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◆ツーソンの日々・第三回 「長い一日」
<前編>
書き始める前から、こんなことを書くのもなんだが、恐らく今回は、くどくて長ったらしい文章になると思う。
その点は、どうか許して貰いたい。
私の一日は、0530アワー(午前五時三十分)きっかりに始まる。例え寝たのが午前四時だったとしても、五時半には目が覚める。
これは今でもそうである。十歳の時から、習慣として身についてしまっている。
砂漠の朝は早い。朝そのものが早い。山とかビルとか、そういった障害物がないから、太陽は水平線からそのまま出てきてしまう感じである。見たことがない人にとっては絶景かも知れないが、私にとっては見飽きた風景である。晴天以外の天候もまずあり得ないから、暗い夜明けなども見たことがない。もっと変化が欲しいものである。
で、太陽が自分の仕事を始めるのが早いのと同様に、私が目覚めるのも早い。太陽と同様に、私にも、それなりに仕事があるからである。
私は、寝覚めはいい方だ。決まった時間になると、パッと目が覚めて、パッと起きてしまう。ベッドの中でぐすぐずしていたことは、まずない。例え体長が悪くても、起きるだけは起きてしまう。そして、キッチンあたりで倒れることになる。二年生で肺炎に掛かった時には、学校の校門を踏み越えたところで力尽きた。
目覚まし時計をかける習慣もあまりないが、かけたところで、まず役に立つことはない。数多くの役に立たない特技のひとつに、「目覚まし時計を掛けた時間の五分前に目を覚ます」というのがある。ゆえに、目覚まし時計が役に立つことは、ほとんどない。例えば、「よし、明日は四時に起きよう」と思いながら寝ると、三時五十五分くらいに目が覚めるのだ。
逆に、下手に目覚ましなんか掛けておくと、起き出して身支度を始めた頃になって、唐突に鳴り出して、びっくりして、何度か反射的に撃ちそうになったことがある。「なんだ、目覚まし時計か」と気付いた時には、拳銃の照準を時計に合わせている自分にも気付くのである。
私は「撃ちそうになる」で止まるが、ジョンジーは反射的に「撃ってしまう」ことが多い。ジョンジーは寝起きが極度に悪い。かてて加えて、元来が短気な性格である。ちゃんと起きては来るのだが、起きてから三十分くらいまではいつでも機嫌が悪い。どれくらい悪いかと言うと、二十年ほど前、彼が初等適応訓練課程の初日の朝に、「とっとと起きろ、糞野郎ども!」と教官に怒られたのに対して、大声で「黙れ糞野郎!」と怒鳴り返したほどだ。当然、教官の逆鱗に触れ、その日の午前六時から午後九時までの間、延々と穴掘りをさせられたという。この話は、サン・ディエゴでは有名な話である。
ベッドで身を起こして、私が最初にすることは、時計のネジを巻くことである。この当時はタイメックスの安物の軍用手巻き時計を使っていた。後にストッカー・アンド・イェール(同様に安物の軍用手巻き時計)になり、ロンジン(優秀訓練生として新兵適応訓練センターを卒業した時に、ジョンジーから貰った自動巻きだが、金メッキでジジくさいので、あまり使っていない)になり、オメガのシー・マスター(准士官になった時に、ジョンジーに貰った自動巻き)になった後で、ハミルトンとブローバ(この二つは形見分けでビッグ・フェントンから相続したもので、手巻き)になった。
軍隊では───というか、前線タイプの軍人の多くは、電池式の水晶振動子時計(いわゆるクォーツ時計)を信用していない。いつ電池切れで止まるか判らないからである。その点、手巻き時計は、自分で忘れずに巻いている限りは、止まることがない。時計は思いのほか重要な「装備」のひとつで、時計が止まってしまったとか、時間が狂っていたというような些細なことが命取りにならないとも限らない。戦争映画などで、部隊の隊長が「よし、全員、時間を合わせるぞ」などとやっているが、あれは本当に重要なことなのである。
当時使っていたタイメックスは、十三回巻くと八分巻きになり、まる一日は動いていた。安物の手巻き時計は、巻き過ぎると壊れてしまうことがあるため、自分の使っているタイメックスの場合は、巻ききる一歩手前が十三回であることを突き止め、その回数までしか巻かなかった。今使っているハミルトンR88Nでは、そんなことはないが、やはり決まった回数(十八回)しか巻かないようにしている。
きっかり十三回巻き終わったら、部屋の隅に置かれた野戦病院用キャンバス・ベッド(点滴を吊す支柱や、食事をするための小さなテーブルも付いている)から飛び降りる(このベッドは、当時の私の腰ぐらいの高さがあった)。オリーブ・グリーンのトランクス・ドロアー(下着)一枚という格好のままで、固い野戦用毛布を畳み、オリーブ・グリーンと白のシーツを丁寧に直して、出来映えを確認してから、ベッドを離れる。
続いて、野戦用作戦指揮卓に向かう。これは、私にとっての学習机に相当する。デスク・ライトは今でも野戦用ケロシン・ランタン(灯油ランプ)だ。他にも野戦用GIバーナーがあるが、これは好きなときに好きなだけコーヒーが飲めるように置いているものである。
ホウェイブス・バーナーだけでなく、コーヒー豆の樽(私はキリマンジャロ派、ジョンジーはモカ派)とミル、ウォーター・ジャグまで室内に完備されているため、自室から「危険をおかして」キッチンへ行くことなく、コーヒーを煎れることが可能だった。材料さえあれば、料理すら出来ただろう───何しろ、キッチンをキッチンとして利用しているのは私だけである。ジョンジーはキッチンを工作台か何かと勘違いしているらしく、ガス・レンジを使ってプラスチック爆薬を溶かしたり、シンクでナイフを研いだり、シンクに嫌な匂いのする酸化剤を満たしてブルーイング(黒染め)をしたり、錆びた銃の部品を磨いていたりする。
ある日、昼食を作ろうとしたら、キッチン・ナイフが一本もなくて、代わりにマムルーク・ソード(海兵隊下士官の儀礼刀)しか置いてなかったので、そのサーベルでレタスを切ったことさえある(ちなみにヘンケルのキッチン・ナイフは、あまりにも出来が良すぎたため、グリップを作り直してコンバット・ナイフにされてしまっていた)。そんなキッチンは、極力見たくない。
というわけで、私の部屋には、ありとあらゆるものが突っ込まれていた。テレビやパソコンはなかったが、ラジオ代わりの野戦用無線機があり、ワープロの代わりに古いロイヤルの携帯用タイプライターとオリベッティの卓上タイプライターがあり、CDコンポの代わりに出力100ワットのアナログ・ステレオとSP盤用の蓄音機があった。以前はリビングに置いてあったグランド・ピアノまで、私の部屋に押し込まれていた(リビングは武器庫になってしまったからだ)。お陰で、畳に換算すれば二十畳以上もある筈の部屋は、非常に狭苦しくなっていた。
野戦用作戦指揮卓の上に並べられている野戦用ベルトとホルスターを取り、椅子に掛けられた野戦用ユーティリティ・バッグ、野戦用サバイバル・キット、軍用腕時計、所持金などの入ったポウチを抱えて、野戦用ロッカーの前へ行って、やっと着替えである。着替えは野戦用ロッカー(フット・ロッカー)に入っている。ただし中に入っているのは野戦服ではなく、ごく普通のジーンズのパンツとコットンのダンガリー・シャツである。
