◆ツーソンの日々・第四回
                   
「長い一日」


<後編>

 前回の終わりで書いたように、私は音楽部とサッカー部とJROTC幼年海兵隊と聖歌隊に入っていた。四つの団体のメンバーを兼任していたので、非常に忙しかった。時々、臨時の助っ人としてフットボール部や水泳部にも顔を出していたが、基本的には、この四つの部に所属していた。
 この四つの団体、恐ろしくなるほど関連性がない。音楽部と聖歌隊にだけ、辛うじて「音楽」という共通性があるが、基本的にばらばらである。私の正確が如実に現れた、支離滅裂なチョイスと言えるだろう。

 学校に入学すると同時に入ったのが、音楽部である。トランペットに憧れて、マーチング・バンド部門の方に入部したのだが、気が付いてみればジャズ・バンド部門のバンド・マスターになり、最後には管弦楽部門のコンダクターになっていた。一時期はプロの指揮者も目指したが、現在は、地元の交響楽団でチェロを弾きつつ、副指揮者をしている。
 昔から「チャイコフスキーとワーグナーを振らせるならユウだ」と言われ続け、今でもそれは変わらない。恐らく、スーザにはなれてもシューベルトにはなれないタイプなのだろう。一度だけモーツァルトを指揮したことがあるが、地元紙であるデイリー・ツーソン紙でもツーソン・ダイジェスト紙でも異口同音に「我々がかつて聞いたモーツァルトの中でも、最高に威勢の良い『ジュピター』であった」と評され、がっくりしたことがある。
 その後も色々とあって、一時期はエリック・カンゼルや山本榮太郎に師事していた時期もあったが、結局、音楽は趣味の範囲に止めることにした。残念ではあるが、自らの分を弁えてのことと思っている。
 音楽は、私の今までの人生に於いて、良いにつけ悪いにつけ、大きな意味を持つ存在だった。音楽のことについては、後々、どこかで語るとしよう。

 次に入ったのが、サッカー部であった。なぜフットボールではなくサッカーなのかというと、ツーソン・サウス・リヴェリア校は、サッカーが極端に弱かった(州内で最弱。砂漠の上で走り回っているから、脚だけは早かったが、サッカーそのものは下手糞もいいところだった)からである。フットボール部からの再三の勧誘を断って、私はサッカー部に入った。「生まれついてのレジスタンス」とファーザーに評されている私は、メジャーよりはマイナーを好む傾向がある。サッカーの方が選手の自由度が高そうに思えたことや、何かを蹴っとばすのが得意だったことにもよるだろう。
 その脚力を生かして、私はミッドフィルダーとウィングにその位置を占めた。ゴール・キックは私の独壇場で、試合の流れをひっくり返す必要のある時には、必ず私がゴール・キックを担当した。私のトゥ・キックは、何しろサッカーの蹴り方ではなくマーシャル・アーツの蹴り方なものだから、フィールドの端から端まで、ノー・バウンドでボールをすっ飛ばすことが出来たからである(二度ほど、自軍ゴール前からのフリー・キックで、相手のゴールにボールをぶち込んだことがある)。しかも、本来コントロールの取りづらいトゥ・キックであるにも関わらず、これを自在に操れた。
 試合における自分の役割としては、アシストに徹するのが好きだった。ジョンジーと違って、私は地味な方が好みなのだろう。
 だいたい、自陣内に攻め込んできた敵選手からボールを奪い、敵陣まで突っ走ってセンターリングをする、という段階までで、私が自分の「任務」だと思っている範囲の活動は終わり、満足する。得点することに対する喜びよりは、敵の攻撃を挫いたという方に満足感を感じるタイプで、シュートは一試合にせいぜい二、三度だけ。こういう点は、派手好きのジョンジーには不満だったようだ。ジョンジーはしばしば試合を見に来てくれたが、試合後には必ず文句を言う。
「ユウ、どうしてあの時にシュートしなかったんだ。あの戦況なら、戦術的観点から言って、充分に有効な攻撃が可能だった筈だぞ」
 なんだがサッカーの話をしているようには聞こえないが、彼はそういう話し方をする。
「え? だって、あっちの選手にパスした方が確実だし、僕が楽チンだもん」
 などと答えようものなら、
「お前には闘争本能というものがないのか!」
 などと怒られるのであった。

