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1話〜26話まで 27話〜50話まで 51話 奇跡。 それこそが、あたしたち美坂家が望んで止まないこと。渇望していること。 お金で買えるのなら、あたしの一生をかけてでも支払うのに、それだけ望んでも手に入らないもの。 簡単に口に出してはいけない言葉。 逆に言えば、ものすごい陳腐な言葉。それこそ、さっきの名雪たちみたいに遅刻から免れる程度に使われるような。 あんなもの、いらない。 あんな陳腐な奇跡なんか、いくらでもあの二人にあげる。 あたしが欲しいのは、あたしが欲しい奇跡は、あんな軽いもんじゃない。もっと、もっとももっと重いものだ。 だから、手に入らないのかもしれない。 溜息。授業中だから、誰にも気付かれない。仮に気付かれたとしても、あたしの溜息の理由を別に捉える。試験はもう少し先だとしても、授業中は大抵の人が溜息を乱発するものだから。 念のため、周囲を窺ってみる。名雪は船を漕いでいた。まだ午前中だっていうのに。別の意味の溜息が本当に零れた。 北川くんは、何か懸命に書き込んでいる。彼のやっていることは時々謎。理解したいとも思えないけど。興味がないとはいえないけどね。 相沢くんは・・・・・・・・・・まただ。 また、窓を見ている。正確に言えば窓の先を。 わかりやすくいえば外を。もっとわかりやすくいえば・・・あれは、中庭を。 何を見ているんだろう。気になる。 妙に心がざわついていた。 嫌な予感、そんな感じに近い。 彼は一体、何を見ているのだろう。 注目、視線を完全に固定して動かしていないわけでもなかった。もっとも、そんなことしてたら一発で先生に注意されるし、注意の矛先が外に向くに決まっている。窓際の人間が一斉に同じ場所に視線を送ることになる。 それは多分彼にとっても都合の悪いこと、じゃないかしら。 溜息。 あたしじゃない、相沢くんが溜息をついていた。 ここからは表情が読み取れないけど、肩から上が微妙に揺れたから、きっと溜息。 首が回る、正面に。どうやら見るのを止めるつもりらしい。 なんか、動きが緩慢だった。 まるで、そう「やってらんない」というポーズみたい、そんな印象を抱いた。 この授業が終わったら、ちょっと聞いてみよう。何か、気になる。 それは予感に近いものだった。気になってしょうがない。 休み時間。相沢くんは名雪に日直の手伝いの約束をさせられていた。さすがにそこに割って入るわけにもいかない、名雪が離れるまで待とう。 名雪がにこやかに離れて行った後で、近寄る。と、また相沢くんは外を見た。 空を見て・・・多分雲の流れを読んだのね、風が出ているみたいだった。 そこに声をかける、絶好のタイミング。 「どうしたの、相沢くん?」 「いや、ちょっと物思いに耽ってみただけだ」そう見えないことはない。見えないことはないけど 「似合わないわね」しみじみと。目も細めて。 この流れでさりげなく。 「そういえば、授業中もよく窓の外見てるわね」 若干の間。 「それは・・・・・」 そういって、相沢くんの目が泳ぐ。何か、考えているみたいだった。 そして、何故か複雑な表情を浮かべて、あたしに聞いて来た。 「なぁ、香里・・・・・」 どきり、と胸が高鳴った。嫌な予感。 52話 沈黙。 相沢くんはあたしを見つめていた。 何か言いたそうな顔。言いたいことがあるのなら言えばいいのに。 普段のあたしなら言っている言葉、何の躊躇いもなく使っている言葉。 でも、今この場においては、言えない。心の中で警鐘。 言ってはいけない、この先を促したら駄目。 あたしもそう思う。思うから言えない。 黙って相沢くんの言葉を待つ。待つことしか出来ない。 違う、もう一つだけ選択肢があった。 逃げればいい。この場から。 ちょっとトイレにでも行くことにして、この場を離れればいい。 そうすれば、相沢くんの話の続きを聞く必要はなくなる。 離れた方がいい。心が告げる。根拠もないのに心が警鐘を鳴らす。 あたしは動けない。何故か動けない。 動けないまま、じっとしている。 心のどこかで相沢くんの言葉を聞かなければいけない、そう思っているからなのかもしれない、どうしてそう思えるのか、あたしにも説明出来ない。出来ないけど、そうでなければ絶対に逃げていると思うから。 あたしの足は動かない。ここに留まっている。 あたしの口は動かない。相沢くんの言葉の続きを待っている。 とても長いようでいて、きっと全然短い時間。 相沢くんが、意を決したような顔で言った。 「栞が毎日学校に来てるって知ってたか?」 一瞬、頭が真っ白になった。 一瞬が永遠に思えるほどの、衝撃が圧し掛かる。 相沢くんの言葉があたしの身体の上に落ちてきた。そのまま重く重く、あたしの心ごと身体を押しつぶすかのように圧し掛かってくる。 栞が、学校に? いつもあたしを悲しい顔で見送ってくれる栞が? 帰ったら「おかえりなさい」と出迎えてくれる栞が? 誰よりもここに来たいのに、絶対に来ることを許されていない栞が? ・・・・・・・・ありえない。 そんなこと、ありえるはずもない。 どう考えたってありえない。 ありえない、はずなのに・・・・・どうしてだろう。納得している部分もある。そういうこともあるだろうなって思える気持ちもある。 だって、栞は誰よりも学校に来たがっていたもの。 だから、相沢くんの言っていることは嘘じゃない、きっと本当のこと。 でも。 それよりも、いや、それだって酷く驚かされることだけど。 そんなことよりもずっとずっとあたしを驚愕させることがある。 絶対にありえないはずなのに。 親友の名雪にすら教えていないのに。名雪ですら存在を知らないはずなのに。 どうして、どうして相沢くんが栞のことを知っているの? わからない。わからない。 確かめたい、問い詰めたい。 どうして相沢くんが栞のことを知っているの? 何で栞が学校に来ていないって知っているの? どうしてあたしにそれを聞くの? 質問が渦を巻く。答えを求めたい気持ちがどんどんどんどん湧き上がる。 でも、それは出来ないこと。絶対にやってはいけないことなんだ。 思い出さなければならない。あたしの誓いを。 何のために確認をするのか。何のために部室で鏡をみているのか。 栞はいないんだ。学校の中に、彼女の存在はないんだ。 学校では、あたしに妹なんか、いないんだ――――――――――――――― 53話 「…………」 心を落ち着ける。 見られてはいけない。思わせてはいけない。 暗示をかける。心に暗示を。 悟らせたらいけない。あたしの隠している内面を。 沈黙を貫く。まだ駄目。まだぼろが出る。 いつものあたしになるまで、沈黙。 相沢くんの目。好奇に満ちた目をしているわけじゃない。いつもの目。彼は普通に聞いているだけ。勘ぐっているわけじゃない。明日のテストの範囲を聞いているのと同じ感覚で問いかけている。 それがあたしを落ち着かせる。 泡立った心が落ち着いていく。 自然に、自然にすっと出るように。違和感のないように。 「…栞って、誰?」言えた。 こういう時いつもあまり表情を崩さないのが幸いしていると思う。それほど大袈裟でもなく。かといって淡々と無表情で、というわけでもない顔。多分大丈夫。 「…誰って…」 二の句が告げない相沢くん、どうにか気付かれずに済んだみたい。 疑問には感じているかもしれないけど、でも深くは踏み込んでこない。相沢くんはそういうタイプの人じゃないと思う。 そのまま追い打ちをかける。 「聞いたことない名前だけど、相沢くんの知り合い?」 さっきよりも自信を持って言えた。我ながら快心の演技。 「姉妹じゃないのか?」 ずばりとストレートに聞かれた。疑問には思う。