◆ツーソンの日々・第六回
                     
「靴」


 この話は、十年ほど前に、私が生まれて初めて書いた五本の短編小説のひとつ、『幸福は新しい靴のように(Happiness is a little new shoes)』のベースと言うか、その下敷きになったエピソードである。


 それまで私は、基地のPXと通信販売以外で、自分の衣料品を買ったことがなかった。
 ジョンジーの影響か、私にも実用本位の嗜好が身に付いていたため、お洒落とか流行といったものとは縁遠い生活を送っていた(これは今でも変わらないが)。そのため、衣服の趣味は、おおむね地味だった。デザイン、柄、色、全てが地味だった。
 派手なプリント物とか、粋な柄物などには目もくれず、必ずソリッド・カラー(単色)で、シャツもパンツ(ズボン)もだいたいブルーかホワイト、でなければタン(カーキ色)かモス・グリーンと相場は決まっていた。クローゼットには今でも、どれも似たり寄ったりのシャンブレーやダンガリーが並んでいる。それらは全て長袖である。
 一年を通して灼熱地獄のツーソンにありながら、半袖シャツを買わないのは、日焼け(を通り越して火傷みたいになる場合もある)防止、体内の水分の蒸発を防ぐ、腕の防護などの理由による。必ず長袖を着て、熱ければ袖をまくる。だからいつも、長袖の袖を捲って着ていた。
 私がいまだに、たとえ冬の最中であっても腕捲りをしたままなのは、この当時の癖がぜんぜん抜けていないためである。無意識のうちに袖を捲り上げ、周囲から「寒くないの?」とか「恥ずかしいからやめろ」とか言われて初めて気付き、元に戻すのだが、気が付けばまた捲っている。これはもうどうしようもないようだ。
 平均的な普段着は、ホワイトのシャツにブルーのパンツ、でなければブルーのシャツにホワイトのパンツ、つまり色が逆転するだけで、そうでなければタン・カーキとモス・グリーンが上下逆転するだけだった。素材は、シャツ類はコットンで、パンツはコットンかジーンズと決まっていた。
 必ず、PXで適当なものを買ってくるか、L.L.ビーンやU.S.キャバルリーなどの通信販売で買うかのどちらかだった。
 そして靴は、どんな時でもパナマ・ソールのジャングル・ブーツだった。

 私は足がでかい。脚は短いが、足だけはでかかった。
 医療記録によれば、七歳の時で、既に22.5センチもあった。その後も順調に成長を続け、十一歳当時は28センチだった(現在は31センチ、USサイズで11ハーフWから12Wである。足の幅が広いのは、やはり人種的な特徴なのだろう)。
 当時の身長は165センチで、同年代の子供たちと比較しても遜色ない程度には伸びていた。日本の小学校では、背の高さの順番に整列させるが、その場合には、必ず最後尾に居た(が、十三歳の時に、176センチでピタリと止まった)。
 運動好きだったので、将来はもっと大きくなるだろうと周囲から言われていた。そのため、5フィート5インチの自分も、そう思っていた。まさか二年後に、6フィートに達することなく止まるなどとは思いもしなかった。
 ジョンジーは6フィート10インチ(約198センチ)だったので、自分もそれくらいには伸びるものと思いこんでいた。しかし考えてみれば、ジョンジーとは血の繋がりなんてないし、私の父であるマージは、私よりも背が低い。母も同様に低いのだから、当然と言えば当然である。
 両親とも背が低いのに、私だけそこそこ伸びたのは、祖父の因子の隔世遺伝だと言われている。父方・母方共に、一族みな短躯の家系であったが、祖父だけは異常に背が高かった。明治生まれの人間で、身長178センチというのは、とんでもない背の高さである。それが遺伝したらしい。───しかし、明治時代ならずば抜けた長身も、現代ではありふれた高さでしかない。
 そんなわけで、子供の頃から身長もそこそこあり、特に肩幅と胸囲がかなりあったため、、ペティ・サイズ(子供サイズ)の服を着ていたのはごく短期間で、物心付いた頃から、普通の規格の服を買っていた。USサイズのエクストラ・スモール・レギュラーからスモール・ショートぐらいのサイズである。見栄を張って、子供サイズとか子供服は買わなかった、というのも、まあ理由の一つではある。
 当時は痩せていた(胸囲は昔からかなりあったが、ウェストが極端に小さかった。ただし言うまでもなく過去形)ので、間違えて女物のジーンズ・パンツやシャツを買ってくることすらあった───救いがたいことに、実際に着ても、合わせが逆なのに気付かないことが多々あった。お陰でクラス・メイトの女の子たちに「女装癖」呼ばわりされた。運の悪いことに、そういう時に限って、シャツもパンツも女物で揃っていたりするのだ。