───あらゆる家具が「野戦用」なのは、趣味のせいではない。それが一番安いからである。この家の当主は、しゃれた家具とか高価な装飾品には興味がない。全てが実用本位であり、かつ安価でなければならない。
先任少佐ともなれば、かなりの給料が貰える筈なのだが、たいがい、燃料費とか武器弾薬費とか酒・煙草に消えてしまうから、わが家が金持ちだった試しはない。そのくせ気前が良くて、しょっちゅうバーで「全員に一杯おごり」とかやるもんだから、毎月ギリギリの生活になってしまう。となると、自動的に、軍放出品や軍用品で、日用雑貨を賄うことになる。例えば、まともなベッドを買おうと思ったら、最低でも百ドルから二百ドルは必要だが、これが軍放出品なら二十ドルとしない。外見を気にしないのなら、良い買い物である。軍放出品は、なにしろ安くて頑丈なのである。
ジーンズのパンツとシャツを着て、装備を全て身につけると、最後にガン・ロッカーの前へ行く。その中に入っている軍用拳銃、コルト・オートマチックM1911ピストルをホルスターに納めてから、マガジンに弾丸を詰める。この時、マガジンを子細に点検して、変形したものや錆びたものは除外しておく。さもないと、いざという時にジャミング(弾倉送弾不良、あるいは薬室装弾不良)を起こして撃てなくなるかも知れないからだ。
ある種の銃器のマガジンは非常にデリケートで、例えば米軍正式採用ライフルであるM16アサルト・ライフルの三十連装マガジンは、床に落としただけで変形してしまい、ジャミングを起こす場合がある(こういう問題の多くは素材に理由があって、たいがいマガジンが柔らかいアルミで出来ている。アルミで作れば安上がりだからだ)。
銃本体も弾丸も問題がないのに、マガジンが変形していたばっかりに、いざという時に使いものにならないのでは悲し過ぎる。実際、ヴェトナム戦争で死んだり負傷した兵士の多くに、自らの武器であるライフルの作動不良が遠因として存在したという話があるくらいで、マガジンの変形も馬鹿に出来ない(ただしヴェトナム戦争時のM16ライフルには、銃そのものにも欠陥があったのだが)。
詰め終わったマガジンは、二の腕に軽く叩きつけて弾丸を揃えてから、おもむろにポウチに差し込み、一本はピストル本体に装填する。スライドを引いて初弾を装填してからマガジンを抜いて、一発足して、また二の腕に叩きつけて弾丸を揃えてから、元に戻す。これで、オートマチック・ピストルに弾丸を詰めるだけ詰めた状態、俗に言うコンバット・ロード状態になる。
最近のピストルの多くは、小さな9ミリ(0.357インチ)弾を十五発以上も装填可能だ。今では、ブレイディ銃器規制法が施行されてしまったお陰で、民間では最大十発(ライフルは五発)までに制限されてしまったが、当時は十五発、十七発装填のピストルがごろごろしていたし、ガン雑誌の巻末には必ず、『あなたの銃のファイアー・パワーを最大限に引き出す!』なんていうコピーと共に、五十連発、百連発などというキチガイじみたマガジンの広告が並んでいたものである。今では非合法化されて、すべて倒産してしまったが。
ファイアアームズ大国である筈のアメリカは、自国製品が振るわず、売れ行きも思わしくなかった(この点は今もあまり変わっていない)。天下のコルトは倒産寸前(後に倒産、コネチカット州のテコ入れで復建)、スミス・アンド・ウェッソンは傑作オートマチックとして名高いM645をグレード・ダウンしてひんしゅくを買っていた。メイド・イン・USAはなりをひそめ、外国メーカーが幅を利かせていた。ちょうど、アメリカの大不況の前触れぐらいの時期だった(ジャパン・パッシングが始まるのは、それから数年後のことである)。
当時の最新型で、最も流行していたピストルと言えば、イタリアのベレッタと、オーストリアのグロックだった。双方とも9ミリ・オートで、ベレッタM92F(軍ではM9として採用している)は十五連発、グロック17は十七連発。双方とも、さらに装弾数を増やせるマガジンが販売されていた(グロック社などは純正品として『プラス・ツー』というマガジンを出していた)。双方とも結構な値段だった(確か六百ドル前後)が、それでも売れまくっていた。
そんな時代にあってもなお、コルト・オートマチックは45口径(11.43ミリ)の大きな弾丸を使用するため、マガジンに七発しか入らない。平均的装弾数の半分以下である。チェンバー(薬室)まで目一杯に入れてプラス一発、合計八発が最大装填数となる。
一般には、安全性を考慮してチェンバーはカラにしておく(リボルバーなら、一発抜いて、カラのシリンダーをバレルに合わせておく)のが常識だが、それは「わが家の常識」とは合致していない。というわけで、詰められるだけ詰めてコンバット・ロードにして、その状態で常に携行していた。
かくして、シャツとパンツ以外は全て軍用品、しかも素足で、何故か武装している十一歳は、部屋を出る。普通は、洗面を済ませてから服を着るような気がするが、わが家では、真っ先に身支度を済ませ、一番最後に洗面をすることになっている。腰に銃をぶらさげて、歯を磨くわけだ。
我が家の三つの家訓のひとつ、「備えよ、常に」を実践している結果である。
私がバスルームで顔を洗っているくらいの頃になると、フォレスト・グリーンの軍服を完璧に着込んだジョンジーが出てくる。ただし、最近薄くなってきた頭に載せてあるのは、立派な金糸刺繍で柏葉が描かれた佐官用制帽ではなく、サイズが小さすぎてユダヤ教徒のヤムルカ(丸い帽子)みたいに潰れたギャリソン・ハット(舟形略帽)である。
腰のツー・バックルのピストル・ベルトには、第二次大戦時の旧型フラップ付きホルスター、M1917が下げられており、そこには1941年製のコルトM1911A1オートマチックが収められている(M1911は第一次大戦前のモデルで、同A1型は第二次大戦前のモデル。私のM1911と比べれば、新型に相当する)。
軍属と言えども、市街地で武装することは禁じられている。無法地帯だと思われているアメリカでも、市街地で公に武装しても構わないのは警察官だけである。街で公然と武装していれば、シェリフに撃たれても文句は言えない。
基地内でさえ、武装して歩けるのはMP(憲兵)だけなのだが、ジョンジーは平然と、武装して基地内を歩き、そのままツーソン市で買い物をしたりする。勤続二十五年の少佐、それも我を通すことについては最強のジョンジーが、二十年掛けて手に入れた「特権」である。そして、十一歳の子供が公然と武装していても文句を言われないのは、単純に、ここがド田舎だからなだけである。さすがの私も、ツーソン市まで出掛ける時には、コンシールド・ホルスター(隠し持つために特別に設計されたホルスター)に銃を移し、ガン・ベルトは飛行機の中に置いていく。
そういう気遣いのまったくないジョンジーの肩には金の柏葉、つまり少佐の階級章が付いている。こんな非常識な男が少佐であることも信じられないが、肩の階級章が、わざわざ貴重なイーグル金貨を二枚鋳潰して、ニュー・ヨークのメイヤーズ・インシグニア社に特注した代物であることもまた、信じられない事実である。