どうして栞のことを相沢くんが知っているのか。それも何となくわかってきたけど。 昼休みのあれだ。間違いない。 毎日学校に来ているという栞、そう相沢くんは言った。 相沢くんはここ最近、昼休みに教室を出て外で食べている。 それを結びつければ出て来る回答、単純な推理だわ。 そしてその推理を裏づけているのが今の相沢くんの質問。 多分相沢くんと栞は交流が出来ている。名前の交換ぐらいしているだろう。 「美坂」なんていう苗字はそれほど多くない。フルネームで自己紹介すれば容易に想像できる。 名前も近いしね、かおりとしおり。 「姉妹…?誰の…?」 もう揺るがない。あたしは大丈夫。動揺をすることはない。 「香里の」 余裕が出来れば他のことにも気が回る。怪訝な表情を作り「知らないわ」 僅かに痛む心を押さえ「あたしはひとりっ子よ」 「……」 相沢くんは何も言わない。何も言えない。言わせない。 あたしと栞の繋がりについてのことは、言わせない。 「どうしたの?」言いながら暗示のような目線を向ける。 もう、止めなさい、 このことに触れるのは、止めて。 その名前をここに、学校に持ち込まないで。 あたしの前でその名前を出さないで。 「いや、何でもない…」 そう、それでいいのよ。 それで、いいの。 「……」大丈夫か、また不安になる。 この沈黙は、あたしに一瞬の揺らぎを産む。 でも、懸命に引き締める。あと少しなんだもの。 演劇部の部長なら、これぐらい出来ないでどうするのよ! 54話 相沢くんの目を見なさい。落ち着いて。堂々と。 やましいことはない。だって、そうでしょう。 「あたしに妹はいない」のだから。 「………」 相沢くんは無言。多分色々と考えているんだろう。 どちらかが嘘をついている。そう思っている。 栞のことを信じるか。あたしが今言ったことを信じるか。きっと迷っている。 でもあたしは何も言わない。聞かれない限り余計なことは言わない。 変に取り繕おうとするとぼろが出る。ここは堂々と。相沢くんの様子を見てからに。 そわそわする気持ちを懸命に沈める。 相沢くんは無言であたしを見ている。あたしの隙を探っている。そんな気がしてしょうがない。でも動じたら駄目。落ち着いて。 救いの手は学校のカリキュラムだった。 休み時間終了のチャイムが教室に鳴り響く。 「…じゃあね、相沢くん」 あくまでも自然に、を心がけ、相沢くんの視線から逃れあたしの席に着いた。 複雑な感情を視線に感じつつ、心で深く溜息をつく。深追いまではしてこない、そういう人だと思っている。 それ以上の追求はなかった。 「香里、どうしたの?」 昼休み、いつものように学食で名雪と食事をしていると、あたしの苺を見つめながら名雪があたしに声をかけていた。 「別に」 どうもしないけど?と続けながら、苺にフォークを突き刺した。そのまま何手を止めて名雪のことを見る。 悲しそうな目をしていた。いつもなら吹き出したくなるところけど、今はとてもそんな気になれなかった。溜息が出そうになる、懸命に堪えた。 ここで溜息なんかついたら余計に名雪に言われそうだから。 わかるもの、名雪が何を言いたいのか。 「なんか上の空、って感じだよ」 名雪の目は苺に固定されている。 口調は心配してくれるように聞こえるけど、目を見ている分には説得力皆無だわ。 「そんなことないわよ」 言って苺を少し動かしてみる。 名雪が目だけ動かしてその苺を追っていた。 「とてもそうは見えないよ」 目は苺を見ているのに? 「そんなことないって」 苺を動かす。 名雪の目が動く。 また動かす。 また目が動く。 動かす。 動く。 本当に心配してくれるのかしら……… そう思うと同時に考えていること、それは言うまでもなく相沢くんと栞のこと。 さっき、また相沢くんはあたふたと食堂に入ってきて、そして何かを買い込んで出て行った。 相沢くんは栞のことを口にしていた。つまりは栞とどこかで会っているということ。 「栞が学校に来ている」とも言っていた。そのことを確認していた。 相沢くんは帰宅部みたいだから帰りに会っている可能性もある。だけど、栞のことを考えるとそれはないような気がする。 あたしが家に帰る時、栞の靴が濡れていないから。 あの子が出歩けば靴が濡れる。その後が見られないということと相沢くんが栞と会っているという言葉を繋げると、出て来る答えは一つだけ。 55話 今この時に、2人は会っている、ということ。 会えるとすれば、会えてじっくりと話が出来るような時間といえば、昼休みのこの時間ぐらいしかないはず。 落ち着かない。自分を押さえつけるのにものすごい労力が必要になる。 気を抜けば、周辺を走り回って探しだす。そんな確信めいた予感がする。 「香里?」 不意に名雪が呼んだ。見ると不思議そうな、不安そうな、それにやや不満と期待を混ぜたような複雑怪奇な表情であたしのことを見ていた。 「ん?」 「どうしたの?急に黙り込んじゃって」 ……これであたしを見ながら言ってくれれば親友として抱きしめてあげたくなるぐらいなんだけど、どうしてあたしの目と苺を交互に見ながら聞くのかしら。信用度ががた落ちじゃないのよ。 「別に」 ちょっと疲れた感じで苺から外し、レタスを食べる。 ただ、その結果苺がより名雪に見やすい形になるため、さらに名雪の目が苺に釘付けになった。 「とてもそうは見えなかったよ。わたし心配になったから声かけたんだもん」 あたしとしては苺を見ながらそんなこと言われても、全然心配してくれているようには思えないんだけど。気持ちはありがたいからそのこと言わないけど。 「ちょっと寝不足だからじゃない?」 無難な言葉でお茶を濁す。 「ああ、そうかもしれないね」 一人納得して名雪はうんうんと頷いていた。 「何よ、その「そうかもしれないね」っていうのは」 さすがにちょっとむっときた。こっちの都合とはいえかなり悩んでいる時に、わかったような顔されるのはたまったもんじゃない。 「だって、演劇祭が近いんでしょ?」 「………………あ」 すっかり忘れていた。 そういえばそんなこともあったんだった。 これだって大事なことなのに。 思い出すだけで憂鬱になる。 「あーもー………」思わず突っ伏した。器用に食べ物をかわしつつ。 「わ。香里、大丈夫?」 名雪が心配そうに声をかけて、るわけじゃない。 聞こえる声が別角度を向いていた。つまりは苺の乗ったお皿の方から。 「ダメージ蓄積」 がばっと体を起こす。ぶあっと色がる髪が鬱陶しい。思い切り切りたくなった。 今度栞ぐらいに短くしようかしら。 と、いつも思うけど、そこできっぱり諦める。 あたしの髪は柔らかすぎて、栞のような髪型にすると手入れがとても厄介なのだ。 それに―――――――――――あたしのような卑怯者が栞の髪型を真似る資格なんて、ない。 そんな資格、あるはずもないし、それに。 そんなことを出来るほど、あたしは図太い性格じゃ、ない。 一応姉妹。部分部分は似ている。自覚している。 髪形を真似れば、余計に似てしまう。嫌でも思い出してしまう。 栞がいなくなって、あたしが栞の髪型になんかしたら、どうしたって思い出す。 毎朝、いいえ、鏡を見るたびに絶対にそう思うのだ。 そんなの、あたし耐えられるわけないじゃないのよ! …………何、考えているんだろう。馬鹿みたい。 「香里?」 名雪があたしを見つめていた。 今度は本当に心配そうに、少し目を潤ませながら。 56話 「ああ何でもない何でもない。あんたが言うとおり色々とあるから、ちょっと不安定なだけ」 頭を振って気分を強引に切り替える。 「うわ、連獅子」 「……苺あげようと思ったけど、やめておくわ」 フォークに力一杯苺を突き刺した。 「うわっ、嘘だよ連獅子なんかじゃないよ〜」 身を乗り出してまで…あんた自分の苺ちゃんと食べているのに。