 服は、かなり小さな頃から自分一人で買いに行っており、当然、すべて自分の趣味で選ばれていた。そういう風になった最大の理由は、リズおばさんが亡くなったため、私の服を見繕ってくれる人物が居なくなったからである。
 アメリカに於ける唯一の保護者となったのはジョンジーだが、ジョンジーは子供服売場や婦人服売場を、まるで親の死に場所みたいに嫌っている。何がそんなに嫌なのかは判らない。本人も判っていないようだ。身の置き場がない、というようなこを言っていたのを覚えている。確か、「俺の居るべき場所じゃない」とか何とか言っていた。
 どれほど嫌いなのか、その実例を挙げると、以前に、ポーカーに負けたジョンジーに対して、『ヴィクトリアズ・シークレット(女性下着専門店)』でブラジャーを買ってこい、という罰ゲームを課したことがあるのだが、死にそうな顔をして帰ってきて、「ヴェトコンと撃ち合いやってた方がずっとましだった」と述懐していた。
 確かに恥ずかしいと言えば恥ずかしいが、何もそこまで嫌がることもないだろうに、というほど嫌がっていた(嫌がりながらもちゃんと実行するあたりは、いかにもジョンジーらしい。ちなみに、ジョンジーが買ってきたブラジャーは、袋に「プレゼントです」と書いて、近所の友達の家に放り込んで逃げた)。
 そういうわけで、保護者は当てにならないので、七歳になってからは───つまり、リズおばさんが亡くなってからは、私は自分一人で服を買いに行かなければならなかったのだ。だから服は、予算の許す範囲内で、自由に選んで買っていた。
 ところが靴だけは、ジョンジーの方針によって、ものすごく小さな時からパナマ・ブーツだった。
 このジャングル・ブーツは、側面がナイロン張りの革靴で、もちろん編み上げ式であり、ソールは分厚いラバー(またはビブラム素材)製で、靴底には、対人地雷や罠から足を守るためにスチール板が入っていた。水はけを良くするために、側面に換気穴が作られており、水が入っても、すぐに抜ける構造になっている(ただし砂漠では、その換気穴か砂で埋まって役に立たない)。
 ヴェトナム戦争中に使われていたモデルで、当時は既に生産中止されていたが、何しろ戦時量産された品だから、PXに在庫が残っている場合が多かった。店にない場合は、ジョンジーは必ずどこからか探し出して、買ってきたり、かっぱらってきたりしていた。
 在庫がある場合は、もはや軍の正式採用品からは外されていたので、PXは処分価格でこれを売ってくれた。お陰で、一足十ドルという格安で、私は靴を手に入れていた(ところが最近、中野区某所のミリタリー・ショップで、このブーツが三万五千円で売られていて、びっくりした)。
 ブーツが安全な靴であることは、私も良く知っていた。足首を保護するので疲労を軽減するし、転んだりしても足首を痛める心配がない。何かにけっ躓いても、足を怪我する心配は全くない───ジョンジーからの受け売りだが、これらは事実でもある。全力疾走したりするのには向かないが、そういう時は、だいたい裸足になっていたので、問題はなかった。
 しかし、十一歳にもなって、裸足で外を走り回ることもなくなると、そういう訳にも行かなくなった。
 昔からブーツで歩き回っていたお陰で、学校の体育の先生は、私がブーツで100メートル走をやろうがサッカーをやろうが文句は言わなかったが、さすがに、そういった運動には向かない靴であることは、自分でも判ってきた(考えて見れば、ブーツで徒競走に出て、他の連中に勝っていた私は、一体どういう走りかたをしていたのだろうか)。
 ブーツ以外の履き物となると、私が持っているのは白か黒のドレス・シューズ(エナメルの黒革靴。軍の礼装を着た時に履く)か、スリッパのようなサンダル(軍の病院で使われているもの)か、モカシン(インディアン特有の革靴……というか足袋のようなもので、ソールはなく、足音が全くたたないので、忍び歩きに適している)だけだった。
 それで、ついに、ブーツではない靴を買うことにしたのである。

