お風呂

 英士と一緒にお風呂に入った時に、英士の髪を洗うのは僕の仕事。
 シャンプーが目に入らないように、固く目を閉じた英士の漆黒の髪に、ゆっくりと指を滑らせていく。水を含んだ髪は、従順に僕の指の動きに乗る。僕の指で掻き混ぜられる英士の髪の一筋一筋にも、愛しさが募っていく。目を閉じたまま僕の作り出す所作に従う英士に、酷く庇護欲と責任感と、そして独占欲を煽られる。
 英士がこんなにも無防備なのは僕の前だから。
 そう考えて、口元が緩むのを抑えることもできない。英士は目を閉じているせいで、僕の表情を窺い知ることなどできないけれど。
 英士の髪は綺麗。
 僕の髪よりも、もっと光沢があって、細くて柔らかい。
 従兄弟なんだから、こんなに髪質に違いがなくても良いのに、と、時折思えるほど。
 英士の髪は、僕が知っている誰よりも綺麗。それは英士自身にも言えることだけれども。
 一見すると、僕と英士は似ているらしい。それは当然だろう。従兄弟なのだし、同じ血を継いでいるのだから。そのことに誇りを持たずにいられるはずもない。僕らを繋いでいる何よりも確かな証拠は、生きている限りこの身体の中に流れている。それは傍にいても、違う国で息をしていても変わらない。
 それでも。
 一つ一つを見れば、僕と英士が全然似てなんていないということを、誰もが見つけることだろう。
 例えば、この髪は。
 この柔らかくてサラサラな髪が、英士の髪。
 パサパサしていて、少し固いのが僕の髪。
「英士、お湯かけるよ」
 目を閉じたままの英士が、小さく頷いて。
 それを確認して、僕はシャワーの蛇口を捻った。
 英士の髪に、温かいお湯をかけていく。泡に隠れていた英士の髪が、その全貌を現していく。
 僕の髪ではない髪。英士の髪。
 柔らかい英士の髪が好き。
 その髪に、口付けるのが好き。
 柔らかいそれが、抱き締めた時に首筋を撫でるのが好き。
 それが僕のものと同質ではないという事実が、どれだけ僕を満たしてくれていることだろう。
 自分と同じものなんていらない。
 英士以上のものなんて、どこにも存在しない。
 英士の身体を形作る1つ1つのものが大好きだけれども、それは全て、「英士」の一部だから意味を持つ。
 それが僕とは異質のものであるからこそ、価値がある。
「もう、目を開けてもいいよ」
 全てを終えて、目を開けた英士に優しく微笑む笑顔を送る。
 それを受けて、英士も笑う。
 僕と英士が似ているという人は少なくないけれども。
 その人たちは、気付かなくてもいい。
 僕の固い髪だけを見て、英士も同じなのだと、勝手に偏見と先入観に凝り固まってしまえばいい。
 そうすれば。
 その人は決して、「英士」を見つけることはできない。
 「潤慶」を見ていても、その中には「英士」はいないのだから。
 似ているものは、形だけ。一つ一つは、全く違う。
「英士、大好き」
 まだ濡れている髪に唇を落とす。
 それにまた笑う従弟を、僕以外の誰も知らなければ良いのに、と、切に願った。



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僕が君を好きな理由

 瞬間。僕は夢を見ているんだと思った。
「ほーら、似合うでしょ」
 満面の笑みで微笑む、母さんの相貌も、僕の後ろで何も言えずにただ英士を見つめている英士のお母さんも。 
 何もかもがどうでも良くなって。
 ただ、僕は。
 英士だけを、見つめていた。
 女の子の服を着せられて、更には僕と自分の母親からの視線を一心に受けて、恥ずかしそうに僕の母親の後ろに隠れようとする英士を。
 事の始まりは、母さんの一言からだった。
『潤慶。日本へ行くわよ』
 どうして、とか何のために、とか。
 そんなことは、僕には一切関係がない。日本へ行けるということ。それはただ、1つの意味だけを持つ。つまり、僕が英士に会うことができる、という事実だ。
 母さんの目的は、英士に似合う服を見つけたので、それを英士に直接着せたかった、ということらしかった。
 僕と英士のお母さんを残して、母さんは隣の部屋に英士を連れて行ってドアを閉めた。英士と隔てられていた短い時間を、僕は英士のお母さんとお茶を飲むことで過ごした。英士のお母さんが淹れてくれた紅茶を飲んで、ドア一枚を隔てた向こうで着替えをしている英士を想う。母さんは一体、英士に何を着せているのだろう。そんなことを考え、少しだけ期待に胸を膨らませて。
 そして。
 僕と今、対峙してるのは。
 真っ白のワンピースを着た英士。服の裾や下の方が綺麗にレースで整えられている。お人形さんが着てるみたいな服を着ている英士は、頭から靴下の先まで、本当に作り上げられた人形のようで。
 それでも、綺麗な中に恐ろしさが存在しないのは、英士がちゃんと生きて、息をしているから。
 無機物の結晶などではなくて。
 これは、英士。
 僕の大好きな、英士。
「可愛いでしょ? もう、凄くこの服気に入っちゃったんだけどね、潤慶に着せるわけにはいかないし、英士なら似合うかと思って」
 母さんは、声を上げることすら出来ない僕らに視線を送り、そして誇らしげに笑う。英士は、そんな母さんの影に隠れようとするけれども、母さんはそれを許さずに英士を僕の前へ押しやる。
‥‥‥英士も男の子なんだけど」
 溜息をつきながらそう呟いた英士のお母さんを、僕の母さんは笑いながら宥めた。
 英士は、いつもの服とは全く違う感触に、困惑したように幾度か身を捩って。その度に僕の前で、真っ白な服が柔らかく揺れた。
「英士、お姫様みたい」
‥‥‥お姫様って、女の子じゃないの?」
 感嘆の吐息を零しながら英士に投げた僕の言葉に、英士は少しだけ首を傾げて聞き返す。英士は元々、女の子みたいに可愛い子供だけれど、こんな風に女の子の服を着ていると、本物の女の子みたいだ。
「英士、本物の女の子みたいだ」
 いや、そうじゃない。
 本物の女の子よりも、ずっと可愛い。
「凄く可愛いよ、英士。可愛い」
 満面の笑みでそう言った僕の科白に、英士は少し、困った顔をして。その意味を掴めずにいた僕から身を翻して、英士は隣の部屋へと、逃げるように入っていってしまった。
「英士?」
 慌てて、英士の後を追いかける。部屋に入ると、英士はちょうど、部屋の片隅に辿り着いて、そこに座り込んだ所だった。
 その肩が、小さく震えている。
「英士、ごめん。どうしたの、僕が可愛いって言ったから、女の子みたいって言ったからいけなかったの? 脱ぎたいなら、脱いでもいいよ」
 近づいて、英士の前に腰を下ろす。英士は俯いて、小さな手で溢れる涙を何度も拭っていた。
「英‥‥」
‥‥‥潤は」
 尚もかけようとした声を、英士に堰き止められる。小さく、幾度かしゃっくりあげて、英士は言葉を継いだ。
「潤慶は、女の子の方が、いいの?」
「え?」
 英士の言いたいことが判らなくて、思わず疑問符を脳裏に幾つも浮かべる。その間にも、英士は泣き続けて。白い服の上に、透明な雫が数滴流れ落ちた。
「僕、男の子だから。‥‥‥女の子じゃ、ないから」