ジョンジーは決して洒落者ではないが、こういう点にだけは妙に気を使う。銀色のバッジはスターリング・シルバーで、金色のバッジは18Kゴールドで作らせるのだが、ただ単に金銀で特注するのに飽きたらず、イーグル金貨とか、メイプルリーフ銀貨とかを、わざわざ鋳潰して作らせるのだ。海兵隊の士官襟章は正装用が金色と銀色のツートン・カラー、勤務服用は艶消しの黒だが、ジョンジーの場合、これらはそれぞれ金と銀、チタンにアルマイト焼き付け処理で作らせた特注品であった。しかし、見た目からは、そんなことは判らない。ただの金色、銀色のバッジにしか見えない。つまり、これらの「おしゃれ」は、あくまでも自己満足のためだけに行われるものなのである。
暑いアリゾナでは、ほとんどの軍人が夏期略装、つまり薄手の開襟シャツにスラックスという格好であるにも関わらず、ジョンジーだけは、必ず制服をきちんと着込む。自分の体にぴったりのサイズ、普通のサイズよりもワン・サイズからツー・サイズ下のサイズを着るのが海兵隊流の着こなしとされているため、ちょっと窮屈そうに見える。それが、フォレスト・グリーンという極度に暗い色と相まって、なおさら暑苦しく見える(だからと言って、陸軍のアーミー・グリーンもまた、日本の郵便局員みたいで変だが)。
制服には、海兵隊員が取得可能とされる、ほとんど全ての技能章が付けられている。胸のネイヴァル・パラシューティスト・バッジ(海軍上級空挺章)と、それに良く似たネイヴァル・アヴィエイターズ・ウィング(海軍航空翼章)、二つのディスティングイシュッド・マークスマンシップ・バッジ(最上級射撃技能章)の金色は、同じ色の階級章とマッチしているが、冗談みたいな略授の量(とても少佐のそれとは思えない)が、全てを台無しにしている。
その略授は将軍もかくやというほどで、彼の左胸で長方形の装甲板みたいになっている。しかも、ほとんどの略授にデバイスやクラスター(追加叙勲)が付けられている。最も多い特別追加叙勲は「レター・V」と呼ばれる、アルファベットのV字を型どったもので、これは「比類なき勇敢さにより」その勲章を授与されたことを示している。Vとはヴェイラー(勇気)の頭文字であり、ヴィクトリー(勝利)の頭文字でもある。モールス信号では短・短・短・長の四つの音で構成され、ベートーヴェンの交響曲第五番「運命」になぞらえられる。
軍人の略授ほど、その人生を端的に表すものはない。略授が「読める」ようになると、相手の人生の半分が判る。例えばジョンジーの場合、士官にも関わらず海兵善行章の略授を付けていることが、叩き上げの士官であることを物語っている。二つの紫心章は、彼が二度、戦闘により負傷したことを示し、莫大な数の追加叙勲デバイスが付いた航空章、青銅星章、銀星章と、略授の一番上、左側にある海軍十字章は、彼が残した類希な戦歴を雄弁に物語っている。海軍戦闘行動章の代わりに陸軍歩兵戦闘バッジを付けていることから、彼が陸軍と合同で実戦に参加した経験があることが判る。
数々の従軍章と海外遠征章から、彼が太平洋・大西洋・インド洋・北極海域・中東及びアフリカ方面・極東方面に従軍したことが判るし、韓国・フィリピン・旧西ドイツに駐留した経験があり、しかも人生の大半を海外で過ごしたことが判る。追加叙勲が数え切れないほどあるヴェトナム従軍章は、彼が合計五年間も、南ヴェトナムで戦った証だ。また、人道支援遠征章や国連軍遠征章、多国籍軍遠征章(湾岸戦争の連合軍ではなく、中東戦争の多国籍軍のもの)は、彼が幾つかの平和維持活動に参加していたことも意味している。およそ海兵隊員が派遣された全ての場所に、彼は出向いた経験があることを示している。
このように、胸の略授は、人生の縮図となる───私のように、あんまり下っ端過ぎると、みんな似たり寄ったりで、区別のしようがないのだが。
ジョンジーは五時に起き出して、軍服を着込んで洗面を済ませ、五時半になると、ある儀式を行う。歴代フェントン一族に対する敬意を表するのである。
わが家には「遺産の部屋」という部屋がある。他の部屋は概ね散らかり放題で滅茶苦茶だが、この「遺産の部屋」と書庫、それに私とジョンジーの自室だけは、いつも完璧に掃除されている(誰あろう私がやっている、というか、やらされている)。今世紀初頭のままの内装が残されており、サーベルやライフル、穴だらけの星条旗、大統領特別感状や勲章が飾られているほか、壁一面に肖像画が掛けられている。
ジョンジーは制服にサーベルをさげて、恭しくこの部屋のドアを開ける。そして、五人の英雄の肖像画に最敬礼を施す。
氏名不詳のフェントンのご先祖は、プロイセン騎兵の派手な正装を着ている。この人物の詳細は、まったくの不明。
ジョージ・フェントン・世は第一次大戦中にドイツ軍の毒ガス攻撃を受けてイーペルで戦死。最終階級は死後昇進の中尉。
ジョセフ・フェントンは第二次大戦のバストーニュの戦いでラ・ロッシュ城を攻め落とした後、行方不明。最終階級は死後昇進で少佐。
ハロルド・フェントンは英国本土航空決戦のエース・パイロット。ハリケーン飛行中隊の隊長だった。最終階級は中佐。
最後の額には、まだ覆いが掛けられているが、これはジョンジーのお父さん、ジョージ・フェントン・世の肖像画である。硫黄島(日本)と長津湖(韓国)の英雄であり、最初にヴェトナムの砂浜に脚を降ろした者たちの一人。極東に於ける水陸両用戦のドクトリンを確立した戦術士官。フォレスタルをして「今後三百年間、海兵隊が無条件に存続するであろう」と言わしめた男であり、ニミッツが「硫黄島で戦った者たちにとっては、卓抜した勇敢さなどは平凡な美徳でしかなかった」と評価した者たちの一人。最終階級は最先任大佐(連隊長)。
私が十一歳の当時、癌で入院しており、先は長くないと言われていたが、それでも週に一度は射撃場へ行って「訓練」を怠らなかったし、また、医者が真っ黒になった肺のレントゲン写真を示して脅そうとも、その脅迫に屈することなく葉巻を吸い続けていた(彼は1990年末に、湾岸戦争の結末を見ることが出来ないのを惜しみながら、この世を去った。末期癌であるにも関わらず、鎮痛剤の投与を拒否して、最後まで「海兵隊員らしく戦い抜く」という彼の言葉通りになった)。彼は将軍もかくやという盛大な国葬の後に、最後の任地、アーリントン国立墓地に「配属」された。
ジョンジーが死んだら、彼も、この部屋に「仲間入り」をすることになっている。その肖像画は私が掛けることになるだろう。約百年前に渡米したフェントン家の血筋は、それで絶えることになる。
ジョンジーには息子が居ない(しいて言えば私がそうなのだが、血縁はない)から、跡を継ぐ者はない。アメリカのフェントン一族は滅亡し、ブリティッシュのフェントン家が残るのみとなる。
フェントン一族はドイツの出身で、ご先祖様はプロイセン騎兵だという。後にイギリスに移り住み、その中の一家族はアメリカに渡った。人種的には、ドイツ系あるいはスコットランド系のアメリカ人である(ドイツ系アイルランド人が移民してアメリカ人になった、という説もあるが、詳細は不明)。変なところで生真面目なのはドイツ系っぽいし、豪放な点はスコットランド系の血によるものなのだろうか。
代々、軍属の家系であることを誇りとしている点は、スコティッシュと言うよりはハイランダーに近い。ジョンジーがハイランド氏族の出身で、どこぞの小さな城の統領で、ご先祖はハイランド・クレイモアか何かで敵の首をはね飛ばしていたと言われても───さもなければ、ジョンジーの本当の名前はダンカン・マクラウドとかなんとかいって、妙な日本刀を片手に、「最後に生き残るのはただ一人!」などと叫びながら、時空を越えて戦っていたとしても───私は疑問に思わないだろう(良く考えてみれば、その役は、どっちかと言うとファーザー・ジェイムソンの方が似合ってるかも知れないが)。