 以前から、何となく欲しいと思っていた靴があった。
 コンバースのスニーカーである。
 当時、学校で───というか、恐らくは全米で───流行しており、二人に一人はコンバース、といった状態だった。
 ぺったんこのソールとトゥは白いラバーで出来ていて、本体はカンバス生地、ハイ・カットとロー・カットの二種類があり、色鉛筆なみに色が揃っている。ブーツと並べると、似ているのは主な外見だけで、あとは天と地ほども差がある。
 洒落っけのない私から見ても、そのスニーカーは、かっこ良かった。ソールが平坦な点は不安要素だったが(そんなもんに不安要素を見いだす十一歳にも問題はあるが)、普段、街を歩き回ったり、学校に通ったりするには、まさに打ってつけの靴に見えた。
 当時、ツーソン・デイリーの作文コンクールで優等賞を貰い、二週間に一度、日曜版に『移民の目』というコラムを書いていて、一回当たり三十四ドルの原稿料を貰っていた。加えて、新聞配達やホットドッグ・スタンドの手伝い、馬の世話、アリゾナ・エア・ベンチャーズ社の整備士見習い、マクファーレン銃砲店の修理工などをこなしていたため、月に三百数十ドル(当時の日本円に換算すれば五万円くらい)の小遣いがあった。十一歳の子供には過ぎた小遣いだが、燃料費と生活費に大半が消えるため、自由に使えるのは数十ドルだった。
 新しい靴を買うにはギリギリの予算だったが、ある日、私は決意を固めた。
 コンバースのスニーカーを買おう、と。

 これには、かなりの決意が必要だった。
 たかが靴一足と思うなかれ、何しろ私は、それまでに、軍用ブーツと礼装用革靴以外のものを履いたことがなかったのだ。
 初めて一人で電車に乗る時に、「これに乗ったら、延々とニュー・ヨークまで止まらなかったりしないだろうか」などという、えも言われぬ根拠なき恐怖感を抱くのと同じで、今までのものと全く違う靴を買うことについて、なんだか得体の知れない恐ろしさがつきまとっていた。
 例えば、もしも今日、コンバースのスニーカーを買って、明日からそれを履いて出掛けるようになったがために、何かの事故に遭った時に足首を保護出来なくて、両足首切断の憂き目に遭うんじゃないか、とか、演習場へ出掛けた時に、不発の地雷か何かが埋まっていて、それを踏んでしまった時に、ブーツを履いていなかったがばかりに、両脚義足になってしまうんじゃないかとか、何だか良く判らないことを色々と考えていた。
 そういった不安感を一つ一つ解消して───例えば、演習場へは履いて行かないことにしよう、とか───、スニーカーを買おうと決めてから一週間後、やっと実際に買う決意が固まった。
 他人からはどう見えるのか知らないが、私は小心者なのだ。


