悠久より













 陽の昇る場所







 小さな肩を震わせて、英士はいつも泣いていたように思う。

 幼い頃の英士はとても泣き虫で。
 いじめっこなんかに少し揶揄かわれたりすると、もうすぐに泣き出してしまって。
 英士は一人っ子なので、喧嘩の術も、相手の真意を汲み取る手段も、何も知らなくて。
 膝を抱くようにいつも泣いていた。

 初めて逢ったときも、年上の僕に怯えるように目を潤ませていた。
「李潤慶。オマエの、イトコ」
 妙な発音だったと思う。英士は少し首を傾け、どうしたものか判断出来なかったようで。
 僕も少ない日本語の語彙から上手く伝えようと精一杯頭を働かす。言葉を操れないというのは、ひどくもどかしい。
 やがて英士は黙り込んだ僕が怖くなったらしく、今にも泣き出しそうな瞳で後ずさりした。
 ――走り出そうとしたその細い腕を掴んで。
「待てよ!」
 日本語だったか。韓国語だったか。

「僕がお前を守ってやる。泣かせたりしない」

 それはきちんと伝わった。
 安心したように微笑んだ英士は、とても可愛かった。

 年に数回しか逢えなくても、僕らはとても仲が良かった。
 僕は英士の傍にいること、守ることに誇りを感じていたし、英士も僕に頼りきっていた。
 大人達は“兄弟みたいだ”と僕らを評し、僕もそれが気に入っていた。
 ――英士には自分がいなければ。
 そんな風に思っていた。お兄ちゃん風吹かすのに優越感も感じていたんだろう。

 英士は逢う度に幼さを感じさせなくなっていった。
 泣かない強さを身に付け、狡い駆け引きも覚えた。
 いつの間にか“僕の英士”ではなくなり、又“英士のおにいちゃん”でもなくなっていた。
 一抹の寂しさも感じる。しかしそれ以上に、英士にまた別の興味も持つようになった。
 年下の従兄弟ではなく――対等な存在。
 それはそれで面白くて。満足していた、と思う。別段只の従兄弟にそれ以上望むはずもない。
 ――結局、英士を守るのは自分の役目だったし。

 二年程日本にいたときも、英士はいつも僕に頼っていた。無意識にだろうが幼い頃染み付いたものはずっとだ。
 例えば、二人でいるときだけの“潤”という呼び方。昔の名残で、気を緩めるとついそう呼んでしまうらしい。それが僕にはひどく心地の良いことで。
 やっぱり英士は英士なのだと安心していた。

 けれど。

 英士は年々綺麗になっていった。――昔“女みたいだ”と揶揄かわれて泣いただけのことはあるのかもしれない。
 小さな丸い手はいつの間にかすらりと長くなっており、扇情的な仕草を見せる。
 華奢なだけだった体は艶やかさを纏い、匂い立つような色香を引き立てた。
 気品ある優美な物腰はもう、子どもではなかった。

 そして僕は英士を――対等な従兄弟としてすら見なくなっていた。

 幼い頃から散々触れていた手に別の意味を込めたり。
 動く唇を不埒な思いで見つめたり。

 何度も、思うままに陵辱する夢を見た。

 その想いに、気が狂れそうだった。
 相手は従兄弟で、しかも男で。幼い頃から知っていて。これは抱いてはいけない感情で。自尊心。道徳が。
 ――凡てに、気が狂れそうだった。

「潤慶、俺を抱いてよ」

 一度だけでいいから――昔のような涙ではなく、切ない、儚い涙で。
 全部要らないと思った。
 英士が僕のものになってくれるなら、全部要らないと。

 何を忘れていたのだろう。
 自分の真ん中にはいつも英士がいたじゃないか。
 昔から。ずっと。

 これが自分の生きる意味だと、心臓が震える程に。







「何考えてるの」
 覗き込む瞳は澄んでいてとても綺麗だ。
 昔のことだよ、と云うと英士は珍しく甘えるように僕に身を委ねた。そっとその背を抱き寄せる。
「感傷的になって。どうしたの」
「さあ、どうしたのかな」
 髪に顔を埋めると、官能的な甘い香りがした。
 目を閉じる。その鼓動だけを感じる。
「――俺、英士がいれば何もいらない」
 英士は本当にどうしたの、と云って微かに笑った。

「告白しようか。僕、かなり小さいときからそんなこと思ってた」

 頬に添えられた手は優しくて暖かい。
 その温もりにゆっくりと目を閉じる。

 ――僕がお前を守ってやる。泣かせたりしない。

 そう云えばあの科白。
 あれ以来口癖のようになった。
 初めて逢ったときからこんなことを口にしていたとは――。

 英士が微笑む気配がした。
 濃密な甘い空気に髪の先まで染まっていく。
「じゃあ、俺もひとつ告白しようか――」
 囁くような透明の声に眩暈のような幸せを感じた。










END