自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
「英士」
もう、この国では誰も呼ばない発音は、それでも違和感などなく、そして柔らかで、優しい。そのもう1つの名前が、確かに自分のものなのだと享受するのに、逡巡する時間などはそこには存在しない。
この国で、他に誰も自分のことをそう呼ばないことに「特別」を感じることにさえ、もう精神は順応してしまっている。
けれど、当たり前だと認識されても尚、それは消えるわけではなく。
「英士」
繰り返される、名前。1つ、彼がそれを奏でる度に、頬に、額に、瞼に、順に唇が触れられる。意味なく行われる親愛の行為は、1つもない。1つ1つのキスに、想いが篭められて。英士はそれを、零すことのないように、静かに受け止める。幼い頃からの習慣にも近いそれは、既に潤慶が辿る軌跡すら形成してしまっている。まずは、頬に触れる。
幼い頃、英士は潤慶に頬にキスを受けるのが一番好きだった。
否、今でもそれは変わらないのかもしれないけれど。
それを口に出せば、彼は「そっか」と言って笑って。それから、一番初めにキスをするのは、一番多くキスをするのは、そして最後に名残惜しげにキスをするのは、全て頬だった。
昔からこの従兄が好きだった、一種過剰なスキンシップは、決して不快なものなどではなかった。
けれども、それが潤慶からの施しであるが故に心地良いのだという事実と、その心地良さを生み出す理由に気付くことができるほど。
「それ」を既に知っていて、それでも口に出さずに、笑って自分の側にいてくれた強くて、優しい、昔から誰よりも大切に思っていた従兄ほど。
そして、英士は自分で自覚していたほど。
大人でも、賢くも、なかったのだ。
初めから全ては「そこ」に存在し、潤慶は遠い過去の一部から今までずっと、それに気付いていたにも拘らず、英士が「それ」を見つけたのは、本当に最近のことで。
「英士が好きだよ」
幾度となく繰り返される、その科白に。
「俺も、潤慶のことが好きだよ」
無邪気に応える、その返答に。
遥かな記憶の果てでさえも尚、その言葉は鮮明に英士の中に存在する。英士が覚えている一番古い記憶は、父の顔でも母の声でもなく、「大好きだよ」と優しく囁く、潤慶の稚い姿。その小さな腕に抱き締められる、自分自身。
一体いつから、その会話は続けられていたのか、もう判らない。それでも、英士の中にある他の何よりも大切な思い出。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
潤慶が英士の気持ちを自分に向けることに全身全霊を傾けたと言うのならば、それは報われた、の一言で表すことができるのかもしれない。
1つ1つのキスに、初めから全ての想いを注いだ。
「好きだよ」と繰り返す言葉の端から端までを、英士への想いで満たした。
最初からずっと、潤慶は英士のことだけしか見てはいなかった。英士だけを欲しいと願い、それを叶えるために、英士と出会ってから現在までの時間の全てを注ぎ込んだ。
それが無駄なものになるはずがないと、知っていたから。
自分の想いが成就することを、祈っていたから。
英士がどんな形であれ、自分に向けている感情は特別なものであるのだと、判っていたから。
英士が何時の日にか自分のものになると、信じていたから。
だから、ゆっくりと、静かに。
腕の中に収めた英士が、潤慶を見るために目を覚ますのを待った。
英士は潤慶と出会った時から、潤慶の腕に捉えられ、そしてずっと眠っていたのだ。眠っている英士には、何も見えない。何も聞こえない。自分が誰に抱きしめられているのかさえも判らない。
初めからずっと。
潤慶と初めて出会った時から、英士は潤慶の腕の中にいた。
けれども、英士はそれに気付かない。自分に心地よい眠りを与えてくれているのが、誰なのかを知らない。
けれども、潤慶は待った。
無理やり、起こすのではなく。
覚醒を呼びかけるのでもなく、ただ。
静かに、目を閉じた英士にキスを贈って。「好きだよ」と囁いて。英士がいつかは目覚めて、自分のことだけを見てくれる日を夢見て。
ただ、静かに待っていた。
初めから全ては「そこ」にあり、潤慶には「それ」が完全に見えていた。けれども、目を閉じて昏々と眠り続ける英士は、「それ」に気付くことすらなかったのだ。
それでも、潤慶は待った。
それが、この誰よりも愛しい従弟を傷つけない唯一の方法であると知っていたから。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
潤慶は、俺のどこがいいのだろう。
自分にあまり確固たる自信を持つことができない英士は、時折、そう心中で訝る。
潤慶は、天才だと思う。それはサッカーに関しても、他のことに関しても言えることで。どれだけ幼い頃から手を伸ばしても、潤慶は立ち止まって手をひいてくれることはあるけれども、決して。
決して、英士が潤慶を追い抜かすことはない。
潤慶は凄い。
それは初めて出会った時からずっと、英士の中に凝り固まり続けた固定観念。今でもそれは揺るぐことはなく、却って強化されるばかりだ。
だから、不安になる。
英士にとって潤慶がどれだけ大切で特別な存在なのかを認識してしまった今、英士の不安は、いつでもその疑問に起因する。
怖いのは、潤慶を失うこと。
泣きたくなるほど嫌なのは、潤慶から嫌われること。
あの腕の中の温かさを永遠に奪われたとしたら、一体英士はどこで息をすれば良いというのだろうか。それに答えはない。潤慶以外に、英士の場所はない。潤慶だけが英士の居場所であり、安堵の源であるのだという事実に。
「それ」はいつだって、初めから「そこ」にあったというのに。