 街の靴屋に入り、迷うことなくスニーカー売場へ行く。
 もう何度も下見していたので、どこに何があるのかは、ぜんぶ判っている。非常口から消火器の設置場所まで知っていた。
 棚に並べられている、ブルーのキャンバス生地のコンバースを手に取る。もう何度も、そうしてきた。
 何度見ても、かっこいいと感じる反面、不安な靴だとも思った。
 最大の不安要素は、相変わらず、素材と靴底だった。ぺったんこのソールには、円形のトレッド・パターンが施されていたが、これは山岳地帯や砂漠地帯では、滑りどめ効果は一切生まないだろう。円形のパターンは必ずしも悪くはない。特に砂漠では。しかし、このトレッド(溝切り)は浅過ぎる。これでは意味がない。しかも、ごく普通のラバーだ。アスファルトやタール・マカダム舗装の上で脚を滑らせたら、このラバーはあっと言う間にすり減ってしまうだろう。さもなければ、陽に焼けた鉄板の上で溶けるかのどちらかだ。
 薄いキャンバス生地に、防護効果を期待することも出来ない。厚さ1ミリかそれ以下の、ごく薄いものだし、素材もさほど良くはない。防水処理は自分で施すとしても、ラバーと防水キャンバスでは、水はけは最悪のものとなるだろう。せめて倍の厚さがあれば、まだなんとかなるのだが。
 スニーカーの中に手を突っ込んで、柔らかい靴底の感触を確かめる。防護用のスチール・シールドも入っていない。古釘でさえ、簡単に貫通するだろう。それに靴底が必要以上に柔らかいと、足元の地盤の状態を感じることが出来ない。これは野外活動、特に足場の不確かな登山の際に致命的なものとなる。
 爪先にも防護がない。足の上に重いものを落としてしまったら、私の指は間違いなく潰れてしまうだろう。
 生地の縫い合わせも悪い。細い糸で一通り縫い合わせてあるだけだ。二重にまつり縫いをしない限り、ラバーとキャンバス生地の縫い合わせ部分が剥がれてしまうだろう。部分的に接着剤を使用しているようだが、この接着剤も質が悪い。靴紐も弱い、水に浸かったら切れてしまうだろう。ヒールの二重防護もないし、縫い合わせ部分が段違いになってしまっているので、恐らく長時間履いて歩いていたら、踵の上のあたりの皮膚が剥けてしまうだろう。
 クッション・パッドも柔らか過ぎる。キャンバス生地は引っ張り強さが足りない、エトセトラ、エトセトラ……。
 もう何度も、ここで、実物を見ながら、考えたことだった。
 下手に実用本位のものばかり買い続けていたために、変なところで目が肥えていた。合成コットン生地なら、手触りで合成繊維の混合比率が判ったくらいだ。
 スニーカーを棚に戻して、考え直した。
『これじゃあ、また眺めるだけ眺めて帰ることになる。今日は、もっと違う、子供らしい考え方をしよう』
 自分が、世間の平均から見て、やや「子供らしくない」という自覚はあった。そこで、実用的な面を全て捨てて、美点を探すことにした。
 まず、色だな。きれいなブルーじゃないか。白いソールとブルーのキャンバスのツートン・カラー。こんなに視認性に優れた色、コンバット・ブーツにはないぞ。もしもあったら、敵がゲラゲラ笑い出すか、怒って狙い撃ちするかのどっちかだもんな。
 側面の踝のあたりに星が書いてある。おしゃれだよな。しかもアメリカン・イーグル・スターとかUSインシグニアじゃなくて、普通の星だ。「コンバース」っていう社名も入ってる。目立たない場所に黒いスタンプが押してあるだけのコンバット・ブーツとは大違いだ。でもミル・スペックとかコントラクト・ナンバーはどこに書かれているんだろう? この靴の要求性能基準証明は、どこが出しているんだろう?
 それに───それに……それくらいかな。
『いかん!』
 これでは、今日もまた、買わずに帰るだけになる。もっと何か、決定的な差を探すんだ!
 そう、この靴には箱がある。紙箱だ。それぞれのスニーカーの色と同じ色の紙箱だ。ブーツにはない。いつも剥き身で渡される。あったとしても、ただの段ボール箱で、白いシールが張られているだけだ。シールには無愛想に「ブーツ、戦闘用、熱帯地域向け」という製品名と、軍の採用承認番号、製造コード、製造年月日、売店が製品管理するためのバー・コード、メーカーの名前と所在地が書かれているだけだ。でもコンバースの箱は、かっこいいブルーの箱で、かっこいいロゴがプリントされていて、靴そのものだけじゃなく、箱までかっこいい。すごいじゃないか。
『……そうかな?』
 自分を騙そうとしているとしか思えなくなってきた。
『僕は本当に、この靴を買うべきなのか? いや、そもそも、本当に、この靴を履きたいのかな?』
 実用品としてなら、絶対に履きたくない。こんなに役に立たない靴も珍しい。単に素足ではないという以上の効果は、ないだろう。
 お金はある。一応、このスニーカーを買えるくらいの額はある。今月末までの生活は苦しくなるかも知れないが、スニーカーを買ったせいで、明日から昼食が食べられなくなる、というほどではない。
 金銭的には、買える。でも、
『この靴は、実用的じゃない』
 スニーカーの前に突っ立って、腕組みをして考える。
『実用的じゃないのは百も承知してる。昨日も一昨日も、それは考えて、判ってる。でも欲しいような気がする。どうしてだろう? ───かっこいいんだよな、この靴は。でも、それだけなんだな、結局は』
 生まれて初めて、実用性を無視した買い物をしようとしている子供は、悩み続けていた。
 私の価値観によれば、実用性のないものイコール無駄なものであった。無駄なものは買わない方がいい。
『お金が有り余っているわけでもないんだから、買わない方がいいんだけど、だけど……うーん、どうしよう』
 悩む必要なんてない筈だった。実用性のないものを買う必要性はないのだから。
『どうしよう、どうしよう』
 それでも、悩み続けていた。