 英士の記憶に描かれるのは、先刻、着替えをしていた時に伯母と交わしていた言葉。
 嬉々として、伯母は英士の頭からワンピースを被せて。
『英士、可愛いわね。女の子だったら、伯母さんこういう服、英士にいっぱい着せたのにな』
 ボタンを留めながら言われたその響きに、英士は少し、眉を寄せた。
‥‥‥僕、男の子じゃダメ?』
 それに、いつも明るく笑う伯母は、その笑顔を英士に向けた。その笑顔は潤慶に似ているな、と、ぼんやりと英士は感じて。そして、今、あのドアを隔てた向こう側に潤慶がいることを思い出す。誰よりも大好きな従兄が自分に会いに来てくれている。
『ん?ダメじゃないけど、やっぱりこういう服は、女の子が着る物だからね。英士はよく似合うけど』
 同じ笑顔で自分に笑いかけてくれる従兄は、自分のこの姿を見て、何と言うのだろうか。
『潤慶も、気に入ってくれるかな』
 喜んで、くれるといいな。そう思いながら、英士は自分の襟元についているピンク色をしたリボンを小さな手で触れた。柔らかい感触が指先から伝わる。
『うん、そうね。きっと可愛いって言ってくれるわよ』
 潤慶は、確かに喜んでくれた。
 「可愛い」って、言ってくれた。でも。
 英士が「女の子」だったら、伯母も潤慶も、もっと喜んでくれたのかな、と思ったら、少しだけ。
 少しだけ、胸が痛くなった。
 だって英士は「男の子」で。「女の子」にはなれない。
『本物の女の子みたい』
 本物の「女の子」になんて、なれない。
 潤慶は、「女の子」の方が、好きなのかな。
 伯母さんも、僕が「女の子」だった方が良かったのかな。
 そう思ったら、不意に悲しくなって、気付いたら隣の部屋に駆け込んでいた。
「英士」
 大好きな従兄。この従兄は英士に、いつでもいろいろなものをくれる。なのに、自分はなかなか、何もすることができなくて。潤慶の喜ぶ顔が見たくて、今日はそれが叶ったと思ったのに、それでもそれはまだ完全とは言えないようで。
 それでも英士は、「女の子」にはなれない。
 潤慶を喜ばせることが、できない。





「僕はね、英士。英士が『女の子』だから良かったなんて、思わないよ」
 英士の言いたいことが何となく伝わってきて、僕は英士の両頬に手を添えて、ゆっくりと持ち上げた。英士の涙に濡れた瞳が見えて、初めてのことではないけれども、酷く胸の奥が痛んだ。
「僕はね、『英士』が好きなの。英士なら、男の子でも女の子でも、全然関係ないんだよ」
 英士の涙に潤んだ瞳が、俄かに大きく揺れる。そして震える声を、漸くのことで引きずり出した。
‥‥本当に?」
「うん」
 しっかりとそう頷いた僕に、漸く英士は笑顔になって。
 その気持ちは本当。
 英士が女の子だったら良かったと思ったことなんて、一度もない。英士は英士であってさえくれればいい。僕の好きな英士であってくれれば。願わくは、僕を好きな英士であってくれれば。
「潤慶、大好き」
 英士は感謝の印に、僕の頬に優しいキスをくれた。