 聖歌隊は、自らの意志で入隊したわけではない。地元の教区担当神父に勧誘されたのである。どうして勧誘されたのかと言うと、大半の賛美歌を暗唱出来て、なおかつ歌うのが好きで、なかなか良いボーイ・ソプラノの持ち主だったから、という三つの理由によるらしい(しかも勧誘された当時は、救いがたいことに、本当に神様を信じていた。今ではぜんぜん考えられないが、私は模範的な信徒の一人だったのだ)。
 五歳の時、つまり学校に入る前に入隊し、九歳で完全に声が変わるまでは、ボーイ・ソプラノとして歌い、声変わりしてからは、徐々に高音が出せなくなるに従って、アルト、テナーと落ちていき、最後はパイプ・オルガン弾きになった。また、祭事の時にはピッコロ・トランペットも吹いた(ヘンデルやテレマンなどが書いたバロック期の聖堂音楽では、ピッコロ・トランペットが多用される)。
 聖堂は完全に密閉された空間だから、歌うにしろ楽器を弾くにしろ、音が反響して気持ちがいい(下手糞でも、うまく聞こえるのだから不思議なものである。ひょっとしたら神の御業かも知れない)。ただそれだけのために、聖歌隊に居たようなものである。
 余所の土地では、白人以外の人種が聖歌隊員になることは希だったが、何しろここはアリゾナの、しかも南部地方である、半分はヒスパニックが占めていた。一時期は、モハーベ族の子が隊長を、黒人の子が祭具長を務めていたほどだ。
 ソロを歌わせて貰ったことはないが、楽しい活動であった───奉仕活動を除けば。私が率先してやっていた奉仕活動は、墓地の掃除と養老院の慰問くらいなものである。寄付金集めは嫌いだったし、墓地以外の場所の清掃作業は、ぜんぜんやる気がなかった。何故か墓地だけは、掃除するのが好きだった。理由は良く判らないが。
 お陰で、墓守りや墓掘り夫なんかと一緒に、狭苦しい番小屋でコーヒーを飲みながら、そこに葬られている人々についての話を聞くことが出来た。善人も居れば悪党も居たし、平凡な者も非凡な者も居たが、共通して言えるのは、みんな貧しかったということだった。ツーソンに金持ちは居らず、また過去にも居なかったということが判明した。金持ちは余所から来た者ばかりで、そういった人々は、アリゾナに骨を埋めるつもりは無かったらしい。
 そのうち、誰かが亡くなった時には、教会の手伝いではなく、墓地の手伝いをするようになった。彼らは、数年後にビッグ・フェントンが亡くなった時には、わざわざヴァージニアのアーリントン国立墓地まで来て、アーリントンの墓掘り夫に代わって、きちんと海兵隊の規格で墓穴を掘り、棺を降ろしてくれた。ツーソンには職業軍人の家庭が多く、彼らは軍葬の手順についても心得ていた。
 養老院(日本の老人ホームみたいな場所)の慰問は、半ば義務感を持って、二週間に一度は必ず行っていた。これまた理由が判らないのだが、私は年寄りに受けがいい。他の聖歌隊員が嫌がるような、年寄りの繰り言も苦にならないし、過去の話を聞くことは楽しかった。
 ツーソンの養老院は、半分がた廃兵院と呼んでもいいくらいで、戦傷者が多かった(その絶対的比率によるものなのか、ほとんど全員が陸軍の出身だった。また何人かは、英国やカナダの出身だった)。第二次大戦の経験者が多く、彼らは1990年になったら再びノルマンディーの砂浜へ行くことを夢見ていた。そのうち何人かは、実際にオマハ・ビーチへ行き、式典に参列したり、ビーチへのパラシュート降下のデモンストレーション(最低年齢67歳、最高齢89歳の空挺部隊!)に参加したが、何人かは地元の墓地か、サン・ローラン軍人墓地に葬られた(サン・ローランは、ノルマンディーに作られた軍人墓地である)。
 彼らの昔話は、当然、戦争の話になる。私は戦史に詳しかったから、彼らの話をちゃんと理解出来たし、受け答えが出来た。良く判らないところは、質問することも出来た。だから彼らは喜んだし、私も楽しかった。身寄りのない老人たちにとって、私は全員の共有する孫みたいなものだったのかも知れない。
 彼らは正確無比のドイツ砲兵、勇猛果敢な武装親衛隊、無敵の戦車教導師団とタイガー戦車を賞賛した。一方で、モンティことモントゴメリー元帥(英国派遣軍司令官)を罵倒する。時にはヨーロッパ派遣連合軍最高司令官、アイクことアイゼンハウアー大将をも罵倒した。彼らは言う、
「どうしてアイクは、モンティの言いなりだったんだ!」
 彼らの怒りが、時として敵よりも味方に向けられた点は、興味深いところであった。
 彼らはそれぞれ、様々な戦線で、様々な地位にあって、様々な経験をしていた。一兵卒も居れば参謀も居た。ある老人はマッコーリフ将軍の司令部に勤務しており、ある老人は、かの有名なサント・メール・エグリース村にミス・ドロップした空挺部隊の一員だった。またある老人は、沖縄バンザイ・クリフの目撃者であり、あるいはアリゾナに収監されて、後に通訳として働いた日系移民であり、インディアンの前哨偵察兵であり、パットン第三軍の黒人戦車連隊で戦車長をしていた老人も居た(第二次大戦に黒人部隊が派遣されていたことを知ったのは、この時である。黒人実戦部隊の存在について記した書籍は、基本的に絶無と言って良い状態だった)。
 中には、東南アジア戦線で戦っていた者も居た。カチン族の軍事顧問をしていた元OSS(後にCIAに横滑りした)隊員の老人は東洋通で、日本の文化についても詳しかった(今思い返せば、勘違いがかなりあったが)。彼は第二次大戦の太平洋戦線・朝鮮戦争・ヴェトナム戦争の三つの戦争に従軍した情報将校だった。
 彼は技術畑の出身で、日本軍の兵器開発者たちのクラフトマン・シップを絶賛した。旧日本軍の士官たちが、戦後もインドシナに残留し、ヴェトナムの軍事顧問をしていたという話は、彼が居なかったら一生知らないままだったろうし、沖縄出身者によって編成された米軍傭兵部隊の話も、耳にすることはなかっただろう(これらに関する資料は、今でもまったく刊行されておらず、「否定可能な事実」の類とされている)。
 ドイツ軍は優秀だった、日本軍も優秀だったと彼らは語る。ノルマンディー前後、ガダルカナル前後は本当に優秀だった、と口を揃えて彼らは賞賛した(イタリアだけは、侮蔑の対象にしかならなかった)。ドイツのタイガー(重戦車)も日本のジーク(零式戦闘機)も無敵だった。それに乗っている男たちもまた無敵だった。
 綿密な作戦と鉄の統制の元に火力を集中するドイツ軍の前に、補給を断たれた連合軍は無力だった。日本軍の、サミュラーイ・ソードを振りかざしてのバンザイ・チャージに恐怖しない者はなかった。戦闘機乗りたちの多くは、当時は表に出さなかったが、機体もろとも突っ込んでくるスイサイド・アタックを理解出来た。
 彼らは勇者だった。信じるものは異なったが、祖国のために命を捧げた男たちであるという点では、我々と同じ、あるいはそれ以上だったと語る。それは裏のない、心からの、惜しみない賞賛だった───しかし、それでもなお、日本もドイツも、彼ら『オール・アメリカン』や『スクリーミング・イーグルス』、『サウザン・クロス』、『ギャリー・オーウェン』、『キー・ストーン』、『ノーザンプトン・ヨーマンリー』、『ロイヤル・スコティッシュ・ガーズ』、『アンザックス・カナディアン・キャバルリーズ』、『ニュー・ジーランド・ボランティアーズ』には勝てなかったのである。
 彼らのお陰で私は、戦史に詳しくなった。歴史書や公刊戦史からは絶対に窺い知ることの出来ない側面については、この養老院が私の「学校」だった。
 彼らの話を纏めるだけで、一冊の貴重な歴史書になるだろう。

