか」
 野戦服を着込み、ご丁寧にケヴラー製の防爆ベストとヘルメットまで被ったジョンジーが、半分ヘロヘロになりながら出てきた。
「だから、前から言ってるでしょ、迫撃砲の試射は、家から最低でも二百ヤードは離れてやってくれ、って! 誰が直す思ってんの、このテラス!」
 安心した私は腰に手を当てて、文句を言う。
「建て直すのは俺だ、文句あるか」
 ヘルメットを取って砂埃を払い、耳をぽんぽん叩きながら、ジョンジーは憮然とした顔で私に言う。
 確かに修理をするのはジョンジーかも知れないが、ペンキを塗るのはいつでも私の仕事になってしまう。従って、彼の物言いには説得力がない。
「じゃあ、僕にペンキ塗りさせないでよ!」
「俺はペンキ塗りが嫌いだ、。陸軍工兵じゃあるまいし。俺は名誉ある栄光のマリーンだぞ」
「名誉ある栄光の人間だったら壊すな! この所行のどこらへんに名誉と栄光があるんだ!」
 私はテラスのあった場所を指さしながら怒鳴った。テラス側の窓ガラスは全部割れてしまっている。窓ガラスはジョンジーが買ってきて入れ直すだろうが、爆風で滅茶苦茶になった部屋の掃除は、やっぱり私の仕事になる。
「だいたい、何で暴発したの、これ?」
 私は、横にひっくり返っている60ミリ迫撃砲を指さす。
「知るか。多分、弾薬の問題だろう。砲弾を落とし込んだ時にミス・ファイアだったから、警告してから塹壕に飛び込んだんだ」
 何故か胸を張りながら、そう言う。自分が逃げる前に、ちゃんと警告したぞと言いたいらしい。さっきの「伏せろ!」のことである。
「それは判ったけど、じゃあ、なんで砲身が倒れてんのさ」
 いくら不発や暴発でも、砲身が倒れてさえ居なければ(そして砲身内爆発でも起きない限りは)、砲弾は最低でも数十ヤード先で爆発し、家は壊れなかった筈である。
 髭を生やした顎に手を当てて、しばらく考え込んでから、ジョンジーは、ぼそり、と重要なことを言った。
「───壕に飛び込む前に、なんか足に引っかけたような気がする」
 そんな簡単なことでは済まされない。
「結局あんたのミスじゃないか!」
 私が断言すると、ジョンジーは怒りだした。
「何だと! 最初にミスったのは砲弾の方だ!」
「最初も最後もないの! 僕が前から言ってたように、家から二百ヤード以上離れた場所でやってれば、こんなことにはなんなかったでしょうが!」
「二百ヤード離れると、俺の身が危険になる」
「なんで!?」
「いざという時のための退避壕がない」
 ついさっき、ジョンジー自身が飛び込んだ塹壕を指さしながら言う。どうして一般家庭の庭先に塹壕があるのかは聞かないで欲しい。
「だったら二百ヤード先にも塹壕掘れ!」
「嫌だ。面倒くさい」
 結局のところ、この男の行動基準は「面倒」か「面倒ではない」かで決まるらしい。
「どうせ僕が手伝うんだから、面倒も糞もないでしょーが!」
 そう言うと、ジョンジーは一転ニコニコしながら、腰のポウチから折り畳みシャベルを取り出した。今の彼は、歩兵用野戦装備のすべてを身につけていた。
「おお、そうか手伝うか、なら今からでも掘ろう。エントレンチング・ツール(シャベル)はあるか? 現用より、五六年式装備の方を持ってきた方が掘りやすいぞ。土嚢の袋は納屋にある」
 だから今すぐ一緒に掘ろう、ということらしい。穴掘りのどこが楽しいのだろうか。
「穴掘る前に、テラスの修理!」
 もう一度、崩壊したテラスを指さす。しかし、ジョンジーはカラカラ笑いながら、こう言う。
「心配するな、テラスが一日や二日なかったからって、命に別状はない」
「なら、塹壕がなくたって命に別状はない!」
 そう私が反論すると、ジョンジーは、まるで阿呆を見るような目で私の顔を眺めながら、平然とのたまう。
「お前は、たった今の事故から教訓を得てないのか? いざという時に、堅固な防爆退避壕の有無が、兵士の生命に対してどれだけ重要な───」
「そもそも、一般家庭のお茶の間のど真ん前で迫撃砲なんか撃たなきゃ、関係ないんだってば!」
 アリゾナの八月、平和な昼下がりのことである。