この子の苺好きは本当、病気の域よね。 「ほら」 名雪の口元にフォークを向けた。 「はぐっ」 条件反射のように、名雪はそれを咥え、もぐもぐと食べ始める。フォークを抜いたら、そこにはもう苺は残されていなかった。 しばらく口をもごもごとさせて、喉が動いた。 「えへへへ。駄目だよ香里〜、条件反射で食べちゃったじゃない。わたし食べるつもりなんか全然なかったのに〜〜」 嘘ばっかり、この子は。 「餌付けよ。つまりは貸しひとつね、今度あたしに何か困ったことがあったら、協力してくれればいいわ」 もっとも、そんなことする必要なんか全然ないんだけど。だって 「何もしなくても友達だもん、困ったことがあったらいつだって力になるよ」 ほら、ね。 教室に戻ってぼんやりとしているうちに時間は経ち、気付けばもうすぐ昼休みも終わり。あたしは少し落ち着かない気分で本を読んでいた。 そこにあたしを落ち着かせない人物が戻ってくる。 「あれ?」 名雪が驚いていた。理由は簡単、濡れていたから。 間違いなく、彼は外にいたんだ。だって今外は白いものが落ちている。 「祐一、外に出てたの?」 確認するように名雪が相沢くんに聞く。 「ちょっと外でアイスクリーム食べてたんだ」 「アイスクリーム?」 「名雪、疑ってるだろ」 二人のやりとりに聞き耳を立てる。 あたしもそうやって確認を取っていた。 栞と相沢くんが本当に会っていたのか知るために。 そして、どうやら間違いないらしい。 アイスクリームという言葉が出てきた以上は。 相沢くんがこの冬空の、しかも雪が降るような中でアイスクリームを食べるような無類のアイス好きとは思えない。 となると、答えは限られてくる。 話の続きを聞いてみよう。 「こんなに寒いのに、アイスクリーム食べる人なんていないよ」 「でも、この時期に食べたいって思うやつもいるかもしれないだろ?」 「うーん…やっぱりいないと思うよ。何か理由があるのなら別だけど…」 「この時期にアイスクリームが食いたくなるような理由か?」 理由、理由なら、あるわ。あたしにはわかる、理由。 それは…… 「例えば、暖かくなるまで待てないとか…」 心臓が、高鳴った。 思わず目を上げそうになる。本を握る手が震える。本がぶれる。 自分を押さえ込むのに、ものすごい精神力が必要だった。 「それだったら、結局ただのアイス好きじゃないか」 相沢くんは、栞のこと、病気のこと、知らないんだ…… 57話 鼓動が耳に響く。 目がぶれる。 誰かに気付かれたらどうしよう。 落ち着かない。 今誰かに話し掛けられたら、いつもの美坂香里でいられる自信がない。 周囲を見る。目のぶれだけは収まってきていた。 こちらを気にしている人は、いない。安堵。 一番気になる相沢くんは、気付いていない。名雪との話に夢中になっているみたい。 次に心配なのは北川くんだけど、彼は授業に備えて、と言うより本人曰く「学校の後のバイトに備え」就寝中だから大丈夫。 とりあえずほっとして、そのままあたしも机に伏せた。 まだちゃんとした美坂香里に戻っているという確信が持てない。 そうやってじっとしていると、時折視線を感じる。 誰の視線であるかなんて、確認するまでもない。 今この教室であたしのことを一番気にしているのは一人しかいないはずだもの。 だから顔を上げたりしない。このままの状態でいることにする。 せめて授業が始まるまでは。 その時には、頑張っていつもの美坂香里でいられるように……………… 簡単に戻れれば苦労はしない。 だけど授業というのが幸した。この授業の先生は板書が多いからみんな黒板に注目してい る。 今のうちに出来るだけいつも通りになれるようにしておこう。 鏡が欲しい。 あたしにあたしであることの暗示をかける、鏡が。 今の時間は無理に決まっているけど。 まさか授業中に鏡を見るわけにもいかないし。 板書に夢中だから誰も気付かないとは思うけど、さすがにあたしも今はちょっと鏡を見たい気分でもない。 見なきゃいけないと思いつつ、見るのを嫌がっている。 溜息。 自分でいたいと強く思っているはずなのに、動揺してしまっている。 どうしてかはわかる。栞の存在だ。 そしてその栞を知っている人物、もう恐らくあたししかいないと思われた、かつてのクラスメートといえる後輩たちすら忘れた存在。 まさかこんな形で現れるなんて、夢にも想わなかった。 そしてあたしはそれに対してどうすることも出来ない。 だって、ここには栞は来ないし、ここでの美坂香里には妹なんていないんだもの。 いない存在について話すことなんて不可能よ。 …………そう思わなければならないのに、動揺している。 その意識を保てない。いつもの学校内での美坂香里になりきれない。 落ち着こう、落ち着きなさい。 もうすぐだから、もうすぐ授業が終るから。 そうすれば部活に出れる、そうすれば鏡を見れる。 そうすれば相沢くんの目はあたしに届かない。 それまで、それまで落ち着いて、落ち着くの。 時間が長い。 ただひたすら終わるのを待つのは、とても辛い、長さを余計に感じるから。 苛立ってくる。あまりの遅さに。 板書でのチョークのかつかつと文字を刻む音が。それを書き写すペンをノートに走らせる音が。 時計を刻む秒針の音が、外から聞こえる体育の授業の笛の音が。 授業が終わった時には、すっかり憔悴して、まるで他人事のように感じていた。 58話 重い身体を無理矢理引き起こし、席を立つ。 名雪も相沢くんも北川くんも、もう教室にはいない。 「はぁ、あたしも帰ろう……」 呟いて教室を後にする。 「とりあえず部室に顔だけは出しておこうかな」 途中で部室に足を向けた。 「はぁ…………」 誰モいなかったのは、ありがたいと思うべきか呆れるべきなのか、ちょっと考えてしまうわね。 やはり台本のプロットは誰からもあがって来ない。溜息。 「………こっちはもうあたしには作れないわよ?」 とてもじゃないけど浮かばない。 一応机の上に原稿用紙を置いて、じっと睨んでもいるけど。それにしたって浮かばないものは浮かばない。 浮かぶのは、栞の笑顔だけ。栞の姿だけ。 一度、気がついた時には原稿用紙をまるまる「栞」と言う字で埋め尽くしたこともあるほど、栞のことしか浮かばない。 こんな状態で、台本なんて書けるはずもない。プロットですら考えられないんだもの。 最悪、不参加かもしれないわね。 その覚悟も必要かもしれない。プロットから台本、役者選び、芝居の練習、舞台作りに衣 装合わせとやらなければならないことは山積みなんだもの。 もうそろそろ色々と決めなければならないことだってあるというのに、プロットすら出てこないんじゃどうしようもないわ。 溜息を一つ、白く見えた吐息はどこまでも長く、吐き出されていった。 もう一つ気がかり。それは栞が学校に来ている、ということの確認。 でもそれを素直に栞が言うとは思えない。 外出禁止は出していないから、出歩いていてもおかしくない。 むしろ諦めきっているような口調で「少しは出歩いてもいいのよ」とまでお母さんに言われているぐらいだから、栞が学校に来てもおかしくない。むしろ学校に来るのは間違いないというほどに納得出来ることではある。 出来ることではあるんだけど……… あれこれと考えているうちに、家に着いてしまった。 少し玄関前で深呼吸する。 「ただいま」 身構える。 いつもなら栞がぱたぱたと出迎えてくれるから。 ところが今日に限って来る気配がない。 来る気配がないならないで心配になってしまう。何かあったんじゃないかと。 靴を脱いで部屋に。 「栞?」 隣にある栞の部屋、ドアをノックし栞を呼んでみた。 軽く叩いてもう一度栞を呼ぶ。 「栞、いないの?」 『あ、お姉ちゃん?』 