 最後に、JROTCヤング・マリーンズ。これは四年生の時に入隊した。ジョンジーが入れ入れとうるさいからである。ハイ・スクール卒業と同時にディロス(満期除隊)になるまでの九年間、籍を置いていた。
 その前に、一ヶ月間だけ、ものは試しにとボーイ・スカウトに居たことがある。しかしボーイ・スカウトは私向きではなかった。普通の子供たちにっては、ロープの結び方を習うことや、ちょっとした山へハイキングへ行くことは新鮮なことだったかも知れないが、十歳までに、ルートの確保されているアメリカン・ロッキーの大半を登り尽くしてしまった(しかも半数以上が単独登頂だった)私にとっては、退屈な活動だった。おまけに使わせて貰えるライフルが.22口径のスポーツ・ライフルでは、やる気もわかない(当時、私は既にM14バトル・ライフルを使っていた)。ワッペンを取るだけ取ると、一ヶ月で辞めてしまった。
 そんなボーイ・スカウトよりはマシらしいということで、ジョンジーの勧めに従ってJROTCに入隊したのである。

 ヤング・マリーンズは、ジュニア部門とシニア部門の二つのグレードに分けられている。ジュニア・マリーンズは、小学一年生から中学三年生まで(アリゾナの場合、一年生から九年生まで)で構成され、シニア・マリーンズは高校一年生から三年生までで構成される。特にシニア・マリーンズは、現役の訓練教官が月に何度か指導に来るほどなので、実物の海兵隊の訓練との差異を指摘するのが困難なほどハードである。内容からいって、シニア・マリーンズの話なのではないかと勘違いされそうなので断っておくが、これから私が書くのは、前者のジュニア・マリーンズについてである。
 ヤング・マリーンズ/ジュニア・グレードの隊長は、退役中佐アイアン・ガーフィルド。海兵歩兵の出身で、沖縄に置かれている第九海兵連隊司令部の作戦参謀だったという。極めて高潔な人柄で、逆に言うと、高潔過ぎて煙たがられるような人物。妥協を許さず、どんなに些細なことであっても、間違っていることは間違っていると言うタイプである。私は「ジョンジーが糞真面目になったら、こんな風になるのかな」と考えていた。
 それでも彼が、好かれないまでも嫌われないのは、他人に対してだけでなく、自分に対しても厳しいからである。私も少しは見習いたいところだ。