今まで、アメリカのフェントン一族の長男は、必ず海兵隊に籍を置き、英国のフェントン一族では、男子は全員、「女王陛下の軍隊」に籍を置いていた。また、代々軍人の家系であるという伝統以外に、フェントン家は代々「型はずれな軍人」の家系である、という伝統もある。全員が、公刊戦史には載らないまでも、記録に値するような逸話を幾つも残しており(また実際に、何冊かの戦史に名を連ねており)、たいがい、部下からの受けは良いが、上官からの覚えはめでたくない。
故に、フェントン一族から、将官旗を掲げる身分にまで出世した者は出て居ないし、将官になろうとした者も居なかった。将官になることは、すなわち前線から遠のくことであり、彼らが最も嫌うタイプの軍人は、机の上で作戦を練って、他人に命令するだけの士官だった。
ジョンジーは嘆く。「兵士と生死を共にしない将軍はカスだ」。現行の命令系統では、将軍が最前線に立つことは考えられない。彼はパットンを手本とし、バックナーを讃える。パットンは自らの戦車軍団を率いてヨーロッパを横断し、バックナーは常に前線の塹壕に身を置いて戦死した。
ジョンジーと文学は最も縁遠い関係の一つに思えるが、彼は好んでテニスンの詩集を読む。彼が愛読する三冊の本は、ジョーンズの『地上より永遠に』と、テニスンの『天路歴程』、そして『海兵隊野戦指揮官マニュアル』である。私がシェークスピアの『ヘンリー五世』を勧めてみると、これも彼の愛読書のひとつとなった。また、吉田満の『戦艦大和ノ最期』は、私が翻訳したのだが、泣きながら読んでいた。
フェントン一族は、傍目から見れば戦争バカの一族にしか見えないが、揃ってロマンチストであり、部下に対する思いやりに溢れ、権威を嫌い、死を恐れない。彼らの勇気が、一体どこから沸いて出てくるのか、私には判然としない。それくらいに、フェントン一族の勇猛果敢さは特筆に値する。故に、数々の戦績を残し、部下に恵まれた反面、上官の怒りを買って、昇進は最低のスピードとなるのである。
例えば、第二次大戦で戦死したジョセフ・フェントンは、兄のジョージ・フェントン・世が海兵隊に志願したのに対抗して陸軍に志願、ヨーロッパ戦線では空挺歩兵の大尉として活躍した。
彼が最後に作戦を指揮したラ・ロッシュ城の攻略戦は非常に激しいもので、ドイツ軍は城に立てこもって、四方八方に向かって大砲をぶっ放していた。アメリカ軍は、断崖絶壁と城壁に守られた敵軍に悩まされていた。立てこもるドイツ軍は精鋭で、降伏勧告には一切応じず、徹底抗戦を続けた。彼らの補給物資は豊富で、他方、アメリカ軍は物資が底をつきかけていた。城壁がある限り、内部に立てこもるドイツ兵を倒すことは出来ない。
そこでジョセフおじさんがどうしたかと言うと、城壁のど真ん前まで対戦車砲を引きずって行って、城壁に向かって対戦車徹甲弾をゼロ距離砲撃したのである。
当然、城壁は崩れ、アメリカ軍の歩兵は雪崩を打って城内に侵入した。ところがドイツ軍にも、ジョセフおじさんと似たようなメンタリティを持つ人間が居たらしく、城内の廊下に榴弾砲を引きずり出して、発砲したのである。
室内で大口径榴弾砲など撃とうものなら、結果は明白である。お陰でラ・ロッシュ城は半壊、ドイツ軍は全滅、アメリカ軍はと言えば、酷い損害を受けた挙げ句に、ぶっ壊れて役に立たない城をひとつ手に入れることになった。
しかしジョセフおじさんは、「ラ・ロッシュを陥落させた英雄」として記録されることになった。その数日後、別の任務に就くためジープで移動中に行方不明となり、「作戦行動中行方不明」から一ヶ月後、遺体も確認出来ぬままに「作戦行動中死亡」とされた。彼は死後に少佐となり、陸軍殊勲メダルを授与された。
言うまでもなく、この殊勲メダルが持ち主の手元に届くことはなく、現在は額に入れられて、大統領部隊特別感状と共に「遺産の部屋」に飾られている。
第二次大戦時、英国ハンプシャーのミドル・ウォロップ・フィールドに駐留するRAF(英国王立空軍)第三二八ハリケーン飛行中隊の中隊長だったハロルドおじさんは、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)のメッサーシュミット戦闘機隊を相手に、単機で果敢に立ち向かった「英雄」である。彼は生涯撃墜機数九機(Me109二、Me110二、Ju87四、Ju88一の合計九機)の撃墜王である。
彼が指揮した第三二八ハリケーン中隊は、「ハリケーン戦闘機、芝生の滑走路、戦意、女王陛下に対する忠誠心、食欲。これら以外のものを何一つとして持ち合わせていない」飛行隊だった、とハロルドおじさんは述懐した。部下の大半は新兵で、平均訓練飛行時間は十五時間、ひどい隊員は三時間しか飛んだことがなかった。中隊の十二人のパイロットが一緒に編隊飛行訓練をしたことは一度もなく、彼らの基本戦術であった「V字編隊」や「死の車輪」どころか、満足に離着陸さえ出来ない状態だった。
ハロルドおじさんには、「リンデマンの馬鹿野郎」を恨んで日々を過ごす暇さえなかった。ミドル・ウォロップに配備されて数週間後に、ナチス・ドイツの対英空爆作戦、『鷲の日』作戦が始まってしまったのである(フレデリック・リンデマン博士はチャーチル卿の技術顧問で、パイロットの不足を補うために、訓練時間の短縮を提言した人物である)。
この、一九四〇年八月一日から始まった、ドイツ軍による対英本土空襲は、連合軍側からは『バトル・オブ・ブリテン』とか『英本土航空決戦』などと呼ばれている。ドイツ空軍航空隊四百機VSイギリス王立空軍三百機、というような、今では考えられない規模の空中戦が、約二ヶ月に渡って繰り広げられた。
八月八日、二五隻の英国輸送船団を護衛するという重要な任務を帯びて初陣を飾った第三二八ハリケーン中隊は、その能力をいかんなく発揮してしまった。編隊飛行はもちろん、機銃すらろくに撃つこともできず、大半が逃げ帰るしかなかったのである。ハロルドおじさんは無線で怒鳴り続けた。
「逃げるな、戦え! それでも栄えある王立空軍のパイロットか!」
返信はこうだった。
『済みません、もう機銃弾がないんです!』
敵機が見えるか見えないか、という距離で引き金を引いてしまった者が大半で、敵を射程に捉えた頃には、弾丸が尽きてしまっていたのである。
こうして、ハロルドおじさんがユンカースJu87シュトゥーカ急降下爆撃機を一機撃墜した以外には何も戦果はなく、全機が必死になってミドル・ウォロップまで逃げ帰った。中隊の十二機のうち、出撃時に離陸に失敗して大破したものが二機あり、部隊は十機に減っていたが、さらに行方不明となった機が二機あった。戦力の三分の二が、初日で消滅したことになる。
ウォロップに帰還したハロルドおじさんは、二機の未帰還機を探すため、ドーバー海峡へ戻ることにした。恐らく撃墜されたのだろうが、運が良ければパラシュートで脱出して、ドーバー海峡のどこかに浮かんでいるかも知れない。ハロルドおじさんは燃料の補給だけ済ませると、急いで再離陸して、再びドーバーへ向かった。