安堵、いたならいい。何の問題もないのなら。 『ごめん、ちょっと寝てたから玄関行き損ねちゃった』 「ああ、寝てたんならいいって。そのまま寝ていていいわ」 疲れている、ということ? いつもなら元気なのに?やっぽり学校に行っているってことなのかしら。 でも、それならいつもだって疲れているということになる。今日だけ疲れているというの もおかしな話だわ。 今日だけ、なんてことはないと思うけど。 考えてもしょうがない。栞が普通の身体じゃないことはよくわかっているんだもの、ここは大人しくしてもらった方がいいわね。 「じゃあ、あたしも部屋に戻るから」 59話 『うん、ごめんね』 声がちょっとぼんやり気味に聞こえたのは、多分寝ていたから。心配することはないと思えた。 「気にしないで。おやすみ、栞」 『うん、おやすみなさいお姉ちゃん』 夕食時には栞も起きて、あたしと一緒に食べた。 元々それほどあたしたちは食べない方だから、食事での変化は見られなかった。いつもより旺盛というわけでもないし、小食というわけでもない。 「お姉ちゃん、今日はあまり食べないね」 「え?」 見ればあたしの方が食べてない。 「もうお腹いっぱいなの?ひょっとしてダイエット?」 「違うわよ」 心配な相手に、逆に心配されてどうするのよあたしは。 「ちょっと考え事してだだけよ」 そのまま口にコロッケを放り込む。 ほこほこして美味しいけど飲み込みにくい。 栞もそれをわかっているから、あたしが飲み込むまでは何も言わなかった。 飲み込んだところで続きを言う。 「ダイエットしたくなるところまでいってないつもりよ」 とはいえ、最近ストレスも溜まっているしあまり運動もしていない。そろそろまたダイエットも考えないとまずいかも。 とは思うものの、そうすると栞が気を使って小食になってしまう。ダイエット一つ取っても色々と大変だったりするのだ。 「お姉ちゃんはスタイルいいんだから、ダイエットなんてする必要ないのに」 あたしがダイエットの話題をすると、必ず栞はそう言ってくれる。 「そうは言うけど、鏡の前に立つとどうしても考えるものなのよ」 「うー。それは贅沢な悩みだと思うよ」 そう言って頬を膨らます。 栞の言いたいことは想像がつく。 「そう思うのならもう少し食べたら?」 アイスばかり食べても出るところは出てくれないでしょう。いくら乳製品とはいってもやはり違うものだし。 「うー」 「唸られてもあたしにはどうすることも出来ないわよ」 「せめてその胸を少し分けて欲しい」 俯き加減で呟いている。あのねえ。分けて欲しいっていなら出来ることなら分けてあげたいわよあたしだって。 正直少し持て余しているんだから。 それが出来れば苦労しないって。 「アイスばかりじゃなく、牛乳も飲みなさい」 とは言いつつも、牛乳が効果的だとはとても思えないけど。まあ気休め程度にはなるでしょう。 「……飲めばちゃんと大きくなるの?」 疑わしげな目付きをされると辛いものがある。あたしだって一般的に言ってるだけ、根拠なんて全然ない。あたしだって意識して牛乳飲みまくってこんな胸になったわけじゃないもの。 大体牛乳はあまり飲んだ記憶がない。 「なるわよ」 でも、こういう場で芝居するのは得意だったりする。 これで本人がその気になればいい事だと思うし。 目標を持てれば、どんなしょうもないことでもいい事だと思うから。 「じゃあ、もう少し牛乳飲んでみようかな」 俯いて顔を赤く染めて、そんなことを呟く栞。 「そうしなさい」あたしは口元が緩むのを感じていた。 60話 「でも、ほどほどにしておきなさいよ」 栞は意外と無茶するタイプ。最初に釘を刺しておかないと、絶対に無茶する。 それで過去どれだけ後悔したことか。 一度、「汗をかきたい」って言われた時、「ずっとお風呂場にいなさい」って答えて、のぼせて倒れたこともあったっけ。 まだ小さい時であたしもすごく怒られたことがある。 栞のことについて怒られるのはいつまでだろう……それを思えば倒れるまで、って何を考えているのよあたしは! 「とにかくほどほどにしておきなさいよ。あんたは調子に乗ると一リットルぐらい平気で飲んじゃいそうだから」 「……………お姉ちゃん、わたしそんな無茶するように見える?」 軽く睨まれた。思わず笑ってしまう。 「見えなかったら言わないわよ」 「う―――――」 唸る栞。可愛いんだから。 「コップ一杯でお姉ちゃんはそんなに立派になったの?」 「指を指すのは止めなさい」 立派って…この子は何を言い出すのかしら。 「ねえ、どうなの?」 「知らないわよそんなこと!」 思わず胸を押さえる。だって栞ったら、触りたそうな目であたしの胸をじっと見つめているんだもの。何か背筋がぞくっとしたし。 「何も詰めてないよね?」 「こんなところで詰めてどうするっていうのよ!」 大体ただでさえ少し邪魔だって思っているのに、これ以上詰めてどうする、って何考えているのよあたしも! 「馬鹿なこと考えてないで、とっとと寝なさい!」 文句を言う栞を無視して部屋を出る。ったく、まさか相沢くんが変なこと言ったんじゃないでしょうね。 いや、彼はそういうタイプでもない、かな。 「…………ふぅ」 あたしがリラックス出来る時間って、どんな時だろう。 勉強している時は先生の声に、黒板に意識を集中している。 名雪と一緒の時は栞のことをうっかり口に出さないように気をつけている。 北川くんにしても、相沢くんにしても同じ。 一人でいる時だって、栞のことを考える。 寝る前にも、学校に行く途中でも帰る途中でも。 そして、こうやって湯船に身体を沈ませている時も。 「……………………」 静かな、とっても静かな場所。 家の音も、外からの音も全然聞こえない。 シャワーもしっかり蛇口を閉めているから、雫が落ちる音も聞こえない。 見る景色を湯気に霞んでいる。湯気の先には青い天井がぼんやりと浮かんで見える。 見慣れた景色のはずなのに、久し振りに見るような気がした。 あんなとこ、あまり意識して見ないものね。 苦笑しながら顔を下げる。 湯船の中に。 見慣れた自分の身体が湯船に沈んでいた。 「……………………まったく、栞のばか」 変なこと言うもんだから、意識しちゃうじゃないのよ。 胸を手で隠してみる。見慣れているはずなのに、見るのが何故か恥ずかしかった。 何故か火照った顔が余計に上気しているみたいな感じ。 ……………相沢くんは、胸の大きな女の子って、好みなのかしら………やだ!あたしったら何を考えているの!? 妙な考えを打ち消したくて、湯船に頭から潜り込む。 61話 と同時にまずい!と思う、髪の毛! が、そう思った時は既に手遅れで、髪の毛は見事に湯船に浸かっていた。 自己嫌悪から皿に潜った。頭の先まですっぽりと。 顔が暑いのは息を止めているからかお湯が暑いからか、それとも恥ずかしいからか。とても認識不可能。 折角だから限界まで潜っていよう。どうなるわけでもないけれど。 少し力を抜いてみる。静かだった。周りの音が入ってこない。 さっきもそうだっけ。別にお湯に潜っているから、というわけでもないらしい。 でも、さっきとは違う。決定的に。 暖かい、全身が。 お湯に包まれているから、暖かい。 でもそれとは逆に冷えていく感覚がある。 それは、心の中。 身体が温かくなる反面、なぜか心の中の方から急速に冷めていく感覚がある。 暖まることを拒絶している。それを許さないということなんだろう。 あたしの心の中なのに、あたしの意識が介入出来ないところの心理が働いているってことか。 無意識でやっていることなんだろう。馬鹿馬鹿しい。 でも同時にそれは納得出来ることでもある。 このままいけばあたしは、真夏でも汗一つかかない冷血女になってしまうかもしれないわ ね。 