 その日の夕方、我々はケロシン・ランタンの明かりの下で、「三つの嘘によって成立する野戦食」・MREレーションを食べていた。
 昼過ぎの暴発事故の際に、破片が自家発電器にも当たっており、発電器が動かなくなってしまっていたのである。プロパン・ガスの管も安全かどうか判らなかったので、ガス・レンジを使うのも控えた。第二次大戦中から使われていた野戦用GIバーナーが幾つかあったが、ホワイト・ガソリンがなかった(普通のガソリンでも動くが、後の手入れが面倒なので止めた)。何も料理が出来ないので、水さえあればそのまま食べられるレーションを食べるしかなかった。
 ツーソン市の市街地と違って、この家までは、電線が通ってきていない。電気製品は自家発電に頼っている。電話は無線電話だし、水道もないので貯水タンクに頼っている。発電器が壊れると、電池で動くもの以外の電化製品は全て止まってしまう。蛍光灯もつかないし、クーラーも動かない。
 アリゾナは───特にこのツーソン市の周辺、ピマ郡南部のカリーチュレイ地帯では───湿度が限りなくゼロに近いので、クーラーはなくても平気である。日陰に居れば、それほど暑くはないし、夜に蒸し暑くて寝付けないということもない、むしろ寒くなるほどだ。冬には零下まで下がることさえある。
 しかし、蛍光灯が使えないと、ものすごく不便である。都市部なら、部屋の明かりを全て消しても、真っ暗闇にはならないだろう。しかしここは砂漠のど真ん中である。新月の日などは、本当に何も見えなくなってしまう。
 家の中くらいは、真っ暗闇でもカンで歩けるだろうと思うなかれ、わが家は、廊下のど真ん中にジープのエンジンが置いてあったり、部屋中に空薬莢が転がっていたり、玄関の傘立てにスプリングフィールド小銃が立ててあったりするのだ、危険なことこのうえない。
 七歳ぐらいの頃に、古い雷酸水銀の17グレイン信管を踏んづけて、あやうく足の指を吹き飛ばされそうになったことがある。室内に砂漠の砂が吹き込んでいると思ってホウキで掃いていたら、実はそれが、缶からこぼれたIMR火薬だったという場合もある。弾薬箱だの銃の部品だの対人センサー・セットだのに足の小指をぶつけて爪を剥がすというようなことは日常茶飯事だった。
 ジョンジーはいつでもブーツを履いているから問題はないが、私はいつも素足で歩いていたので、わが家の廊下は地雷原と変わらない代物だった。私が今でも、季節に関わらず室内は素足で歩き回り、しかも爪先立ちのすり足で歩くのは、この頃についた習性が抜けていないためである(すり足で歩けば、踏んづける心配がない)。子供の頃の癖というものは、そう簡単には抜けないものだ。
 まあ、そんなわけで真っ暗だったので、テラスを直すのも、発電器を修理するのも、塹壕を掘るのも、明日にすることにした。やろうと思えば出来ないこともなかったが、不毛な言い争いに二人とも体力を使い果たしたのだ。
 私は極力、むすっとした顔を作って、黙って食事を続けた。そうでもしないと、ジョンジーはすぐに忘れてしまうのだ。少しは反省させなければならない。
「…なあ、ユウ」
 いい加減たってから、ジョンジーは気まずげに声を掛けてきた。私は黙ったまま、レトルト・パックの中にスプーンを突っ込んだ。中身はビーフ・シチューということになっているが、どっちかというと『ビーフ・シチュー味のビーフ・フレーク』と呼んだ方が近い。肉ばっかりでスープがない。だいたい、軍用野戦食というのは、そういう風になっている。
「ひとつ、気づいたことがあるんだが」
 私は黙ったまま、顔を上げる。
「二百ヤード先に塹壕を掘るとしても、問題がある」
 当然、謝罪の言葉が聞けるものと思っていたこともあって、不覚にも私は、きっちり反応してしまった。
「はあ?」
「二百ヤードも離れた場所に穴を掘ると、コヨーテの巣になって終わっちまうんじゃなかろうか」
「…」
 この人はいつもそうだ、なんにも判ってない。十一歳の僕より判ってない、と思った。
 これで四十歳過ぎた海兵隊少佐なんだから、世の中どこか間違ってる。
 私は黙って席を立つと、食べカスをごみ箱に放り込み、冷蔵庫からぬるくなったオレンジ・ジュースを取り出して一杯飲んでから、キッチンを───かつてキッチンと呼ばれていた場所を出た。ジョンジーの顔が見たかったが、我慢した。
 学校の宿題については諦めた。月の光だけで勉強は出来ないし、そんな状態でも勉強を続けるほど、私は真面目な生徒ではない。明日、また先生に事情を説明しよう。ジョンジーが迫撃砲を暴発させて家が半壊しました、お陰で宿題は出来ませんでした、と。
 先生はゲラゲラ笑いながら、許してくれるだろう。そして、「次に宿題を忘れたり、出来なかったりした時も、面白い話を聞かせてくれ」と言うだろう。「面白い話だったら、宿題の分はチャラにしよう」と提案してくるだろう。どうせサマー・スクールの宿題だ、いい加減なものである。
 笑われようが何だろうが、事実なんだからしょうがない。これが作り話や冗談だったら、どんなにか救われたことだろう。
 ところが、世の中とは、えてしてそんなものである。十一歳にして、溜息をつく癖がついている私であった。