 日本でも問題になっている「いじめ」というものは、複数人の集う場所、つまり組織ならどこにでも発生し得る問題である。
 軍隊には「コード・レッド」と俗称されるものがあって、本来、これは緊急事態を指す言葉なのだが、スラングとしては「虐待」という意味がある。上官によるものもあれば、仲間同士の場合もある。
 同じ階級同士である場合、殺人事件にでもならない限りは放置される。少なくとも表面的な権威としては、当事者双方も互角だから、「男なら自分でなんとかしろ」というこになる。除隊するもよし、上官に訴えるもよし、軍事法廷に持ち込むことも可能である。しかし証拠を挙げることが難しく、また「僕は仲間にいじめられていました」と証言するのも恥さらしなので、そういった手段に訴えられることは希である(近年では、人種的な差別問題の場合、逆に声を大にして訴えるケースが多いのだが)。
 最も問題とされるのは、上官による部下への虐待で、非常に私的で露見しにくいもの(例えば「俺の靴を磨いておけよ、二等兵」というようなもの)から、一度バレたら隠しようがないようなもの(例えば、ある上官が、ある部下に対し、複数人の別の部下に「命令」して暴行を加えさせた、というようなもの)まで色々ある。
 もっとも酷かったのは、適応課程にある訓練生に対して訓練教官が行うもので、特に海兵隊では大問題だった。そして、それが訓練の一環なのか、許容範囲内の体罰なのか、明確な虐待行為なのかを判断するのが非常に難しいことにかこつけて、何十年もの間、「優先順位は高いが、解決が困難な問題(=匙を投げること)」とされていた。
 海兵隊を例に取ると、四十年ほど前に、パレス・アイランドの新兵適応センターで、数名の訓練生が溺死するという事故が発生した。JAG(海軍法務部)が詳しく調査してみると、ある訓練小隊を担当する訓練教官が、嵐の晩に全員を営庭に整列させ、完全武装で行軍訓練をさせた(もちろん、訓練時間後のことである)結果であることが判った。事故は事件となり、大騒ぎとなった。
 パレス・アイランドはサウス・キャロライナ州の沿岸にある湿地帯の小さな島で、そこらじゅうに底なし沼がある。そこへ持ってきて台風の最中に野戦行軍訓練をやったもんだから、合計60キロにもなる完全武装のままで沼にはまった訓練生たちが溺死してしまったのである。しかも、沼にはまった訓練生を助けようとした他の訓練生たちは、訓練教官の「命令」によって、助けることを止められたという。
 この無茶な「訓練」を断行した一等軍曹は、軍事法廷に立たされた時も、自分が間違ったことをしたとは考えていなかった。「我々は兵士を作るために、彼らに訓練をしているのだ。戦場はもっとハードだ。いかなる困難な状況に対しても、単身で対処出来るように育てることが私の使命であり、その使命を果たしただけだ」と真顔で証言した。
 だから、嵐の晩に野戦行軍訓練を行い、底なし沼に向かって部隊を行進させ、溺れている訓練生を助けようとしなかった、というのだ。
 そこまでは行かないものの、上下関係のある組織内では、こういった理不尽が横行することがしばしばある。それが、階級というものに絶対的権限が付与される組織ともなれば、なおさらだ。ヤング・マリーンズにもそれは言えることで、「任務遂行」中には、「部下」は「上官」に対して絶対に逆らうことが出来ない。

 コード・レッドのことについて知り尽くしているガーフィールド中佐は、小学生から高校生まで居るJROTCにまで、そのような悪習がはびこることは、断じて許せなかったのだろう。彼はもう一つの規則を持ち出した。これは海兵隊で特に重要視されているものである。
「上官は部下に範を垂れ、自らに実行不能なことを部下に命令するな」
 である。
 私にとっては、小さな頃からジョンジーに言われ続けていたことでもある。私生活におけるジョンジーは人格者ではないかも知れないが、少なくとも他人に対して何か命令する場合には、この信義則を完全に守っていた。自分に出来ないことは命令しないし、誰にも出来そうにないことを命令しなければならない場合は、自分がその先頭に立った(お陰で負傷しまくって、三度も「肉体的に軍務不適格」を宣告されたことがあり、一度は敵の捕虜にされかけた)。これは軍人としてだけでなく、人間としても、基本的なことだと思う。
 ガーフィールド中佐は、この信義則を徹底的に守らせることに腐心し続けていたから、このことを咬んで含めるように何度も教え込んだ。
 ところが、中佐が言うことを額面通りに受け取った七年生の一等軍曹が、「俺は靴の磨きかたを知ってるから、お前、俺の靴を磨け」と四年生の一等兵に「命令」したことがある。これが発覚した時の中佐の怒りようは壮絶で、
「お前は馬鹿か! 歩けて、銃が撃てれば海兵隊員だと思ってるのか?! 栄えある海兵隊を、陸軍と一緒にするな! 海兵の品位を貶めおって!」
 と怒鳴りつけ、二時間に渡ってOLQ(オフィサーズ・ライク・クオリティ:士官としての素養)についての講義を行った上で、その生徒隊一等軍曹を、七年生であるにも関わらず生徒隊二等兵(最低の階級。普通は三年生以下の階級)まで降格し、全ての善行章(ボーイ・スカウトのワッペンに相当する)を剥奪した上で、地元のサーキット・コート(巡回裁判所)へ送り、裁判官に話をつけて、未成年に対する実刑服役(地元での奉仕活動)を一ヶ月間やらせた。
 こんなことがあってもなお、下級生に靴磨きや芝刈りを「命令」出来るほどの人間は、そうそうは居ない。お陰でツーソン連隊では、他の地区で問題とされた「JROTCに於けるコード・レッド」は、一切起こらなかった。そして、多くの隊員が、シニア・マリーンズまで上がり、極めて優秀な隊員となった。