ところが、さっきの戦闘の後も残っていた敵の戦闘機に発見され、四機の敵機を相手にしての空中戦となってしまった。凄腕のハロルドおじさんは、直ちに接近線に持ち込み、一機のメッサーシュミットの尻に食いついて、引き金を引いた。しかし、機関砲はうんともすんとも言わなかった。最初は故障だと思ったが、すぐに思い出した。燃料は補給したものの、撃ち尽くした機銃弾の補給はしていなかったのである。
しかし、敵を前にして「逃げる」という行為を潔しとしないフェントン一族の血が騒いだのか、ハロルドおじさんは唐突にキャノピーを開くと、腰に差していたウェブリーを引き抜き、敵機に向かって撃ちだした。ウェブリーは、当時の英軍正式採用リボルバー拳銃である。
もちろん、天下のメッサーシュミットMe109が拳銃で撃墜される筈もなく、ハロルドおじさんのハリケーン戦闘機は撃墜され、ドーバー海峡にパラシュート降下することになってしまった。幸運にも、王立海軍の対潜防護網敷設艦、HMSバセットが近くで文字どおり「網を張っていた」ため、これに救い上げられた。バセットに引き上げられた時、ハロルドおじさんは悔しさのあまりウェブリー拳銃を握り続けていたため、水兵たちはびっくりして後ずさり、大声で言ったそうである。
「少佐、落ちついてください! この船は女王陛下の船です!」
ドイツの船と勘違いしているんじゃないか、と思ったのだろう。
かくして飛行隊長は、機銃弾のないハリケーンでメッサーシュミットに立ち向かって、見事に撃墜され、ずぶ濡れになり、飛行機ではなく汽車に乗って基地に帰ってきた。ところが、この間抜けな行動は、部下たちに賞賛されるところとなった。「隊長は、俺たちのことを心配して、機銃弾も補充しないで捜索に行ってくれた!」というわけである。
残念ながら、その後の出撃で二人の小隊長が負傷ないし戦死し、さらにハロルドおじさん自身も負傷したため、第三二八ハリケーン中隊は、再編成のためにミドル・ウォロップからコーンウォールへ移されてしまった(コーンウォールの司令部にハロルドおじさんが戻ってきた時には、部下は四人しか居なかったそうである)が、ウェブリー拳銃でメッサーシュミットと戦ったハロルドおじさんの名前は、王立空軍の「奇跡」として長く言い伝えられた。
ハロルドおじさんは既に亡くなっているが、私が七歳の時にイギリスで彼に会い、その時の話を聞いた時に、こう訊ねた。
「どうして燃料だけで、機銃弾は補充しなかったの?」
ハロルドおじさんは、立派なカイゼル髭をいじりながら、こう答えたものである。
「ふむ、良い質問だ。あの時、私は重要なことを忘れていたのだ」
「何を?」
「お茶の時間なのに、お茶にするのをすっかり忘れておったのだ。ゆっくり紅茶でも飲めば、弾薬も補充すべきであるという点に気づいたのだろうが、私は時計を見ることさえ忘れていてな、いや、まったく失策だったな」
「機銃の弾丸があれば、敵を撃墜出来たのにね」
私が慰めるように言うと、ハロルドおじさん(と言うよりは、おじいさんだが)は不思議そうな顔をした。
「何を言っとる? 私は機銃弾のことを言ってるんじゃない、ウェブリーのことを言ってるんだ。もう少しウェブリーの予備弾薬を持っていれば、下品なメッサーシュミットなんぞ簡単に撃墜出来たものを。いや本当に残念だったな」
これがヴィクトリア十字勲章受勲者の台詞かと思うと、私はぞっとする(笑)。
彼はフェントン一族の例に漏れず、最後まで筋金入りの軍人であった。後に肺炎が悪化して、九十歳で亡くなったのだが、自宅のベッドに横になったまま、死の寸前まで『ルール・ブリターニア(英国の統治:英国の愛国的な愛唱歌)』を歌い続けていたという。
そして、現当主も、歴代のフェントン一族の伝統に恥じない(?)様々なエピソードを残している。
例えばヴェトナム戦争中の1967年、アナポリスの海軍士官学校を卒業して、第三海兵師団・第三海兵遠征部隊の歩兵小隊長になったばかりのジョンジーは、二十人の部下と共に偵察任務に就いていたのだが、その途中、奥深いジャングルの中で、北ヴェトナム軍の大部隊と遭遇してしまった。敵の兵力は数千人規模。とてもじゃないが勝てる見込みはない。
見なかったフリをして逃げてしまうのが一番の手だが、ジョンジーは直ちに無線で海軍航空隊を呼び出し、爆撃支援を要請した。海軍のF−4ファントム戦闘攻撃機が飛来し、彼が指示した場所にクラスター爆弾を投下した。爆弾は見事に目標を捉え、敵は大混乱に陥った。
ジャングルの中に居る部隊は、空から見ただけでは発見することが出来ないことを良く知っている敵軍の指揮官は、近くに米軍の偵察隊が居るものと判断し、捜索を開始した。すぐさま二十人の小隊は発見されたが、ジョンジーたちは逃げては撃ち、撃っては逃げ、というのを繰り返しながら、延々と砲兵隊に指示を出し、敵軍を砲撃させた。陸軍の小さな前哨基地を発見して逃げ込んだ時には、敵軍は散り散りになって姿を消していた。
しかし、まだ多数の敵兵が居ることは明白であり、同時に、この陸軍前哨基地が発見されたこともほぼ確実だった。敵が姿を消したのは、混乱を収拾して、隊列を整え、改めて攻撃を始めるためであることは確実だった。
前哨基地には百数十人の兵力しかなく、数千人の敵兵に攻撃されたら、あっと言う間に全滅してしまう。陸軍の基地司令は退却を決定し、全員が輸送機で脱出することになったが、その輸送機を安全に離陸させるには、数十人の兵士が最後まで残って滑走路を防護し、かつ徒歩で脱出するしかない。たった今脱出してきたばかりのジョンジーの海兵偵察小隊は、その「囮任務」に志願した。
百数十人の陸軍兵士は、空軍の小型輸送機で安全に脱出し、ジョンジーたち二十人は、銃撃してくる敵兵に対して徹底的に応戦し、航空隊の戦闘攻撃機や砲兵隊に座標を指示し続けた。最後にはB−52戦略爆撃機隊まで呼び出して、絨毯爆撃させた。
そして、ふと気づくと、敵兵は完全に姿を消していた。彼らはたったの二十人で、数千人の敵軍を撃退してしまい、なおかつ、負傷者すら出さなかったのである。
全滅すると思っていた基地が維持されてしまったので、脱出した陸軍兵士たちは、慌てて基地に戻ってきた。そして、入れ替わりに、輸送機に乗って基地に帰ったジョンジーたちは、滑走路に降り立った途端に、大佐や将軍連中の握手攻めにあい、全員に「その場で」シルバー・スター戦功勲章が授与されたという。
このエピソードは、まだましな部類に入る。一応、軍事的な功績だからだ。
彼の残したエピソードの大半が、以下のような種類のものである。
前述したエピソードの翌年の1968年に脚を負傷したジョンジーは、歩兵任務不適格とされて、傷痍除隊を宣告された。しかし軍医をピストルで脅迫して、この医療報告書を撤回させることに成功し、引き続き任務に就くことになった。
しかし、歩兵の命である脚を負傷し、セラミックのボルトが四本も入った状態で、過酷な歩兵任務が遂行出来るかどうかは疑問である。そこで彼は海兵航空隊に転属し、戦闘機パイロットを目指したが、紆余曲折の末に戦闘攻撃機(爆撃機)のパイロットとなった。
そして1972年、海兵航空隊のパイロットとしてダナン基地の第一海兵混成航空団に居たジョンジーは、自分の乗るA−6イントルーダー攻撃機に機銃が搭載されていないことに不満を持っていた。
A−6は基本的に爆撃機で、当時としては最高の各種電子装置を装備しており、大型爆撃機並みの航続距離を誇る反面、速度が遅く、機銃が搭載されていなかった。敵の戦闘機に遭遇した時には、文字どおり、逃げの一手しかなかった。戦闘機乗りを志望していたにも関わらず攻撃機パイロットにされてしまった彼は、それでも敵の戦闘機を撃墜して、「エース」(敵機を五機以上撃墜した者に与えられる称号)となるのが夢だった。