 ジョンジーは私の養父である。実父はマージという。
 日本語で「養父」とか「実父」と言うと、なんか、他人にはあんまり言えないような、複雑な家庭事情があるんじゃないかな、という気がするが、私の場合、そういうものではない。単純に、預けられていただけである。
 実の父親が居ながら、どうして養父に預けられたのか、まずはそれについて説明しよう。

 実のところ、私は日本で生まれた。父親も母親も、人種的には日本人だ。ならば普通は日本人の子供になるのだが、私がそうはならなかったのは、複雑なようで簡単な理由によるものである。確かに生まれた場所は日本国内だったのだが、生まれた病院はアメリカのカリフォルニア州に属していたのである。───さあ、わけわかんなくなったね?(笑)
 ちゃんと順を追って説明しよう。それほど難しい理由ではない。
 私の実の父親、つまりマージは、人種的には日本人である。彼の父は赤坂郵便局の局長だった。母方の祖父は帝国陸軍の近衛騎兵だった。しかし現在、というか私が生まれた当時から、マージは日本人ではなくなっていた。国籍上のアメリカ人になっていたのである。
 どうして日本人がアメリカ人になれたのか。その方法は、合法的なものから非合法なものまで色々あるが、マージの場合は、アメリカ軍に入隊して、ヴェトナム戦争へ行って、合法的に国籍を取得したのである。どうしてアメリカ国籍が欲しくなったのか、正確なところは誰にも判らない。少なくともマージには、警官隊に投石したり、共産主義について熱く語り合う趣味はなかったようだ。彼が学生闘争に関与していたという話はとんと聞かない───もしも関与していたりしたら、きっとシャレにならんことをしていただろう。
 当時、アメリカ国籍を手っ取り早く取る方法として、アメリカ軍に入隊して軍役を全うするという手段は、けっこうメジャーなものだった。本来なら一年間だけ従軍すれば、数年後に国籍が取得出来たのだが、マージは海兵隊で、歩兵として四年間も勤務した。その勤務の間に、ケサン海兵基地という場所で、ジョンジーと知り合った。1967年のことである。マージは当時、海兵一等軍曹で、ジョンジーは中尉として臨時仮任命の中隊長代理(中隊長が戦死したため)をしていた。
 翌年の1968年、「テト・インベージョン(旧正月攻勢)」という大きな戦闘があって、この時にジョンジーは負傷して一時帰国するが、マージはそのままヴェトナムに居残った(ちなみにジョンジーは、その二年後の1971年に再びヴェトナムに戻ってくる。ただし今度は、歩兵指揮官ではなく攻撃機パイロットになっていた)。
 誰もが嫌がるヴェトナム戦争に八期、つまり四年間も行っていたので、国籍はあっと言う間に取得出来た。その後、日本の国籍を放棄したので、マージは「日本人の正博(マサヒロ)」から「日系アメリカ人一世のマージ」になってしまった。私の父親が、マージなどという女みたいな名前なのは、このためである。

 そして、私が生まれるわけだが、マージは、病院の費用を安く済ませるために、日本に居た自分の妻(つまり私の母親)を在日米軍の病院に入院させた。当の父親はアリゾナのとある大学で、弾道ミサイル工学と核物理学について勉強していた。当時の最先端技術である。
 あまり知られていないことだが、日本にある米軍施設は、アメリカの法律上はカリフォルニア州に属することになっている。だから法律はカリフォルニア州法が適用される。基地内にある学校なんかも、カリフォルニア州の定める義務教育制度に従っている。
 ここで二つの特殊な既成事実が生まれる。生まれた子供(つまり私)の父親はアメリカ人である。その子供は(法的には)アメリカのカリフォルニア州で生まれた。
 こうなると、もう自動的に、私は「生まれながらのアメリカ市民(これを「ナチュラル・ボーン・シティズン」と言う)」なのである。こういうシステムを、国際法上は「属地主義政策」という。
 一方、日本政府は「属人主義政策」をとっている。これは、どこで子供が産まれようが、その親が日本人なら、子供も自動的に日本人になる、というもので、血族を重視するあたり、やはり日本的である。日本政府から見ると、私の両親は文句なく日本人だったし、在日米軍基地の敷地内で産まれたとしても、まあ日本政府から見れば日本国内と言えるから、日本政府は日本政府で、その子供に日本国籍をくれた。
 こうして、立派な二重国籍児が産まれた(笑)。