もっとも、今もたいして変わらないかも。 周囲の目ぐらいわかっているつもりだもの。 温厚な性格に思われているなんて絶対に思えないし、あたし自身どっちかっていえば冷たい方だって自覚もある。 それに拍車がかかるだけ… 栞がいなくなったら、間違いなくそうなってしまうって思えるもの。 心を凍らせて、誰とも深く関わらず、触れ合わず。 今だってほとんどそんなようなものだもの、名雪と、北川くんと相沢くんだけ。 きっとこれ以上の交友はないだろうし、栞がいなくなったら名雪ともあまり会わなくなる と思う。 多分、家を出ることになる。漠然とそう考える。 一家揃って、というわけではない。少なくともあたしの耳にそういう話は入ってこないから。 でも、あたしは、あたしだけは出たい。絶対にいられない。 幸いといっていいかわからないけど、ある程度の貯金はある。後はバイトでもすれば高校ぐらいは卒業出来ると思う。 今の高校に通いたいとは思えないだろう。 あの学校には色々ありすぎる。 特に制服。この制服に憧れ続けた栞を嫌でも思い出してしまうから。 「ぷはっ!」 段々苦しくなって、顔を出した。目にまとわりついた髪を払って呼吸をする。 「ふぅ……」 そのまま頭を振る。さっきまで考えていた暗い感情を振り払うように。 「まだ…栞は生きているのに…何を考えているのよ…」 諦めの気持ちを否定するつもりはない。その気持ちを持って学校生活を過ごしているんだもの。 でも、家にいる間は栞のことを思っていたい。だから諦めの気持ちなんて絶対持ちたくないっていうのに… 「お姉ちゃん、入るよ」 「え?」 言うと同時にドアが開き、タオル一枚の栞が入ってくる。顔が赤くなっているのは恥ずかしいのか寒いからか、判断し難かった。 「し、栞?」 「一緒に入ろう、ね?」 62話 予想外の展開にあたしは面食らう。 「え?ちょ、ちょっと栞!?」 「ねえ、いいでしょ?」 「いいでしょ?って栞…」 この子、一体どういうつもりなの? って、多分何も考えていないんでしょうけど。この子はそういう子だから。 溜息が自然と零れた。 もっとも、前は嫌がる栞をあたしの方が強引にお風呂に誘ったこともあるけど。 でも、それって小学生ぐらいのことで、今は全然一緒にはいることなんかなくなっちゃったっていうのに… 「駄目?」 「駄目も何も、あんたもうタオル一枚になっちゃってるじゃないの…」 こんな状態で放り出したらお母さんに何言われるかわかったもんじゃないわよ…もっとも、あの人たちは何も言わないかもしれない。 来てしまう「その日」を前に脅えて目を背けている人たちだもの。 嫌でも向き合わなければならないあたしのことなんか、これっぽっちも見ていない。当然栞のことも見ちゃいない。 …学校では存在すら打ち消しているあたしも同罪だけど。 「くしゅんっ」 栞が可愛くくしゃみをする。 「そんなところにいつまでも突っ立ってないで、入りなさいよ。風邪引くわよ」 うちのお風呂は比較的大きめに作られている。 平均に比べやや小さい妹と平均的な姉が一緒に浸かっても、窮屈さは少しあるけど狭いとまでは感じないほどの大きさがある。 あたしがまだ小さかった時、栞が生まれる前、栞がお母さんのお腹の中にいた頃、あたしはお風呂が大好きだった。 三人一緒に入って、20まで数えて。 お父さんの大きな背中をタオルで一生懸命擦って、お母さんの柔らかい指があたしの髪の毛を丁寧に洗ってくれて。 そんな幸せな思い出がある。 栞と一緒に入る頃には、お父さんかお母さんどちらか一人だけしか入らなくなっちゃったけど、それも幸せな思い出の一つだった。 このお風呂は、一人じゃ寂しいのよね.…… 「お姉ちゃん、入ってもいいの?」 …馬鹿。 栞が目の前にいるのに何を寂しがっているのよあたしは。 寂しくなんか、ないじゃない。 「風邪引く前に入らないと、またベッドから出られなくなるわよ」 「わわっ、入っていいって解釈したからねっ」 大慌てで湯船に飛び込んだ。 それでも控え目な性格をしている栞だから、水しぶきをあげるようなことはしない。あくまでも静かに入ってくる。 お湯の量が上がってくる。湯船から出ていた肩まで浸かるほどに。 「栞、少し太ったんじゃないの?」 軽い嫌味のつもりで言った。 「え?本当にそう思う?だったら嬉しいな」 逆効果だった。栞はあまり太らないから太りたがっていたことを思い出す。 中学の時、「ダイエットしてみたい」と笑いながら言った栞をスリッパでひっぱたいたことを思い出した。 「…何笑ってるの?」 「太って喜ぶ子も珍しいなと思っただけよ」 「あはは。そういえばお姉ちゃんは体重計前にしてしょっちゅう怒ってるもんね」 失礼な。 「時々よ」 「うふふふふふふふっっ」 63話 裸の付き合いというのは、不思議な効果があるのかもしれない。 どんなに装っていても、気持ちを包み隠そうとしても、簡単に脱げてしまう。心も裸になってしまうように感じられる。 あんなに抵抗があったのに、気付いた頃には昔のように普通に会話をしていた。 とはいえ、あたしも栞もそれなりに成長をしているわけで、あの頃になかったものがあったり、あの頃には想像のつかなかったものもあったりする。 それが気恥ずかしさの元なのは仕方のないことだけど、それも少しの間だけ。 こういう場で照れてもしょうがない、堂々と曝け出すぐらい潔くないと却っておかしいと思う。以前修学旅行の時に名雪に教わったこと。 あの子から教わることは本当に多い。 感謝し足りないぐらいかもしれないほどに感謝することが多い。今もそう。 染み入るように、その言葉は受け入れられている。 最初はお互い恥ずかしかったけど、最近では隠すこともほとんどなくなっていた。 それと同じことが、栞とも自然と出来るようになっていた。 とはいえ… 「……………」 湯船からあたしを見つめる栞の視線が妙に突き刺さる。 あたしは今湯船から出てボディソープを身体にかけ、泡立てているだけなのに。 なんでそんな、漫画的表現で言えばジト目であたしを見ているんだろう。 しかも、心なしか目線はどこかで完全に固定されているような気がしてならないし。 でも気にしたら負けのような気がして、あえて無視することにする。 けど、やっぱり気になるなあ。 ボディブラシでごしごしと念入りに身体を擦る。 背中から首と後ろから擦って、前に。 「…………」 栞の目線が気になる。無視。 言いたいことがあるのなら言えばいい。そういうスタンスでいよう、徹底無視。 「…………」 言葉はない。 その代わりに目線がより鋭さを増しているように思えた。 じとー、としていた視線が異様にぎらついているみたいに。 なんか、本当に見えない光線が出ているみたいに見えてくる。 冷や汗を感じつつ、ブラシで擦る。 汗なんてあまりかかない季節に思えるけど、実際問題結構汗をかく。 防寒用に着込むし、雪道を歩く時は意外に体力も駆使しなければならない。 結果、汗をかく、それもかなり。 汗腺が多い場所は念入りに。そうでない場所も念入りに。 「…………」 ……と、普段考えないようなことを考えて気持ちを紛らわせようと試みるけど、どうしても栞の目線が気になってしょうがない。 「…………」 どこを見ているのか、気になった。 栞は一点を集中して見ている。つまりあたしが今栞を見ていることに気付いていない。 栞の目線を追いかけて、あたしのどこを見ているのかを調べてみることにした。 「…………」 「…………」 え。 な、何で? 何でこの子、あたしの胸をじっと見ているわけ? ここでふと思い出した。 風呂に逃げる前、栞があたしの胸を見ていたことを。 その目は昔を思い出させた。 小学校の高学年、成長期を迎え女らしいラインになろうと形を変えようとしていた頃のこと。