そこで彼は、ハロルドおじさんを見習うことにした。つまり、口径7.62ミリのM14ライフルを担いで飛行任務に出動し、敵の戦闘機が出て来たら、そのライフルで撃って、撃墜しようというのである。
しかし彼の相棒の爆撃航法員が、それを止めさせた。
「ジョンジー、そんなもんでミグが撃墜出来ると思ってんのか?」
この相棒は良識人だった。
「M14じゃ威力が低い。グレネード・ランチャーの方がいいんじゃないか?」
相棒に諌められて考えを改めた彼は、今度はM79グレネード・ランチャーを持っていくことにした。口径40ミリの擲弾筒である。しかし今度は、整備班の仲間たちが彼を押し止めた。
「中尉、40ミリは弾速が遅すぎて、ジェット戦闘機には命中させられませんよ」
整備員の勧めに従って、今度は機関銃を使うことにした。
ジョンジーは、ワッペンなどをボンドで糊付けしてでっち上げた、ニセの陸軍制服を着込んで陸軍基地へ出掛けていき、M2重機関銃を二挺、盗んできた。整備班はこれに改造を加えて、A−6攻撃機の翼下爆弾架(爆弾を搭載する場所)に溶接した。引き金は、ワイヤーを引くと撃てるように改造して、そのワイヤーをコクピットまで延長した。敵機と遭遇したら、そのワイヤーを引っ張ればいいのである。
ここまで改造したところで、彼らの飛行隊長がやってきた。軍の装備を勝手に改造することが違法であることは、全員良く知っているから、慌てて逃げ出したが、敵機撃墜の熱意に燃えるジョンジーだけは居残った。運の悪いことに、彼は陸軍の制服を着た格好のままだった。
飛行隊長は、まず改造されたA−6を見て、ジョンジーが何を考えていたのかを悟った。続いて、A−6にこじ付けられたM2重機関銃に目を止めた。
「中尉、このM2は、どこから持ってきた?」
「サー、陸軍基地からかっぱらってまいりました!」
どうやって盗んできたかは、ジョンジーの格好を見れば一目瞭然である。
隊長は、しばらく思案した後に、こう言っただけだったという。
「たとえ間抜けな陸軍とはいえ、友軍には違いない。返してこい」
「サー、イェッ・サー!」
こうして陸軍基地に、溶接跡も生々しいM2二挺が返却された。もはや使いものにならないことは言うまでもない。
計画が水の泡となったので、ジョンジーは別のことで気を紛らわせることにした。敵のミグ戦闘機を撃墜すると、「キル・マーク」という赤い星を、自分の機体に描くことが出来るが、ミグを撃破していない自分は、それを描くことが出来ない。そこで彼は考えたのである。
「そうだ、俺は今日、ジャングルに爆弾を落とした。たぶん、ジャングルの木が二百本くらい燃えただろう。そのキル・マークを描こう」
整備部から緑色のペンキを貰ってくると、ジョンジーは自分の機体の機首に、小さな木の絵をたくさん描き始めた。
しかし、何しろ二百個も木の絵を描くのには、かなりの時間が掛かる。ジョンジーは、五十七本目の木を描き始めた直後に、シンナーの吸いすぎで倒れてしまった。
医療室に担ぎ込まれた時、隊長はたまたま、軍医と話をしていた。隊長は、部下たちから事の顛末を聞くと、溜息をついて、こう言った。
「こいつを艦隊の戦闘航空隊に転任させてやれ、そっちの方が、こいつのためでもあり、我々のためでもある」
こうしてジョンジーは、戦闘機乗りになった。
ちなみにジョンジーがヴェトナム戦争中に得たキル・マークはただひとつ、地上を走行していた敵の補給トラックを、空対空ミサイルで撃破した時のものである。整備員が気を使って、星型ではなくトラック型のキル・マークを、彼の愛機に描いてくれた。彼は感激して、全整備員に一杯ずつ奢り、その月の実家への仕送りはゼロになった。
……考えてみると、こんなやつらばっかりのフェントン家が滅亡することは、世界平和のためには、いいことなのかも知れない(笑)。
話を戻そう。
ジョンジーが「儀式」を執り行っている間に、私は朝食の支度をする。蒸かしたジャガイモ、自家製ベーコン二枚、レタス二枚、ゆで卵(二人とも固茹でが好み)ひとつ、ミルク一杯、コーヒー一杯、シーバス・リーガルあるいはブッシュ・ミルズ一杯、塩の錠剤一粒というのが、一人当たりの朝食である。判で押したように、毎日これである。私の気が向いて、パンを焼いた時だけ、トーストがこれらに加えられるが、何しろパンを焼くのは面倒くさいので、月に一度か二度くらいなものである。
刑務所だってメニューにレパートリーがあるのだから、このレパートリーの無さを考えると、わが家は刑務所以下ということか。
なんで朝からウィスキーを飲むのかは良く判らない。多分、ジョンジーの趣味だろう。
朝食の準備は十分で終わる。二人だけでおもむろに食卓につくと、ジョンジーと私は祈りの言葉を唱え始める。
「主よ、願わくば御名を崇めさせたまえ、御国を来たらせたまえ…」
ごく普通の食前の祈りが終わると、続いてフェントン家独自の「祈り」が続く。
「例え我死の闇の淵を歩もうとも、我恐るる災いなし、我がライフルと我がサーベル、我を助く…」
聖書の『詩編』からの引用を書き換えた、物騒で強気な祈りの言葉が始まる。この百年間、代々が唱え続けた特別な祈りの言葉である。この祈りは、基本的に以下の家訓に集約される。
『備えよ、常に』
『汝の仲間を守れ、汝の敵を倒せ、いかなる犠牲をも恐るることなかれ』
『信頼に応えよ、不変の忠誠を誓え、汚れ無き名誉を保て』
この三つが、ここ百年間のフェントン家の家訓である。これらの三つの家訓は、最終的には『義務、名誉、祖国』の三語で表現出来るだろう。ちなみにこの三語は、士官学校の標語になっているものである。
祈りは、最後に、
「我らは戦い続ける、全ての天が神の慈悲により包まれ、全ての地に平和が訪れるその日まで。必ずや、そう成すべし。アーメン!」
で締めくくられる。
都合三分間にもわたる祈りである。
わが家では、夕食はいつもバラバラなので、夕食のお祈りをすることが滅多にない。その代わりに、朝食は必ず一緒なので、こういうことをするのである。
もちろん、リズおばさんが生きていた頃には、こんなイカレた『儀式』はなかった。祈りの言葉はルーク(ルカ)の十一章に書かれている、普通のやつだけだった。唯一、ジョンジーの「遺産の部屋」の儀式だけが行われていた(実害はないので)。しかし、リズおばさんが亡くなって一年たってから、このような『儀式』が『復活』したのである。
まあ、慣れてしまえば、それほどのものではない。人間、何事も『慣れ』てしまいさえすれば、どうとでも適応するものである。
この私が、いい例だ。
この祈りが終わって初めて、まともな一日が始まる。
これが終わるまで、我々は一言も口を利かない。そういう決まりになっているのである。どういう謂れがあるのかは知らないが、昔っからそうだった。
「ユウ、今日の予定は?」
ジョンジーがゆで卵の殻を剥きながら言う。
「いつも通りだよ。で、ジョンジーは?」
「今日は空中戦闘機動の訓練だ。小僧どもを鍛えてやらにゃならん」
「可哀想に…」
ジョンジーが可哀想なのではない、彼の若い部下が可哀想なのである。
「なに、可哀想なもんか、ニンテンドーで一端のパイロット気取りになってる若造どもには、ちょうどいい薬だ」