 さて、産まれたはいいのだが、私は極端な早産で、極端な未熟児だった。体重は二千グラムを下回り、しかも、ほとんど死産(仮死状態)だった。出産に立ち会った軍医と従軍司祭が、寄ってたかって、ひっ叩いたり、ぐるぐる回したりして、むりやり私を蘇生したのだそうである。ありがたいような、迷惑なような話である。
 私は四月三十日の深夜、ちょうどヴェトナム戦争が終結した日に生まれた。しかし、その時点では、前述したように死亡しており、軍医と従軍司祭が一縷の望みをかけて行った蘇生が成功した時には、既に翌日の五月一日になっていた。そのため、私の誕生日は五月一日ということになっている。私の手元には、四月三十日付けの自分の死亡診断書(ただし書きかけのもの)が、記念品として残っている。なかなか貴重品である。自分の死亡診断書を読める人間など、そうは居まい。
 私の父は、アリゾナの大学で、新型の軍事衛星に関する設計図を書いている時に、その連絡を受け取った。まず最初に「あなたの御子息は死産でした」という電話を受け、それから二時間後に「あなたの御子息は復活しました」という電話を受けて、それに対する答えは、
「…洞窟の中にでも入れといたんですか?」
 だったそうである。イエス・キリストの復活に引っかけた、面白くもないジョークである。電話した従軍司祭は、マージに対して厳かに告げた。
「いえ。やや非カソリック的な手法が取られましたが、効果は絶大でした。見事に復活したからには、勝手に伝道活動へ行ってしまわないように、厳重な監視下に置く必要がありますな」
 と言ってから、こうつけ加えた。
「あなたの御子息を最初にくるんだタオルがあるんですが、くじ引きで分けましょうか?」
 父親のジョークに応じたわけである。
 これに対して私の父は、こう答えた。
「…お前ら、まさか息子を十字架に張り付けにして、槍で突いたんじゃないだろうな」
 残念ながら、私はゴルゴダの丘には行ったことがないし、ロンギヌスの槍で刺されたこともない。

 この意味不明なやり取りを交わした従軍司祭は、四月三十日の深夜、つまり「光輝ける聖なる炎の夜」ベルティーン祭の夜に生まれ、その時には死んでいたにも関わらず、翌五月の一日、つまり「聖母マリアの祈りの月」の初日になって見事に復活した子供に対して、運命的なものを感じたそうである。
 五月は「死と再生の月」である。同時に五月は、古いカソリック・ローマ歴では三月に当たり、「誕生と成長の月」とされている。確かに、すごい偶然の重なりである。
 このような運命的な符号に気づいたアイルランド出身の神父は感動して、自ら、この子供の洗礼を執り行い、アイルランドの守護聖人である聖パトリックから「パトリック」という洗礼名を与えることにした。この「パトリック」というミドル・ネームの、さらに細かい謂れについては、そのうち話すことにしよう。
 ちなみに、この神父こそ、我が人生に於ける最大の敵、ジャック・ジェイムソン退役中尉その人である。

 私の名前は、母方の祖父が前もって準備していた。祖父は旧大日本帝国陸軍の近衛騎兵連隊(天皇陛下の親衛隊みたいなもの)の出身で、昭和天皇の側に仕えていたことを最大の名誉と誇りにしていた。
 彼は「陛下」に頼んで、名前を考えて貰った。祖父は、「陛下」の名前から一文字貰って、名前を付けてくれないかと頼んだそうである。
 その結果、「裕介」という名前を頂いた。昭和天皇の「裕仁」の「裕」を貰ったわけである。真偽のほどは疑わしい、と家族揃って言っていたのだが、祖父の死後、彼の遺品の中から立派な書状が出てきて、本当に昭和天皇から頂いた名前だったということが判明した。たかが平民の子供(しかも米帝の国籍を持つ非国民)には、もったいない話である。というわけで、私は、アメリカ人であるにも関わらず、昭和天皇に対して好意を抱いているという、希有な人間である。
 しかし、日本名は「裕介」で構わないが、英名は「ユウスケ」という訳には行かない。「ユウスケ」はどう綴っても「Yusuke」にしかならない。その字面をそのまま発音すれば「ユサッキー」になってしまう。なんかロシアっぽい名前だ。
 子供の名前について電話で連絡を受けた私の親父は「二秒で(本人談)」英名を決めた。「ユウ」という。綴りは「Yu」となった。中国・香港系のアメリカ人には「ユウ」という名前があるため、さほど奇妙な名前ではないだろうと考えたらしいが、私はこの名前のせいで、後々えらく苦労することになる。