同じクラスの男の子が不躾な、それでいて恥ずかしそうな視線を向けていた頃のことを。 でも、何で栞が? 64話 「な、何よ…」 たじろぐ。 栞は自分があたしのどこを見ているのか、隠そうとしていない。堂々と一点集中という趣で見つめている。 それは異性から見られることに激しく抵抗を感じた、膨らみかけていた頃…小学校高学年の頃を思い起こさせるような不躾な眼差しだった。 好奇心よりも悪戯心で成長期の女の子をからかう知能の発育が鈍い男の子のような。 思春期になってからのいやらしい視線も嫌だけど、その当時はまた別の意味で嫌だった。 あたしは別にモデルを目指しているわけでも何でもない。時々名雪が「香里の身体羨ましいよ、綺麗だもん」とか言いながら胸や腰を触ってくるけど、あたしの目から見ればスポーツで鍛えている名雪の方 がずっと引き締まっていて綺麗だと思った。胸にしたって名雪の方が美乳だと思う。あたしのはただ大きいだけで邪魔と言ってもいいぐらいだし。 だからあまりじろじろと不躾な目で見られるのは嫌だ。時々セクハラかと怒鳴ってやりたくなるような目で見る人がいる。それを堪えるのに必死だというのに。 まさか栞にそう言う目で見られるとは思わなかった。 「…………」 まるで好きな食べ物を食べたいけど食べられないから指を咥えて見ているような子供に見える。 そう、これは物欲しそうな目。 「し、栞?どうしたのよ」 「…いいなあお姉ちゃんは」 「はい?」 栞がよくわからない。栞が理解出来ない。 「どうして同じ姉妹なのに、しかも一つしか違わないのに」 ずい。 湯船が波打つ。あたしの方に小波が来る。 栞の身体が近付いてくる分の波。 その波に、栞の接近に押されるようにして、あたしが僅かに下がる。とはいえ二人で入るには狭い湯船だから、ほんのちょっとしか動けない。あっという間に止まってしまう。 「な、何よ…なんなのよ…」 不躾な視線を隠そうともしないで栞は… 「ひゃわっ!」 あたしの胸を触った。 「お姉ちゃんずるいっ。わたしこんなにぺったんこなのに、どうしてそんなに大きいの!?」 「ちょっ、ちょっと栞っっ!」 両手でふにふにとあたしの胸を弄ぶ。 振り払いたい気持ちがあるのに、頭の中完全にパニックになっていて、手を動かすことが出来ない。脳から正確な情報が腕に伝達されない。 栞の小さくて柔らかい手があたしの胸を弄る度に、妙な感覚が持ち上がってくる。 ば、ばか!変な考え起こさないでよ! 今考える必要があることは、手を使って栞の手を振り払うことだけでしょう! 「うー、お姉ちゃんずるいずるいずるいー」 「しっ、栞っっ、や、やめなさっっ」 「い」が一瞬抜けた声になりそうに思えたので途中で声を止めた。 あたしもそうだけど栞も悪戯好きなところがある。ここで弱みを見せたら行為を喜んでエスカレートするだろう。一瞬走った背筋の怖気を悟られるわけにはいかない。こんなところで妹に百合属性植え付けられるわけには絶対にいかない。 「もう、ずるいよずるいよー」 「だ、だから止めなさいってば!」 ぐいっと腰を捻って栞の手を振りほどく。 「あんっ」 栞が手を離すと同時に胸を手で押さえ、ブロック。さすがに今度やられたら、堪え切れないかもしれない。 「お姉ちゃん、もっと触らせて」 「自分のを触りなさいよっ」 「だって…わたしの胸お姉ちゃんみたいに大きくないんだもん」 「この際大きさは関係ないでしょ!あたしはもう上がるからね!」 振り切るように立ち上がり、栞を見ないでお風呂からあがる。中では栞が不満の唸り声をあげていた。 65話 部屋に戻って髪を乾かしながら、溜息を一つ。 さっきまでの栞とのお風呂を思い出すと、どうしても溜息がこぼれてしまう。 「あの子は…」 でも、溜息と同時に他にも色々な感情が噴出してくる。 嬉しさ、喜び。 栞と一緒にお風呂に入れるなんて、もうないと思っていたことだから。 もう二度とないと思っていたことだから…嬉しい。 昔はよく一緒に入った、というほどの記憶もない。何度か入ってはいるけど、楽しい思い出という形で一緒に入った記憶はほとんどなかった。 だから今日みたいな楽しいお風呂は嬉しい。 後何回か、こんな楽しみを味わいたい気持ちもある。 でも、あれには参ったけど… 「そんなに気にすることもないと思うんだけど」 栞に触られた胸に触れる。 ダイレクトに触られた瞬間、ぞくりとなったことを思い出し、頭を振った。 駄目、と思った時にはもう手遅れ、まだ湿った髪が周囲に水滴を飛ばしてしまう。 「…何やってんだか、あたしは」 鬱になる。 まあいいや。どうせすぐ乾くし。そう思い直すことにしてドライヤーを再び髪に当てた。 髪がぶわっと舞い上がる。どうやらターボ設定に切り替わっていたらしい。 「なんだかなあ…」呟いて設定を通常モードに切り替えた。 吹き上がる髪が大人しくなる。指を使ってドライヤーで再び乾かしていく 落ち着いた途端、また思い出してしまうさっきの栞とのやりとり。 「どうしていきなりあんな色気付いたりしたのかしら…」 少なくても今まで栞があんなことを言い出したことなんか、なかったのに。 別にあたしは栞のことを四六時中監視しているわけでもないんだから、栞の知らない部分があってもおかしくもなんともないけど、ちょっと意外だった。 でも、どうして… なんて考えること自体おかしい。 わかっているはず。栞がこっそりと学校に来ていることを。 そして相沢くんと会っていることを。 妹の、栞の存在を確認しようとしたってことは、つまりはそういうことのはず。 相沢くんが…まさか。 「栞に変なことを吹き込んでいるとか?」 「栞って呼べばいいのか?」 「ええ、それでいいですよ相沢さん」 「俺のことは祐一でいい」 「遠慮しておきます、相沢さん」 「そのリアクションは…さてはお前美坂香里の妹だなっ!?」 「ど、どうしてお姉ちゃんのことを?」 …ありえる展開だわ。 でもこれはないか。そうね、考えてみればこの展開はありえないわ。 栞は名前で呼びたがるから。誰彼構わずにそうするはず。だからこれはないでしょう。 それに、こんなこと考えても意味ないじゃないの…もう相沢くんと栞は出会っていて、交流があるんだもの。むしろ考えなければならないことはその先のことよ。 「祐一さん…わたし祐一さんのことが…」 「悪いな栞。俺はお前とは付き合えない」 「ど、どうしてですか?」 「俺は…胸のない女の子は苦手なんだ」 「で、では大きくしてきます!それならいいですよね!?」 「ああ、考えておくよ」 ……相沢くんってそういうキャラじゃないと思う。 でも、そういうことを栞が気にしているってことは、そういう流れがあってもおかしくない… って、何を考えているのかしらあたし。 疲れているのね、きっと。早く寝よう。 66話 目が覚めた。 昨夜変なこと考えてたから、変な夢でも見るかもとちょっと構えていたんだけどどうやらそれはなかったらしい。気付けば朝という感じ。本当疲れていたのね。 そんなにすっきりした目覚めじゃなかったけど、頭だけは妙にすっきりしていた。身体が重いのが億劫に感じられるぐらいに頭だけは本当にすっきり。 横になったまま時計を見る。そろそろ起きないと。 無理矢理身体を起こす。ものすごいしんどい。すっきりしていたはずなのに、冗談みたいにだるくなった。 かといってさぼるわけにもいかない。明日は休みだし一踏ん張りしないと。 栞は起きてきていなかった。誰もいない食卓。両親はとっくに出かけている。怒りたい気持ちは当たり 前のようにあるけど、あたしに両親を怒る資格があるはずもない。そんな両親の血を引いていると痛感させられているのだから。 栞の様子が気になった。 だけど、あまり時間もない。