「おい、坊主」
 あんまり悩み続けていたので、背後に誰か来たことすら気付かなかった。
 腕組みをして考えていた私は、左足を軸にしてサッと振り返り、飛び下がって身構えた。条件反射だった。
「ああ? どうした坊主」
 目の前に、でっかいバックルをつけた、ぶっといベルトと大きな腹があった。見上げると、大きな顔があった。良く日焼けした、つるっぱげのおじさんだった。
 この店の主人だった。
「あ───ご、ごめんなさい、ちょっとびっくりしたんです」
 私は慌てて、普通の姿勢───と言っても、なんだか直立不動の姿勢みたいなのだが───に戻した。
「いい身のこなし、いい反射神経だな。何かやってるのか、ボクシングとか?」
 見れば、おじさんは典型的なボクサー体型だった。太い腕っぷし、分厚い腹筋と胸筋。リーチもかなりある。
「いえ、特には何も」
 いつもの通りに答えた。
 昔っから、私の体型を見て、武道に心得のある人たちは、必ず「何かやっているのか」と訊ねる。実際には、何もやっていない。しいて言えば、ジョンジーにマーシャル・アーツの相手をさせられていただけなのだ。
「ふうん」
 おじさんは私のことを見おろすようにしていたが、視線を私の背後に転じて、言った。
「欲しいのか?」
「はえ?」
 何のことか判らず、変な発音になった。
「スニーカーだよ、その、お前が一週間前から見てる、コンバースのだ」
「え、えーっと……はあ」
 曖昧に答えた。
「金がないのか?」
「いえ、そこそこは」
「なら、買えばいいじゃねぇか。安くしとくぞ」
「はあ」
「欲しくないのか?」
「いえ」
「なら、欲しいんだな」
「はあ、恐らくは」
「恐らくは? はっ! 変わった物言いをする坊主だな」
「はあ」
「足は通して見たのか?」
 また、何の話か判らなかった。
「は? 何にです?」
「靴にさ。そのスニーカー、試しに履いてみたのか?」
「いえ」
「だったら、試してみればいい。靴は、眺めて買うもんじゃないからな」
 言われてみれば、試しに履こうと考えたことすらなかった。おじさんの言うことは理に適っている。
「それじゃ、ちょっと試してみます」
「ちょっとと言わず、思う存分試してみろ、ただし店の外には出ていくなよ」
「そりゃあ、もちろん」
 私は地べたに座り込むと、自分のブーツの紐を解き始めた。この当時のブーツにはクイック・レース(靴紐を素早く解けるループ)など採用されていなかったから、片方のブーツを脱ぐだけで、数分を要した。
「───なんだ、すげぇブーツを履いてるな。兵隊のドカ靴なんか履いてる坊主は、初めて見たよ」
「僕も、他に見たことないです」
 パラシュート・コードで特別に作った靴紐を解き、やっとのことでブーツを脱いだ。毎日やっていることとはいえ、こればっかりは、慣れで素早くなるものでもない。しかも私は、靴紐をゆるく締めるのが大嫌いだった。全身の力を込めて締めたブーツの紐を解くのは、本当に面倒なものである。
「ほれ」
 おじさんが、コンバースと靴ベラを手渡してくれた。
「はい」
 私は、まるで呪いの靴でも履くみたいに、恐る恐る、自分の足を通した。
 そして、不思議な顔をした。不思議そうな顔をしていたんだと思う。
 続いて、もう片方も履いた。両方とも、靴紐をぎっちり絞ってから結んだ。そして、店内をのこのこ歩いて一周した。
 一周して、元の場所に戻ってくると、ポケットから、しわくちゃの5ドル紙幣を何枚か取り出した。
「これ、ください」