いっそのこと、気付かないでいられれば良かったと思う時がある。
従兄としての感情ではなく、潤慶のことが好きなのかもしれないと告げたとき、英士の声は確かに震えていた。けれども、それを吐き出させてくれたのは。
潤慶の瞳が、全てを語っていた。
怖くないから大丈夫だと、言っていた。
だから英士は、その言葉を口に出した。
潤慶はその時、柔らかく笑って。静かに、「待ってて良かった」と呟いて英士を抱きしめた。抱きしめたまま髪を梳く潤慶の、腕の中の温かさに吐息をつけば、そのまま唇は自然と動いて「好き」という言葉を紡ぎだしていた。
潤慶は、もう一度笑って。
いつものように、頬から順に、キスをくれた。
その優しさを、温かさを知ってしまったら、もう抜けられなくなると直感した。それでも英士には、黙って、目を閉じて。
いつも通りに潤慶に与えられる刺激を、受け取ることしか出来なかった。
ただ、違ったのは。
その日から、潤慶はいつものキスに1つだけ箇所を加えた。
唇に、潤慶のそれが触れる。そう言えば、いつもは潤慶から英士にばかりキスをくれて、英士は殆ど潤慶にキスをしたことがなかったのだという事実に、今更ながらに気付く。
潤慶は、待っていてくれていた。
英士だけを、待っていてくれていた。
それがどれだけ幸せなことであるのかを理解できたのと同時に、それを失ってしまうことを、心の底から怖いと感じた。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
言葉で誰かに自分の想いを伝えるのは、本当に難しいことだと思う。その逆然り。
英士が何かに怯えている。
「英士、どうしたの?」
子供の頃は、それでも英士の気持ちを汲むことは潤慶の十八番だった。一生懸命に言葉を選定しようとする英士に、上手に纏めた言葉を渡してあげれば、それで事は解決する。
英士を宥めるのも、潤慶の仕事だった。
「大丈夫だよ」と囁いて、背中に手を回して抱きしめる。頭を撫でて、笑みを送る。それだけで、英士は泣き止んで笑顔に戻った。
何でもない、を繰り返す英士の両頬を手で固定して真っ直ぐに視線を絡ませると、漸く英士の口からは、搾り出したような声が漏れる。
「潤慶は‥‥‥俺の、どこがいいの? 俺なんかの、どこがいいの?」
あまりにも不安定な瞳で、泣き出しそうな目で英士に訴えられる。それは幼い頃、すぐに泣いていた英士を彷彿させる。
こんな時に、今の自分の気持ちを英士に全て与えることができる方法があったのなら、どれだけ幸せだろうかと思う。
英士の全てが好きなのだという言葉は、この場合どれだけの価値があるだろう。
けれどもそれは潤慶の真実であり、それ以外の答えはない。
それでも、その答えでは英士は納得しない。
絹のような漆黒の髪も同じ色をした深い瞳も、滑らかな白い肌も、形の良い薄い唇も、細く、長く伸びた四肢も、全ては最上級のものであるにもかかわらず、不安定に揺れ動く心だけが、英士を不完全な芸術品にしている。
けれども潤慶は、完全無欠の綺麗な美しい芸術品が欲しいわけではない。
潤慶が欲しいのはただ、1つ。
世界中でたった1つしかない宝石。それは潤慶にとって、他の何よりも意味を持ち、価値がある。
その全てが、英士に伝われば良いと思う。
「英士の全てが好きだよ」
やはり潤慶には、それ以外に何も言うべき言葉はない。
「初めて会った時から、僕はずっと待ってたんだよ」
腕の中に収めた、可愛い従弟が目覚めるその時を。
英士を力任せに引っ張って、自分の胸の中に収める。軽い肢体は、簡単に潤慶の作り出す動きに従う。それに抵抗の兆しは一切付随することはない。
「誰にもあげない。英士は僕のだ。初めから、これからもずっと。僕が最初に英士を見つけた。結人より、一馬よりも早く。英士の全部が好き。どこか一部分なんていらない」
力を込めて抱きしめると、英士の喉から小さく呻き声が上がる。
「何をすればいい? 一体、何をしたら僕が英士を本当に好きだって判ってくれる?」
それは、幾度も幾度も潤慶が心の中で反芻し続けた問い。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
潤慶に望むことは、いつだってたった1つだけ。
「抱き締めて、離さないで。俺だけ見ていて。‥‥‥お願いだから。それ以外、何もいらない。潤慶以外、何もいらないから。だから‥‥‥」
抱き締め返す英士の腕は震えている。
この温もりを失うことを恐れている。
その願いは無理な事だと知っている。それでも、願わずにはいられない。
「英士、好きだよ」
頬から始まる口付け。幼い頃から変わらない、潤慶の所作。
この全てに英士は囚われた。幼い頃から、潤慶は英士に自分を好きになることだけを教え続けた。そして英士は、それを余すことなく、学び続けた。
結果。もう英士は潤慶を失った世界では、生きていくことはできない。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
不安にさせることを、すまないと思う。
それでも、それが自分を想ってくれる証なのだと知れば、待っていて良かったと、心の底から思う。
初めから英士は潤慶のものだった。潤慶は初めから、英士しか望んでいなかった。
初めから全ては「そこ」に存在し、潤慶は初めから「それ」に気付いていた。
必然を引き寄せたのは、潤慶。
必然に引き寄せられたのは、英士。
初めて会った時から潤慶の中にあった想いは奇跡。
同じ想いがずっと英士の中に育まれていたのは奇跡。
自分が彼を好きになったのは必然で、彼が自分を好きになってくれたのは奇跡。
願わくは、その奇跡が永遠に変わらないことを。