彼の言う『ニンテンドー』とは、軍の戦闘機シミュレーターのことである。もちろん、製造元は任天堂ではない。
このフライト・シミュレーターは、コンピューター制御のモック・アップ(実物大模型)と、それに連動した各種システムによって操作されるもので、操縦席は実物と全く同じ作りになっている。画面にはコンピューター・グラフィックスが投影され、パイロットが操縦管を動かした通りに、本体も動く仕組みになっているので、離着陸のような基本的な練習から、空母での離発艦、簡単な空中戦の練習まで可能である。二人の教官は、隊長機に搭乗するパイロットと管制員として、無線で訓練生に指示を出す。作戦目標や状況設定から、訓練生はベストの選択を決定し、機体を操らなければならないが、上級コースになると、教官たちが『創り出す』敵機や悪天候にも対処しなければならなくなる(私が受けた最悪の状況設定は、「隊長機が撃墜され、自機の無線は故障し、管制員とは連絡が取れず、天候は最悪なのに、三機の敵戦闘機が飛来し、攻撃される」というものだった)。大がかりな劇みたいなものだが、訓練生だけは台本を知らないわけである。
言うまでもなく、実際に戦闘機を飛ばして訓練するよりも遥かに予算が掛からない上に絶対安全なため、基礎訓練課程では、しばしば利用されている。
「楽しい機械だけどなあ、あれ」
私が身につけているジェット戦闘機の操縦技術は、主にそのシミュレーターで遊んで、なんとなく覚えたものである(当然、ライセンスはない)。
「一回転しないし、圧力も掛からないんじゃ意味がない。だいたい、グラフィックの出来が悪い」
と言いながら、ジョンジーはゆで卵と塩の錠剤を、まとめて口の中に放り込んだ。当時のシミュレーターは、それほど出来のいいものではなかった(今ではディズニー・ワールドもかくやというくらいの設備になっている)。
「圧力が掛からないから楽しいんだよ、Gでヘルメットが回転したり、苦しくなったりしないもの。対Gスーツが膨らむだけでさ」
私が初めて超音速戦闘機に乗った(乗せて貰った)のは、この一年前のことで、言うまでもなく、無許可であった。ジョンジーの操縦で、古いF−4ファントム・戦闘機に乗ったのだが、ジョンジーの滅茶苦茶な操縦のお陰で、降りた時には、まっすぐ歩けない状態にされていた。
「訓練は楽しいんじゃ意味がないんだ、実際に飛ばして、苦労して身につけなければ───そう言えば、飛ばす、で思い出したが、うちの燃料、まだあるのか?」
わが家には、五千ガロン(約2万リットル)のケロシン(航空燃料)備蓄タンクがある。タンクは屑鉄屋から10ドルで買った。送料は200ドル掛かった。
「もうそろそろ、ないんじゃないかなあ」
「じゃあ、また、かっぱらってこないとな」
私は、せいぜい敬虔なカソリック信者の顔をして、ジョンジーの台詞に異論を唱える。
「盗んでくるの、いい加減にやめといた方がいいと思うよ」
「何言っとる、相手は空軍だぞ、悪いことなんかあるか」
ジョンジーは平然と、わけのわからん返答をする。
「悪事はそのうちバレるもんだよ」
「これは悪事じゃない、相手は空軍だからな」
「神様が怒るよ」
「安心しろ、ジーザスが最高司令官を務める『神の軍団』に航空団はない。ジュージュ(ファーザー・ジェイムソンの愛称)がそう断言したから、たぶん間違ってるんだろうが、聖書には、『エア・ウィング(航空団)』って単語は出てこないからな。まあ無いんだろう、多分」
「ファーザーは陸軍だからね、そりゃあ、空軍の肩は持たないだろうね……じゃなくて、空軍から盗んでくることだよ。絶対に誰かに気づかれるって、そのうち。例えばどこかのエアマン(空軍の整備兵)とか」
「十年間かっぱらわれ続けてても気づかない阿呆どもが、一朝一夕に気づけるとは思えんな。タンク・ローリーが一輌消えても気づかないクズ連中だぞ、間抜け揃いもいいとこだ、マリーンじゃ考えられん馬鹿さ加減だな」
だいたい、ジョンジーは満タンのタンク・ローリー(あるいはカラのタンク・ローリーに自分で給油して満タンにしたもの)を乗り逃げして、自宅のタンクに中身を移し、カラになったタンク・ローリーは元に戻しておく、という手段を取っている。
他のものを盗んでくる場合も、まず空軍基地内でトラックを盗んで、盗んだトラックに盗んだ品物を山積みにして、余所の基地に運ぶフリをして逃げ、後でトラックだけ返しておくという方法をとる。どうして誰も気づかないのだろうか。私にはさっぱり判らない。
「資材を盗まれた相手は、すごく困ってるかも」
「お大尽の空軍野郎にとっちゃ、JP−4(航空燃料)の五千ガロンや一万ガロン盗まれたって、痛くも痒くもないさ。バーレル単位で考えれば、えーと…たかだか150バーレル程度だ」
ジョンジーは計算が苦手である。彼の最大の敵は共産主義者でも良心的兵役拒否者でもなく、数学全般と電子工学である。彼はこの二科目のせいで、二度も士官学校の試験に落第し、さらに留年しそうになった。彼が世界で一番嫌いな人間たちのリストには、レーニン、スターリン、カストロ、ホー・チー・ミンなどに加えて、必ずアインシュタインとオッペンハイマーが入っている(アインシュタインは相対性理論を作ったから、オッペンハイマーは原爆を作ったから)。
「クォート換算すれば、約二万クォートだよ、野戦用水筒二万本分」
私は暗算が得意だった。数学も電子工学も得意だった。将来は工科大学に進もうと思っていた。
「オンス換算すれば、約六十七万オンスだね。エネルギーとしての総量は、国際BTU単位に換算すると……」
私が理工学的な面に強いことは、ジョンジーにとって誇りであると同時に、不満な点でもあった。男は、数字とか文章などをちまちま扱うような仕事をすべきではないと考えているからである。
「まあ、大した量じゃないな、いずれにしろ。ジェット訓練機を一機か、せいぜい二機飛ばす程度の燃料だ」
ジョンジーはフンと鼻を鳴らす。
「ひょっとしたら、空軍のMPに見つかって逮捕されるかも。不名誉だよー、それは」
「確かに不名誉だな、空軍のMPごときに掴まるようじゃ、俺もおしまいだ。海兵隊員としてはクズ以下ってことになる」
「…はあ」
やはり説得は無意味であった。
こと相手が空軍となると、ジョンジーは絶対に引き下がらない。彼にとって───というか、陸軍・海軍・海兵隊にとって───空軍は世界一のクズ集団、ということになっている。しばしば表現される「乳母車(飛行機)がないと戦えない」とか「七時半にはミルクを飲んで寝てしまう」などという慣用句は、空軍に対して奉られた悪口雑言の中では、比較的穏やかな表現の部類に入る。
私が海兵隊の初等適応訓練を受けた時には、教官からこう言われた、「こんなことも出来ないようなカスどもは、今すぐ空軍にでも行きやがれ!」───こう言われて怒らない海兵隊員(あるいは陸軍兵士や海軍水兵)は居ない。私などは、「そっちの方が気楽でいいかもな」などと思ってしまうのだが。
まあ、当時の私にとっては、空軍がどうであれ、関係がない。最後に、一縷の望みを繋いで、こうつけ加える。
「でも、僕にその片棒担がせるのは、いい加減にやめてよね」
最後にブッシュミルズを一気のみして、朝食は締めくくられる。最後の一気飲みが、言ってみれば「ごちそうさま」に相当する。