 私は、それまで履いていたブーツを、コンバースの空き箱に詰めて、たった今履いたコンバースのままで店を出た。
 そして、ストリートを歩き始めた。
 なんとも言いようのない感覚が、私を包んでいた。
 この感覚は、いまだに説明がつかない。明確な単語を当てて説明することも出来ない。まったく、なんとも説明出来ない。
 何とか苦労して表現しようとしても、「至福」としか言いようがない。そう、あれは至福の時間であった。どうして靴一足でそうなったのかも判らない。しかしとにかく、それが現実だった。いまだに何とも言いようがないのだが、とにかく、しあわせだった。
 ぺたぺたと音をたてて───ブーツではカツカツという音だったが───、街路を歩く。最初は、ほとんど無感覚状態だった。しかし、一歩進むごとに、顔がゆるんでいった。しまいには、どこかのケーキ屋のキャラクターみたいな顔になっていた。
 洋品店の前を通った時に、ショー・ウィンドウに映る自分をちらっと眺めた。
 それはそれは緩みに緩んだ自分の顔が映っていた。
 いつものジーンズのパンツに、いつものシャンブレー・シャツ、いつものウェスタン風フェドーラ・ハットを被った自分の姿。しかし首から上は、いつもの顔ではない。笑顔を通り越して、もうどうしようもないバカ面だった。自分でもそう思った。
 もしも現在の私が、そんな顔をした当時の私に出会ったら、後ろから容赦なく思いっきり蹴飛ばしていたに違いない。
 しかし顔は、元には戻せない。ニコニコとかヘラヘラなどという形容ですらカバー出来ない、世界でも最高の果報者の顔をしている。
 それが気にならなかった。何故なら、本当にしあわせだったから。
 その源がショー・ウィンドウにも映るように、私は脚を上げた。ジーンズを履いた脚の下には、同じ色のスニーカーがあった。
 私はまた歩き始めた。世界も再び動き始めた。しかし、その世界は、今までの世界とは全く別のものだった。
 そう、なんて素晴らしい世界、なんて素敵な青い空だろう! 地上のあらゆるものが神に祝福され、光輝いて見えた。曲がり角のゴミ箱や、落ちているコークの空き瓶さえ、神の贈り物か何かのように見えた。もちろん、その輝く世界の中でも最高に輝いているのが自分であることを、信じて疑わなかった。
 天使が私の頭上に降り立ち、そりゃもう最高の祝福を施してくれていた。有頂天などというものではない、私は天さえ突き抜けて、神の頬に触れんばかりの心境だった。全ての罪は許された。全ての人々は救われた。世界は平和に包まれ、天国の街角は海兵隊が守護する必要さえなくなった。ジーザスは私の兄弟だ、全人類が兄弟だ、宇宙は聖なる光に包まれ、全ての職業軍人が失業した。それでも世界は平和だし、人々は満たされた。
 レーガンは軍拡をやめ、全ての予算を平和部隊につぎ込んだ。米ソ核兵器削減交渉は核兵器全廃条約になった。書記長と大統領は、仲良くコサック・ダンスを踊った。鷲も雲雀も飛ばない高い空にさえ、神の慈愛が満ちていた。私はそんな気分で歩き続けた。さっきまで、スニーカーの非実用性についてあれこれ考えていたことさえ忘れた。
 あの時なら、世界の果てまででも歩いて行けただろう。あの時の私なら、海を二つに割ってでも、歩いていったに違いない。アリゾナから大陸を縦断して、南極点を通り抜け、北極点からカナダを通って再びアリゾナまで戻ってきただろう。国境もビザも知るもんか、僕はどこまででも歩いて行くことが出来るんだ。
 ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん。
 いつもの歩調、メトロノームの120と同じテンポで、ぴったり30インチの歩幅。しかし靴音は、いつもとは違う。
 私は、スニーカーを履き、ブーツの入った袋を手にして、どこまでも歩いて行った。
 自分の家の前まで。