 裕介でありユウでもある子供は、二通の出生届を提出されることになっていた。一通は日本に、一通はアメリカに提出するわけだが、当の赤ん坊の方は、ずーっと死線をさまよっていた。いきなり小児肺炎に罹ったのである。最初の六ヶ月間は保育器から出ることがなかったという(そして、五歳になるまで、何回となく小児肺炎に罹り続けた。現在、煙草をばかばか吸ってる自分を考えると、とうてい信じられない事実である)。
 軍医は、どこか空気の良い場所で療養させることを勧めた。マージは少し考えて、アリゾナに住んでいる知人、つまりジョンジーに預けることにした。果たしてアリゾナが、虚弱な赤ん坊にとって良い環境なのかどうかは知らないが、軍医もジョンジーもこれを了承した。
 ここで問題が発生した。赤ん坊は、便宜的にカリフォルニア州で生まれたことになっているが、預けられる相手、つまりジョンジーはアリゾナに住んでいる。療養のためとはいえ、籍が全てアリゾナの他人の家庭に移されるとなると、これは養子の扱いと同じことになる。
 日本ではどうだが知らないが、アメリカでは養子縁組の手続きに関して非常にうるさい。同じ州内での養子縁組なら特に問題はないのだが、他州との養子縁組は、人身売買と同じ扱いを受け、重罪となる。これは、奴隷制度があった頃の名残りである。奴隷制度が廃止された直後には、養子縁組を装った人身売買が横行したため、厳しい法律が作られたのだ。
 マージがそのことを指摘すると、軍医はちょっと考えてから、おもむろに出生届を取り出して、『出生地:カリフォルニア州』という欄を『アリゾナ州』に書き換えて、その旨を電話で告げた。そして、二人ともそのまま書類を提出してしまった。何しろ正規の書類だから、やっぱりそのまま通ってしまった。
 こういう、いい加減な書類処理のお陰で、私は「アリゾナ出身」になった。だから私は、普段は「アリゾナ出身の日系人」としか、自分の出生については説明していない。それ以外の説明をしようとしたら、今までここで説明したような、長ったらしい説明をしなければならないからである。
 そして、零歳九ヶ月でアリゾナに預けられて以降、七歳になるまで、日本も、日本語も、ろくすっぽ知らずに育った。
 ついでに、自分に二歳年下の妹が居るいうことも、知らなかった(笑)。


 というわけで、実の親がマージ、育ての親がジョンジー、名付け親がファーザー・ジェイムソンと(しいて言うなら)昭和天皇なのである。
 預けられたジョンジーの家庭は、両親と娘二人という家庭だったが、娘は二人とも独立しており、家にはジョンジーとリズおばさんが居るだけだった。
 リズおばさんは、私が七歳になった年に、交通事故に巻き込まれて亡くなった。女手が無くなったため、私の身柄は、一度は日本に送り返されたが、言葉が全然通じない(何しろ当時の私は英語とスペイン語しか判らないから、実の母親との意志疎通が全く取れなかった。私の母は、海外旅行すらしたことがない、バリバリの日本人である)ので、再びアメリカに戻された。それからというもの、ある年はアリゾナで過ごし、その次の年は日本、その次の二年間はアリゾナ、というような生活をするようになった。
 私が十一歳になった年には、ジョンジーはユマ海兵航空隊基地に勤務しており、自宅から通勤していた。マージはハワイのスコーフィールド海軍基地に情報担当下士官として勤務しており(どうして、プリンストン大学とマサチューセッツ工科大学を卒業し、弾道ミサイル工学と核物理学の博士号を持つ人間が、下っ端の下士官なのかは、今もって謎のままである)、ファーザー・ジェイムソンは沖縄のキャンプ・ハンセンでベース・チャーチ(基地教会)の主席司祭をしていた。
 というわけで、私が十一歳の年は、アリゾナで過ごすことになった。