気にはなったけどそのまま出る。栞は無理はしないことを自分から徹底している。どうしようもない、という段階になる前には意思表示をするようにしていた。だからその辺りは心配していない。 心配なのはどちらかというと、必要以上に外出をして体力を消耗される方。相沢くんと学校で会っていると言うのなら尚更気にかかる。 とはいえ、仮に栞が出てきても聞けるとはとてもじゃないけど思えない。結局黙ってそのまま、ということになると思う。 「行ってきます」 返事がないのはわかっていたけど、言いたかったから言った。そしてそのまま家を出る。いつもの「儀式」を忘れずに。 妹なんかいない。妹なんか存在しない。あたしは一人っ子。 一人っ子の美坂香里は、今日もいつものように学校に向かった。 学校の直前で、相沢くんを見かける。 「…名雪はどうしたのかしら」 相沢くんの横には名雪、名雪の横には相沢くん、これは黄金率なのに、今相沢くんの横には名雪の姿が見当たらない。 「おはよう、相沢くん。今日はひとり?」 こちらから声をかけた。 相沢くんはいつも通りだった。それがとても嬉しい。いつも通りでいてくれて、嬉しい。 「いや、名雪が隠れてる」 そりゃそうでしょうよ、相沢くんと一緒に学校に来るの、名雪しかいないじゃない。 吹き出しそうになり、安心する。うん、大丈夫、またいつものあたし。いつも通りのあたし。 「…どこにも居ないじゃない」 「巧妙に隠れているからな」 「大体、何で隠れるのよ」 「名雪の趣味なんだ」 …何言ってるんだか。 「そんなの一度も聞いたこともないわよ」 「まぁ、あいつも見かけによらず人には言えないような趣味を持っているからな」 もっともらしい顔で言う相沢くん。と、後ろからその隠れることが趣味の名雪がゆっくりとやってくる。心なしか怒っているように見える。当然のことだけど。 「嘘教えないで」 一応相沢くんの顔を立ててあげるか。さりげなく今気付いたかのように挨拶。緊張していたあたしを和ませてくれたお礼。 「あ、名雪。おはよう」 「おはよう、香里」 「なんだ、本当に居たのか」 妙な会話ね。今日は別々に学校に来たってことなのかしら。 「今来たんだよ」 ということはまた寝坊でもしてきたのかしら。でも、違う気がする。 そして、あたしの違和感を相沢くんが確かなものにしてくれた。 「…って、なんでお前の方が遅いんだ」 67話 珍しいこともある。今の相沢くんの言葉を聞くと、名雪が相沢くんよりも早く学校に向かったみたい。って、そんなことあるはずないか。多分相沢くんが途中で忘れ物でもして、名雪を先に行かせたとか、それぐらいでしょう、真相は。 「うん…ちょっとね」 歯切れの悪い答え。同時に気付く。多分相沢くんすら気付いていない、名雪の親友であるあたしだけがわかることに。 「この顔は、何か答えたくないことを聞かれたときの顔ね」 「…香里、余計なこと教えないで」 図星を突かれた名雪があたしを軽く睨む…多分睨んでいるとは誰も思わないでしょうけど。 「…もしかして、猫か?」 ああ、なるほど。大体わかった。 相沢くんと何かあって別れた後、名雪は猫を見ていたのね。この子本当に猫好きだから。気の毒なぐらいに。 「あ、チャイム。急がないと」 周囲はまだのんびりと、というほどでもないけど、それでもまだ慌しさを感じるほどじゃない。あんまりのんびりしていられる時間じゃないのは確かだけど、でも今の名雪みたいに慌てるほどの時間でもない。 「鳴ってないだろ、全然」 相沢くんが的確な突っ込みを入れた。あたしも同意する意味で頷いてみせる。 名雪は笑顔を崩さない。笑って誤魔化す時に見られる典型的な「微妙な笑み」を顔に張り付かせていた。そしてそのまま顔を見せないようにか走っていく。急がないとと言っている割には緩慢な動作。陸上部の主将が見たら怒鳴りそうな走り方だった。もっとも、陸上部の部長は怒鳴るようなタイプじゃないし、その陸上部の主将自身が緩慢な動作をしているんだから、部員に示しがつかないと突っ込んだ方がいいのかもしれないわね。 余計なことを色々と考えていると、横で相沢くんが溜息混じりに吐き出した。 「さては、諦めきれずにもう一度猫のいた場所に戻ってたな…」 「あの子、猫が絡むとキャラクター変わるからね」 「本当にチャイム鳴るよ〜」 呆れるあたしたちに遠くから名雪の声。もう昇降口近くについている。のんびりしているようでさすが陸上部主将。 なんて感心していたら、本当に予鈴が鳴り響いた。相沢くんと二人苦笑しながら名雪の後を追いかける。 いい天気だった。 雲ひとつない晴天。これで気温が高ければ言うことはない。 またあの子は来るんだろうか。仮に来たとしてもこの天気なら心配ないかもしれない。 でも、やっぱり家でじっとして欲しいと思う。 ただでさえ…いけない。 考えを振り払う。考えてしまうと頭から離れなくなる。だから考えないように、いないと考えないと。何度も何度もやっていることじゃないの。 「美坂?具合でも悪いのか?」 横から北川くんの声。最悪だわ…絶対に人には見られないように努力しているのに。 もっとも、今回が初めてのことだから、それほど気にもしないでしょうけど。 「ちょっと寝不足なだけよ。ありがとう心配してくれて」 「いや、別に心配しているわけじゃないんだ」 …さりげなく気を使う。ここが彼の人気が高いところ。 人当たりがよくて、優しくて、意外に頼り甲斐があるとはクラスメートたちの北川くんについての評価。あたしも異存はない。 …どうやら、同じ余計なことを考える、でも方向性がずれたみたい。北川くんに別の意味でも感謝しないとね。 「でも言わせて。ありがとう」 「よくわからんが、どういたしましてと礼儀上言っておこう」 くすりと笑うとほぼ同時に午前終了のチャイムが鳴った。 あたしは席を立つ。 すぐ側では名雪と相沢くんが話をしている。きっと外に出ることについてだろう。 あたしはそのまま教室を誰にもわからないようにそっと出た。 68話 部室に足を運び、そのまま中に。 「ふぅ…」 溜息を一つついて、手に持っていた弁当箱を広げた。 ふと気付けば、白く見える吐息。 「…ちょっと、寒いかしらね」 いつもの部室は結構賑わっているんだけど、さすがに一人じゃ寂しすぎか。まあ、今更気付いたわけじゃないけどね。教室の中に一人でいるよりも寂しいんだから。 特に、立ち回りの練習用にスペースが設けられていたりするものだから、余計に寂しい。 「違うな。いつもがいつもだから余計に寂しいんだ」一人ごちた。 いい舞台を作るために信じ合い、助け合える仲間たち。その仲間たちと一緒に過ごしている時間は、と ても尊い。 「…早く、試験終わらないかしら…」呟く。 逃避であることには変わりないけど、今の辛さを忘れたい。また早くみんなで集まって、舞台に集中したい。 「その前に一つ、やらないといけないこともあったんだっけ…」 次の芝居の台本。真っ白のままなそれを思い出した。 でも、今はとてもじゃないけど台本を書けるような状態じゃない。 こういう時こそ仲間を当てにしたい気持ちがあるけど、その仲間もかなり頭を悩ましているみたいで、未だにプロットすら出てこない始末。責めるつもりはこれっぽっちもないけど、溜息の一つ出ても悪くはないわよね。 「虚しいだけだけどね、溜息なんて…」 最近、本当に溜息ばかりついているような気がする。いいことじゃないってわかってはいるつもりだけど、どうしても出てしまう。 「やれやれだわ…」 思っている端からまたついてる。本当駄目ね、と呟きながらまた溜息。すっかり溜息製造マシンとなっている自分にげんなりする。 「はぁ、食べよ」 そんな気分で食べるご飯が美味しいはずなんてなかった――――――― 食事後、ふと思い立ち、足を教室ではなく別の所に向けた。