食事を作るのに十分、食前の祈りに三分掛かって、食事自体は五分で終わる。これでだいたい、六時頃になっている。私は洗い物をして、ジョンジーはライフルの点検をし、その日の飛行記録書類とか飛行制限書類なんかを適当に記入する。
六時二十分になると、二人とも「出勤」する。ジョンジーは海兵隊仕様のハマー・ジープに乗って、アリゾナ州の南西の隅にあるユマ海兵航空隊基地へ行く。そして私は、新聞配達のアルバイトをするために、L−4グラスホッパー軽飛行機を引っぱり出すのである。
私の朝のアルバイトは、「空中新聞配達」である。
広大なツーソン市郊外では、新聞とは配達されるものではなく、基本的に買いに行くものである。しかし、朝食時に、ゆっくり新聞を読みたいという願望は、ここツーソンの住民にもあるようで、新聞配達という仕事は存在する。
しかし、それを誰もやろうとしないのは、広大なピマ郡南部地域に点在する各家庭に新聞を配るとなると、新聞そのものが25セントから1ドル程度であるのに対して、配達手間賃が5ドルも掛かってしまうからである。
そこで私は、周辺の各家庭を回って、新聞配達の契約をとりつけた。新聞の冊数に関わらず、一回当たり1ドル。車で街まで出掛けて買って帰ってくる手間を考えれば、妥協できる料金である。
こうして約八十世帯から契約を取った私は、まず最初にツーソン市まで飛んで、スタンドから新聞を仕入れると、それを軽飛行機で各家庭へ届けることになった。
ただし、いちいち一軒ごとに着陸してポストへ入れるのでは手間が掛かり過ぎるし、余計な燃料も食うので、各家庭の脇を超低空で飛び、家の玄関に向けて新聞を投げ込む、という方法を編み出した。顧客にとっては、新聞は毎朝読めるし、私が超低空で各家庭を飛び越えるため、目覚まし時計の代わりにもなると好評だった。この技能は公式に認められており、全米旧式機愛好会(第一次大戦時の航空機愛好会)の「手動爆撃技能(飛行機に乗ったまま、手で爆弾や煉瓦を投げつけて、目標に命中させる技能)」の上級認定を受け、後にツーソン市立大学でB−24リベレーター爆撃機(第二次大戦中の戦略爆撃機)のレストアに成功したこともあって、「エクスペリメンタル・フライヤー(飛行試験官)」の称号を受けている。
私は愛犬ブッシュを後席に乗せて、八十世帯を巡り、新聞を届けた。私のエアロバティック(曲技飛行)の技術と、経験に基づく初歩的な航空力学、機体構造学に関する知識は、この新聞配達のお陰で培われたと言っても過言ではないだろう。何しろ新聞配達は毎日あるわけだから、毎日飛べるように、機体を整備しておかなければならなかったのだ。この頃の私は、一年間当たりの平均飛行時間が一千時間を越えていた。年間一千時間という飛行時間は、航空会社のちょっとしたパイロット並みの飛行時間である。
現在までの累計飛行時間は五千時間ちょっとだが、そのうち約三千五百時間については、十歳から十五歳の間に稼いだものである。常識では考えられない飛行時間だと、みな口を揃えて言うが、アリゾナでは、それほど珍しいことではなかった。
新聞を配達し終わると、学校が始まる時間になる。最後の一軒に新聞を投げ込むと、今度はそのまま学校へ向かう。
いくら辺境のツーソン市でも、スクール・バスくらいはある。と言うか、スクール・バスがないと、子供たちは学校へ行かれない。あの黄色い、でっかいバス、ダーティ・ハリーの敵役が乗っ取って、「さあ、これからアイスクリーム工場へ見学に行こうねー」とか何とか言っていたやつである。
横腹に「サウス・ツーソン学区」と書かれており、ウィンカーの代わりに「ストップ」と書かれた八角形の看板が側面から出てくるバスは、私も低学年の頃には使っていたが、軽飛行機の免許を取ってからというもの、使わなくなった。
学校の敷地の脇に、斜面のゆるやかな丘があった。私はこの丘を前もって下見しておいて、大きな石ころを取り除き、サボテンをダイナマイトで吹き飛ばしたり、マシェット(鉈)で切り倒した上で、自分の滑走路として使っていた。着陸時には、丘の斜面を登るような感じで着陸し、離陸時は反対に、斜面を降りて離陸する。そうすると、滑走距離を短縮出来るのだ。この「ユウズ・フィールド」飛行場は、今でも軽飛行機通学する生徒たちに使われている。
エンジンを止めて、愛機グラスホッパーをそのまま放置し、ナップ・ザックを背負う。ブッシュが飛行機の番をしてくれるので、放置しておいても問題はない。野球場のフェンスをよじ登って、裏口から学校に入り、廊下のロッカーから教科書を取り出して、教室に入ることになる。
学校の授業は、日本のそれと変わらない。
あるいは全然違うのかも知れないが、私はさほど違和感を持っていない。確かに日本の小学校・中学校にはディスカッションの時間はないが、差はそのくらいだ。しいて言えば、アメリカの方が、日本よりも授業の進度が遅い代わりに、細かく詳しく授業を進める。そして、授業が午前中までしかない代わりに、宿題がどっさり出される。
授業内容は、日本と同じように、教科書を読み、先生の質問に答え、テストを受ける。漢字を覚えるように綴りを覚え(例えばミシシッピーの綴りにはSとPが何回出てくるか、とか)徳川家康について勉強するのと同じように、ジョージ・ワシントンやエイブラハム・リンカーンについて勉強する。
日本の学校との差は、やはり午後からだろう。
まず昼食が違う。昼食時、生徒たちはお弁当をひろげて食べる。どこで食べても構わない。教室で食べる者はまずいない。たいがい、校庭のベンチとか、屋上とか、近くの公園なんかで食べる。当時、給食制度はニュー・ヨークとかロス・アンゼルスなどといった大都市のごく一部にしかなかった(今でも、それほど普及していない)。
アメリカでは、大人も子供もブラウン・バッグ(紙袋)に昼食を入れて持ち歩く。もちろん、私もそうだった。茶色の袋に入った昼食。ただし手作りではない。その名はMREレーションという。
私の味覚は、これによって破壊し尽くされた。最近は、MREが「不味い」ということすら判らない場合がある。ゲテモノ料理を除けば、これよりも不味いのは、海兵隊の新兵適応訓練課程で供される『王者の朝食』ぐらいだろう。
その後は、課外活動である。各種クラブ活動と、連邦省庁の推奨する特別活動がある。通常のクラブ活動は、日本のそれと変わらない。体育系と文化系があり、最も盛んなのは、野球とフットボールである。何しろ地方によっては、予算不足のために芸術科目(音楽や美術の授業)が廃止されることさえあるが、フットボール部が廃止された学校というのは聞いたことがない。
連邦省庁の特別活動というのは、例えば私が所属していたJROTCとか、農務省(現在の農商務省)の4Hクラブとか、そういうものである。これらの活動は、学校の予算ではなく、連邦政府からの予算補助があり、学校側としても運営しやすいため、たいがいの学校に設置されている(ただし4Hクラブは、都市部にはあまりない。都市部で農業を振興しても意味がないからである)。私には、例えば立派なニワトリを育ててコンクールに出して賞を取ろうとかいった野望はなかったので、4Hクラブには何の感心もなかったが。 で、4Hクラブに興味のなかった私が所属していたのが、音楽部とサッカー部とJROTC幼年海兵隊と聖歌隊だったわけだが、それについては次回に回そう。
(つづく)
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