 逆に言うと、これほど徹底して厳しいJROTCに、好んで入隊しようと思う変わり者は、そうそう居る筈もなく、ガーフィールド隊長の代になってから、隊員は激減した。最盛期には二百四十人を数えたJROTCマリーンズ・ツーソン連隊は、四年生から九年生まで合わせても四十人しか居ない状態になり、代わりにJROTCエア・フォース(幼年空軍)の隊員総数が倍増した(シニア・マリーンズに影響はなく、人数はさほど変わらなかった)。
 ツーソン市には、海兵隊基地はない。基本的に、海のない場所に海兵隊基地は存在しないものである。アリゾナは、海がないのに海兵隊基地が設置されている唯一の州である。
 普通は、地元にある軍事基地に合わせてJROTCが設置されるから、本来、ツーソン市のどまんなかにあるデーヴィス・モンサン空軍基地に合わせて、JROTCエア・フォースしか設置されない筈だった。しかしツーソン市は、何人もの伝説的海兵隊員を輩出した街として有名なので、わざわざ二百マイルも離れたユマ市のユマ海兵隊基地から指導員が派遣され、JROTCマリーンズの地方連絡部が、海兵隊のツーソン徴募事務所の片隅に設置されていた。ひょっとしたら、空軍好き放題の街を、海兵隊基地の近所に置いておくのが悔しかったからかも知れない。
 そういうわけで、ツーソンのJROTCは海兵隊と空軍だったから、数は力となる、という言葉を信じて、激しい生徒の取り合いが続けられていた。長い間、その数は均衡を保っていたが、ガーフィールド隊長になってから、そのバランスは大きく崩れた。募集活動は一切なくなり、入隊のための基準は厳格に守られた。それで人数が増える筈もない。
 訓練は厳しくなり、懲罰もケタ外れに厳しくなった。全てが厳しい体制に、大半の生徒が除隊を申し出た。その集団除隊申告は、申告した者たちにとっては、半ば脅迫に近いものだった。しかしガーフィールド隊長には、そんなものは通じなかった。海兵隊の「去る者は追わず」の姿勢に従って、やる気のない者は全員、即日で除隊させしまった。
 JROTCマリーンズのアリゾナ州司令部は、たったの一週間で六分の一近くまで激減したツーソン連隊に対して、「もっと徴募活動に力を入れるように」と警告を発したが、ガーフィールド隊長は、こう答えて突っぱねた。
 曰く、海兵隊は選りすぐられた少数の精鋭によって構成されるべきものであって、その数は問題とならない。それは既に、合衆国海兵隊が証明済みである。
 確かに海兵隊は、少数精鋭を旨とし、徴募活動にも力を入れていない。『陸軍へ行ってチャンスを掴もう!』とか、『海軍へ行って世界を見よう!』とか、『高みを望む者は空軍へ!』などとポスターに書いて、さらに可愛い女の子が軍服を着てるイラスト付きとかで、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、というような雰囲気なのに対して、海兵隊は『誰もが海兵隊員になれるのであれば、それは海兵隊ではない』というコピーと、真っ黒のポスターの真ん中に、小さな海兵隊の記章が描かれているだけのポスターなんていう、お前ら本当に人集めする気があんのかよ、という強気の姿勢で徴募(?)を行っている。
 これには、真に有能で、やる気のある者なら、わざわざこっちが集めなくても自然に相手から来るだろうし、黙っていても志願者が殺到するような組織でなければならない、という海兵隊の考え方が、そのまま現れている。なんとも古くさい考え方である(が、私はそういう考え方は嫌いではない)。
 実物の海兵隊がそういうところだから、ガーフィールド隊長の反撃に対して、州のJROTC司令部も文句を言えなかった。ツーソン連隊は、全アリゾナ州JROTCマリーンズでも最低の隊員数で、全米でもワースト・テンに常に入るほどの少数部隊だった。司令部による報復は、少数ゆえに少額な予算配分という形で果たされた。我々は、新しいライフルを一丁買うのに、全員でカンパを集めなければならないような経済状態に陥った。
 その代わり、非常に優秀だった。私が四年生で入隊した時の四十人のうち、三十二人が海兵隊に入隊したが、下っ端に収まっていた者は居ない。皆、若くして上級下士官や士官になり、多くの者は名誉のサーベル、マムルーク・ソードを授与されるという栄に授かっている。
 また、四人は、世界でも最高の難易度と言われるアナポリス海軍士官学校に入学を許された。アメリカ陸軍と海軍の士官学校の制度は、この二百年ほど変わっていないため、受験資格は、学力や体力以外にも、いまだに「十七歳から二十二歳までで、未婚であり、大統領・副大統領あるいは上下院議員いずれかの推薦状を受け、保証された者」に限られている(さらに、ほんの十年ほど前までは「男子に限る」とされていた)。ツーソン出身などという田舎者の庶民が、議員の推薦など受けられる筈がない。しかも、これらの議員が持つ推薦枠は、議員一人当たり四人までと定数が決められている。
 ここが大きなネックとなっていたのだが、ガーフィールド隊長は、士官学校を目指すものを応援し、アリゾナ選出の議員を当たって、何とかして推薦状を手に入れてきてくれた。九年間で四人も士官学校へ生徒を送ったJROTCは、他に例を見ない。