「───やあ、ジョンジー」
 ジョンジーは新しい郵便ポストを立てている最中だった。今までポストがあった場所にはクレーターが出来ていて、何かの残骸が転がっていた。しかし私は、それらの全てを許せた。40ミリだろうが81ミリだろうが、好きなだけ撃つがいい。好きなだけ庭を掘るがいい。戦艦ミズーリの大砲だって構わない。ICBMが落ちたって知るものか。なにがあっても、あの時の私は全てを許せたろう。
 ジョンジーは顔を上げ、私の顔を見て、しばらく無言だった。
「なんだなんだ、なんかあったのか?」
「ううん、なんにも。ポスト立てるの、頑張ってね」
 私はぺたぺたと、ことさらスニーカーをぺたぺた言わせながら、ポウチを上がって家に入った。そして、持って帰ってきたブーツを、自室に放り込んだ。
 窓から眺めると、ジョンジーが不思議そうな顔をしていた。ジョンジーは気付いていない。僕の靴に気付いていない。ちょっとがっかりしたけど、それだって構わない。鈍いジョンジーに、僕のスニーカーに気付けって方が無理なのさ。
 私は家の中を縦断して、そのままテラスに出た。そしてカウチに座った。
 ブッシュが、続いてシルヴァがやってきた。私が明らかに上機嫌なので、ブッシュもシルヴァも喜んでいた。きっとそうに違いない。それにしちゃあ、最初は来ようかどうか迷っていたみたいだったな。まあいいか。今の僕は、ガンジーだって裸足で逃げ出すくらいに、広い心で何でも許せるんだ───ガンジーは最初から裸足だったかな? ま、些細なことさ。
 ブッシュはゆっくりと、スニーカーの匂いを嗅いでいた。私はスニーカーを脱ぐと、ブッシュの前に掲げて見せた。ブッシュはふんふんと鼻を鳴らしてから、私が床に置いたスニーカーの前にねそべった。
 私は靴下を脱いで、もう一度、素足でスニーカーを履き直した。それから、裏庭の砂漠を、ぐるぐると歩き始めた。ブッシュとシルヴァは、その後ろについて、一緒にぐるぐる歩いた。味もそっけもない裏庭の砂漠が、楽園になった。そこは豊かな稔りの大地となった。雨すら降らない場所だったが、そこは楽園だったのだ。恐らく、数千万年くらい前は。


 ここで、私の幸福な時間は終わりを告げた。
 ジョンジーが裏庭に顔を出して、こう言ったのだ。
「お前、グラスホッパーはどうした? あれに乗ってツーソン・シティへ行ったんじゃなかったか?」
 そう言えば、そんなものに乗って出掛けたような気もした。ツーソンへ行く時には、だいたいグラスホッパー軽飛行機に乗っていく。
 気がしただけではなかった。私はそれを、町外れの空き地に着陸させたのだ。
 そして、それを忘れて、ツーソン・シティから五時間かけて、砂漠のハイウェイを歩いて帰ってきてしまったのだ。
「───大変だ!」
 私は飛び上がり、わけもなくおろおろと歩き回ってから、シルヴァの手綱を取ってテラスまで戻り、その背中に飛び乗った。
「行くぞ、シルヴァ! 街に戻って飛行機を持って帰ってこなきゃ! シェリフに怒られる!」
 シルヴァの首筋をパンと叩いて、私は騎兵隊の突撃のような速度で、ツーソン・シティにとって返した。
 現実の世界が戻ってきた。陽は暮れかかり、空は赤く染まっていた。幸福な時間は永遠不変ではなかった。太陽は沈み、コヨーテの遠吠えが響く。
 私のグラスホッパーは駐車違反で牽引されてしまい、シェリフからはひどく怒られた。
 そして、ほんの数時間前までは確かにあった、あの幸福な世界は、どこか遠くへ行ってしまった。


 今でも、新しい靴を履くと、その時のことを思い出す。そして、ほんのちょっとだけ、幸福な気分になる。
 あの時の幸福な気分が、天地がひっくり返るほどのしあわせな気持ちが、一体どこから沸いて出てきたのか、少なくとも、靴そのものからだけではないことは確かである。
 小さな───と言いたいが、悲しいかな決して小さくはない───幸福の靴は、今でも、私の自室のベッドの下にある。
 すり切れて、あのスカイ・ブルーではなくなってしまったが、それでも、捨てる気にはなれず、今でも残っている。
 時々、取り出して眺めてみたりする。
 しかし、青い靴の魔法は、全ての魔法がそうであるように、一度きりのものらしい。
 それでも、その名残りのようなものは、今でも感じられる。
 不思議なものである。
 あれから十年以上の月日がたったというのに、僅かばかりとはいえ、今でも効き目は残っているようだ。


 あの日の魔法の謎は、いまだに解けていない。
 私のような人間にとっては、恐らく永遠に謎のままだろう。
 それはそれで構わない。
 謎が解けたら、それは魔法ではなくなるのだから。