 私が五年生の当時も、隊員はきっかり四十人。ボーイ・スカウトでは八人で一パトロール(偵察班)とし、これを最小編成単位とするのに対して、JROTCマリーンズでは四人で一ライフル・チーム(射撃班)を編成し、三個ライフル・チームを一ライフル・スクォッド(射撃分隊)、三個ライフル・スクォッドを一プラトーン(小隊)とするため、ツーソン連隊(ジュニア部門)は、「連隊」という名前であるにも関わらず、ぴったり一個小隊(三個ライフル・スクォッドと司令部付き支援要員四名)を編成するに止まった。シニア部門を合計してもなお、一個中隊に満たない程度であった。
 さらに、厳しい水準を設けるガーフィールド隊長は、この四十人の全てが「戦闘要員」とは考えてはおらず、彼が「作戦任務」に就くことを許した(つまり、それだけの実力を認めた)のは十数人程度、つまり一個分隊ぶんに過ぎなかった。
 まあ、「連隊」という名称はほとんどの地方で有名無実化しており、基地城下町に設置されたJROTCを除けば、どこの土地でも、せいぜい中隊から大隊程度の人数しか居ない。ちなみに連隊とは、約千人によって編成されるものである。正式名称は「連隊」だが、たいがい、シニア部門も合計した規模を割り当てて「ツーソン中隊」と呼ばれていた。
 JROTCマリーンズ・ジュニア部門の場合、アリゾナ州南部十郡に設置された計十個連隊(ピマのツーソン連隊、ユマのユマ連隊、サンタ・クルズのノガレス連隊、コチセーのシエラ・ヴィスタ連隊、グラハムのサン・カルロス連隊、グリンリーのクリフトン連隊、ピナルのカーサ・グランデ連隊、マリコパーのフェニックス連隊、ラ・パスのクォーツサイト連隊、ジーラのシルヴァー・シティ連隊)を合計しても、六百人足らずの規模だった。
 単位から行けば、二個師団が編成出来ることになるが、全部足しても、一個連隊規模にもほど遠い。せいぜい准連隊である。最大なのがユマ連隊で、これはユマ海兵航空隊基地のお膝もと。最小がツーソン連隊である。平均すると、一カウンティ(郡)当たり六十人、一個増強小隊ほどしか居なかったことになる。
 他の団体は、大半が四桁の大台に乗る規模を誇っていた。JROTCエア・フォースは、ジュニア部門だけでも、中部から南部の三郡(ピマ、マリコパー、ピナル)だけで二千人を越えていた(アリゾナには空軍基地が数多く設置されているというのも、理由のひとつだろう)。ボーイ・スカウトはそれ以上の規模があり、七歳から十七歳までしか居ないJROTCと違って、クラス別に子供から大人まで居るわけだから、もはや推定不能な世界である。しかも、JROTCエア・フォースとボーイ・スカウトを兼任する者も少なくなかったため、ボーイ・スカウトもJROTCエア・フォースも、共に我々の「明確かつ直接的な脅威」となった。
 一方、本来なら我々の好敵手たるべきJROTCアーミー(幼年陸軍)は、アリゾナではまったく力を持っていなかった。メキシコ国境にほど近いシエラ・ヴィスタにフォート・フアチュカーという陸軍基地があったが、ここは米墨戦争の名残りとも言うべき代物で、第一線の陸軍基地とは言いがたく、ごく希に山岳戦や砂漠戦の演習が行われるだけの施設だった。基地に勤務する軍属の家族も少なく、形だけはJROTCアーミーが設置されていたが、ジュニア・シニア合わせて約五十人の隊員は、ほとんど対外的活動を行っていなかった。そしてJROTCネイヴィー(幼年海軍)は、海がないので存在しなかった。

 海兵隊には「兵科」というものが存在しない。もちろん、戦車兵も砲兵も居れば、通信兵や衛生兵も居るのだが、これは単純に、「戦車の運転を担当する海兵」であったり、「通信機の操作を担当する海兵」であるに過ぎない、としている。
 海兵、マリーンと呼ばれる存在は、最低でもライフル歩兵でなければならない、と海兵隊司令部は考えている。これは二百年以上も前からの方針である。そして、出来うる限り、あらゆる能力を身につけなければならない、ともしている。これは「万能主義思想」と呼ばれるもので、JROTCに対しても、100パーセント適用されていた。
 例えば、無線機に興味があってJROTCアーミーに入隊した者は、高校を卒業するまで、ずーっと無線機をいじっているだけで構わない。その後に陸軍に入隊すれば、通信部隊に配属されて、やはり一生、ライフルとは無縁の生活を続けることが可能だろう。同様に、航空機そのものに興味があってJROTCエア・フォースに入隊した者は、ずーっと飛行機の整備をしているだけで構わない。
 しかし、同じような動機でJROTCマリーンズに入隊した者は、地獄を見ることになる。例えば、私の友人であるトッティは、写真に興味があって、軍用カメラや現像技術について知るためにJROTCマリーンズに入隊した。海兵隊にはフォース・レコネサンス・チーム(通称フォース・リーコン)という優秀な強行偵察部隊が居て、彼らの任務とは、敵に気付かれないように接近し、様々な情報を収集することにある。その中には写真撮影も含まれており、写真担当の兵士は「凄腕のカメラマン」である。だから彼は、JROTCマリーンズで、その撮影技術を習得できるものと考えたのだ。
 ところが、軍用カメラを扱わせてくれるだけだと思っていたトッティは、ガーフィールド隊長にこう言われて、驚愕した。
「そうか、フォース・リーコンになりたいのか。ならばまずは、基礎体力から始めなければならんな。その後は各種の特殊地形下に於ける戦闘技術、第一級の射撃能力、最低二つ以上の特殊技術について修めなければならん。だが、それだけでは、通常任務の偵察隊員にしかなれない。お前がフォース・リーコンになりたいのなら、言うまでもなく、敵前強行揚陸作戦に必要なスキューバ・ダイバーとしての技能、補助装備なしで最低でも30キロは泳ぎ抜くことが出来るだけの水泳技能、パラシュートによる空挺降下、敵に気付かれないように移動するスニーキング、敵が気付く前に倒すためのサイレント・キリングの技能も絶対不可欠だ───こいつはちょっとしたチャレンジになるな、トーランス二等兵」

 私の上級生であるクールは、ライフル射撃が得意だった。地元で開催される射撃大会のジュニア・ライフル射撃部門では、いつも私と競り合っていた。だが残念なことに、彼は良い教師に恵まれなかった。周囲の者たちはみな射撃が得意だったが、それは純粋に的を撃つ技術であって、戦闘射撃の技術ではなかったのだ。静止目標を撃つという技術では、私よりもクールの方が上手だった(何しろ私には、致命的なまでに集中力が欠如している)が、移動目標を撃つとか、走りながら静止目標を撃つ、あるいは走りながら移動目標を撃つ技術には致命的な経験不足があった。現に彼は、ピストル射撃はからっきし駄目で、コンバット・シューティングなど目を覆いたくなるほどだった。
 そこで彼は、四年生の時にJROTCに入隊した。入隊試験では抜群の成績を挙げ、本来なら一等兵から始める(新入隊員は一律に、三年生以下は二等兵、四年生〜六年生以上は一等兵、七年生〜九年生は上等兵に任命される)ところを、一足飛びに上等兵に任命された。
 彼はガーフィールド隊長に、狙撃手を目指している、と申告した。
「スナイパーになりたいのか、クラレンス上等兵? スナイパーの道は険しいぞ。まずは目標の所在地まで移動するために必要な体力を高める必要がある。さらに、目標を射撃するのに最適な場所を選べるだけの知識、自らの所在を隠すための偽装技術、銃火器構造学や弾道力学、風向きを読み、偏差を瞬時に割り出す能力、弾薬や弾頭の選択、適切な撤収方法など、どれも超特級の技術を要求される。これらの全てを完璧に身につけた、ごく一握りの男たちだけが、スナイパーとなるのだ」
 彼はフットボール部にも所属しており、学校の成績も良かったから、なかなかの自信家だったが、よもや四年生で弾道力学をやらされるとは思っても居なかったし、ガーフィールド隊長に言われた後も、まさか本当に弾道工学のテキストを渡されるとは思いもしなかったという。
 しかし彼は、それらの全てに精進した。私が分隊付き伍長(兵長)だった時には、彼は二等軍曹で、私と同じくスナイパーであると同時に、スクォッド・リーダー(分隊長)も務めていた。リーダーシップにも学業にも優れた彼は、後にハイ・スクールを主席で卒業し、一流大学からの推薦を全て蹴って、アナポリスの海軍士官学校へ進むこととなる。
 彼が士官学校に在学して、全米でも最高の教育を受けていた四年間の間に支払ったのは、たったの1500ドルだけで、しかもこれは、自分の制服を仕立てるために必要とされた代金でしかなかった。
 現在の彼は、第一海兵師団(通称『南十字星』師団)の大尉で、師団司令部に勤務している。随分と長いこと、何の連絡も取っていなかったが、私が少尉に任官した時に、私の好きなブッシュミルズと共に、ごく短い手紙を送ってきた。
 そこには、

 『第三海兵のユウへ:
   新聞で読んだ。熟練者のクラブへようこそ。
   我らがガーフィールド中佐とツーソン中隊に乾杯。
   グァンタナモの件、噂に聞いた。おめでとう。そのうち詳しく聞かせてくれ。
  :第一海兵のクール』

 と書かれているだけだった。
 私の返信も、

 『第一海兵のクールへ:
   先の通信に感謝。どうやら最近は人手不足らしいな。
   ガーフィールド中佐とツーソン中隊に乾杯。
   グァンタナモの件、ありがとう。少なくともその点では、俺の方が上だからな。
  :第三海兵のユウ』

 という手短なもので、あとは、一緒に送った、彼の大好きなワイルド・ターキーが、全てを語ってくれるだろう。
 それで全てが理解出来る関係というものも、時には存在するのである。
 労苦を共にした者たちの間では、共にした労苦故に、わざわざ時間を掛ける必要などないのだ。
 格好をつけてるように聞こえるかも知れない。実際、二人とも格好をつけているのだ(笑)が、目的はちゃんと達成できるのである。

 JROTCは、周囲から異端視されていた。学校の女の子たちは、最初のうちは「戦争ごっこの好きな男の子の集団」くらいに見ていたが、その実体を知るや、自分たちの認識を改め、「戦争の好きな男の子の集団」と考えるようになった。汗だくになり、泥まみれになって、顔をしかめっぱなしで「訓練」を続ける姿は、どこから見ても「楽しい戦争ごっこ」とは思えない。
 しかも、「訓練」の様子を見に来た女の子たちは、例外なく、ガーフィールド隊長か上級生の生徒隊下士官から「失せろ! 女子供の見るもんじゃないぞ!」と怒鳴りつけられる。その向こうで、延々とアスレチック・コースを踏破し続ける隊員たちは、楽しそうどころか、苦しそうである。それでも、彼らはJROTCを辞めようとはしないのだから、女の子には理解不能な世界だったろう。
 学校のテニス・コートで楽しく練習をしていたテニス部員たちは、遠くから「うぎゃー!」とか「ちくしょー!」などと響いてくる悲鳴の主たちを、単純に変態あつかいした。文学部のメンバーに至っては、「君たちは間違った思想にとりつかれている」などと言ってきた。しかし、そういった相手に対する我々の態度はいつでも、寂しげに笑ってから、「お前たちには判るまい」の一言であった(シニア部門になると、相手の反応は判で押したように「ああ、海兵隊に入りたいからなんだね」というものになる。それに対しても、前述した台詞で応じる)。
 反面、低学年の男の子から見れば、我々は羨望の的である。ライフルを撃ち、素手で相手を倒し、ロープをつたい降りたり壁をよじ登ったりする姿は圧巻だったろう。制服を着ての一糸乱れぬ行進では、必ず後ろに、隊員と同数の子供たちが行列を作った。本物の軍隊は大人の組織であって、低学年の子供たちにとっては縁遠い存在だが、JROTCの場合、自分たちより数年だけ先輩の四年生や五年生も居るわけだから、より身近に感じたのかも知れない。
 最も複雑で千差万別となったのは、同世代の男の子たちからの反応である。ボーイ・スカウトやJROTCエア・フォースの隊員たちからは、当然、毛嫌いされた。それ以外の男の子たちの反応は、JROTCマリーンズの実体を知らない者からは「大したもんだな、お前ら」であり、知っている者からは「よくやるよな、お前ら」というようなものが多かった。その時もやはり、寂しげに笑いながら「お前たちには判るまい」で切り返す(なんか、嫌な子供である)。
 この台詞、「お前たちには判るまい」が、我々の全てであった。この台詞は、負け犬のそれではなく、それぞれの優越感から発生する、余裕のなせる台詞であった。つまり、「俺たちは、これだけの経験をして、これだけの知識と経験を積んだ。そして今も、それを続けているんだ。だが、それを知らないお前たちには、俺たちのことは、絶対に理解出来ないだろうな」という、自信、優越感から発生する、憐憫、哀れみの台詞なのである。
 JROTCマリーンズには、ジュニア部門専用の「兵舎」があった。古い備品倉庫を改装したもので、ここには二十個の二段ベッド、武器庫、簡素なキッチン、無理矢理こじつけたシャワー・ルーム、木造の懲罰営倉(室外にでっち上げられたストッケージ)などがあった。兵舎と言うよりは、刑務所の集合房に近い構造である。
 室内の壁には、ガーフィールド隊長がペンキ屋に書かせたモットーがある。

『実績に裏打ちされない限り、それはお前の名誉とはならない』

 隊員たちが好んで使う「お前たちには判るまい」の源を、明確に言い表している。子供なりのプライドから、この台詞が使われるのだ。
 そして救い難いことに、このプライドは、大人になっても一切変質することなく、そのままの形で継続維持されてしまうのである。

 JROTCの実際の活動などについては、また今度、詳しく書くことにしようと思う。