そしてとあるドアの前で立ち止まる。 …このドアを開ければ外に出られる。 そして見ることが出来る、かもしれない。クラスメートといないはずの妹が楽しく会話を交わしているところを。 ドアノブに手をかける。ひんやりとした感触があたしの心を麻痺させる。思考が硬直し、頭が真っ白になった。 中庭の辺りはちょうど死角になっていて、ある程度上の階からじゃないと確認することは出来ない。周囲の苦情で防音が確りしている反動なのか、この位置から外の声が届くこともあまりない。窓が開いていれば聞こえるんだろうけど、そもそもこの辺りに窓はないし、寒くてとてもじゃないけど開けようなんて思わない。つまり確認したければ上の階で見るかこのドアを開けるかしかない。 どうしよう。 開けていいんだろうか。 ぐ、と手に力を入れる。だけどそれはあくまでもドアノブを掴む力。右にも左にも捻ろうとはしないで、ただ単に掴んでいるだけ。これではドアは開かない。 「………」 そのまま固まった。身体も、思考も。完全に停止した。 真っ白な頭の中で、少しずつ形を見せてきた思考を脳内で噛みしめる。 …このドアを開いてもいいの? このドアの先に何があるのかわかっているの? このドアの先には誰がいるのか、わかっているの? このドアの先にどんなやりとりがあるのか、それを理解しているの? ぐるぐると思考が渦を巻く。それは混沌。 その混沌の果てに辿り着いたこと。 このドアを開ける資格が、あたしにあるとでもいうの? それは一つのスイッチだった。あたしを取り戻すスイッチ。ぱちん、と入り身体の自由を取り戻す。そして消えるような声で呟いた。 「あたし、バカだ。そんな資格、あるわけないじゃない…」 69話 いつも、何をしてからここに来ているの? 毎朝行っている儀式は何? それを理解している?ちゃんと頭の中で確認している? しているのなら、とても出来ないじゃない。 このドアを開いて確認するなんてこと、する資格なんかないじゃない。 「ほんと、バカだ」 こつん、とドアに頭をぶつけた。ひんやりとした感触が頭から体を通し、心にまで染み渡っていくみたいにじわじわとあたしを冷やしていく。 「…あたしに妹なんか、いないわ…」 呟く。 「あたしに妹なんか、いない」 もう一度。 「あたしに妹なんかあたしに妹なんかあたしに妹なんかあたしに妹なんかあたしに妹なんかあたしに妹なんか…」 呪文。 弱い心を打ち消す、強力な呪文。その結果あたし自身を苦しめるとわかっているのに、それでも唱えてしまう呪文。 呪文というよりも呪縛と言った方が正しいのかもしれない。あたしを非道な道に留まらせる呪縛。最愛の妹の存在を黙殺させ、罪悪感に苦しむという呪縛。 でもあたしはその呪文を唱える。苦しもうが呪縛に捕われる。 そうしなければ美坂香里が壊れてしまうから。学校の中で生きている、美坂香里が。水瀬名雪の親友で北川くんや相沢くんの友達、演劇部の部長で二年生。成績は学年でも上の方、運動はそれなり、身長はそこそこで体重はそれなり、スリーサイズは平均値よりもやや上…そんなカタチのあたし。 このままだとそれら全てを失ってしまう。その場凌ぎであろうとなんであろうと、必要不可欠な儀式なのだ。 その反動がどれだけ出ようと、止められない。その時が来るまで、止められない。 ゆっくりと足を後退させる。ミリ単位で身体を下げる。 ドアに押し付けた額が少しずつ離れていく。凍るような感触だったそこは痺れるほどになっていた。名雪辺りに指摘されるかもしれない。 目を閉じ、軽く息を吸い、吐く。 気持ちを落ち着かせ、そっと、ゆっくりと離れていく。 ドアから手を離し、さらに下がる。 そして踵を返し、歩き出す。 絶対に振り返らずに、足を止めることもなく。 あたしはそこを後にした。 「あ、香里おかえりー」 教室に戻ったあたしを名雪が待っていた。席につくあたしの方に身体を向けてくる。 それが今のあたしにとってどれだけ救いになっているのか、名雪には絶対わからないでしょうね。本当、その笑顔に救われているのよあたし。 「ただいま」 自然と零れる笑顔を実感しつつ、鞄から次の授業のノートを引っ張り出した。 「何やってたの?」 「…ちょっとね」 「何処行ってたの?」 「色々とね」 「何を食べたの?」 「美味しいものをね」 「次の授業の宿題やってるの?」 「昨日のうちにね」 「わたしに見せてくれる?」 「どさくさに紛れて何を言っているのよ」 調子を合わせていて思わず倒れそうになった。 「まさか宿題やってないの?」 「うーん、やってはいるんだけど、ちょっと分からないところがあったんだよ…」 名雪にわからないところを教えていたら昼休みが終了した。 70話 「祐一、おかえり」 「…おう」 昼休み終了のチャイムが鳴ってから少しして相沢くんが戻って来た。 口元を擦っている。一体どうしたのかしら。 「祐一?口どうかしたの?」 「アイス食ったからな。ちょっと冷たいんだ」 「ああ、そういえばそうだったね」 どうしてそこまでしてアイスを食べなければならないのか…って突っ込みたかったけど止めておいた。言えばきっと薮蛇になる。あたしの方に話題を振られたくない。その話題は流したい。 「コーヒーでも買っておけばよかったのに」 名雪のもっともな提案に「おお」と納得して 「明日からそうしよう。いいことを教えてくれてありがとうな、名雪」と言って笑った。 「どういたしまして、だよっ」 名雪も何が嬉しいのか、満足そうに頷いたところで先生が入って来て、午後の授業が始まる。 放課後、今日はまっすぐ帰ろうと重い昇降口に行った所で相沢くんを発見。声をかける。 「相沢くんっ」 その声に振り返る。 「相沢くんも今から帰るの?」 「なんだ、香里か」 随分なご挨拶だこと。思わず溜息が出る。 「何思いっきりがっかりしてるのよ。第一、この学校で相沢くんに声を掛ける生徒なんて、まだ数えるほどだと思うけど」 そんな貴重な人間に対してその態度は失礼だと思うけど、まあしょうがないか。この数日で大体相沢くんの性格、理解出来てきたし。 「まぁ、な」 「どう?そろそろ新しい学校に慣れた?」 靴を履き終えた相沢くんの脇で、あたしもしゃがみ込んで靴を履き替える。話を続けたかったのでさりげなく適当に話を振ってみた。というか、やっぱり転校生っていうのは色々と気を使うものなのかもしれないと思ったから振ってみたんだけど。 …あたしだって転校する可能性がないわけじゃないんだから…参考になるかもしれない、というのは後 付け理由かな。 「ああ」 「ふーん…具体的には?」 とんとん、と立ち上がりながら爪先を叩く。あまり長くしゃがんでいると見られやすいから急がないと。どうしてこの学校はこんなに制服のスカートの丈が短いんだろう。 「寝ても大丈夫な先生とダメな先生の区別がつくようになった」 冗談めかした言葉に思わず顔が綻んでしまう。ちょっと悔しいので少し仕返し。 「ふーん」と意味深な相槌を打っておく。 「なんだよ、そのふーんって言うのは」 見事に食いついてくれた相沢くんにさらに追い打ち。 「言葉通りよ」 さらに混乱した顔の相沢くんを見て笑いを噛み殺す。これぐらいにしておいてあげよう。今日は一人で帰るのかしら。名雪の姿がない。今日は木曜だっけ? 「名雪は今日も部活?」 「いや、一緒に帰るところだ」 「…そう」 「なんだよ、その意味ありげな呟きは」 「言葉通りよ」 日頃の行いかしらね、これぐらいにしてあげようと思っていたのに、結果としてまた相沢くんを混乱させている。でも言っておくけど今回の方は不可抗力よ。 とはいえ、何となく苦い気持ちが心に広がってきたからこれでおしまいにしよう。 「じゃあね、相沢くん」 「ああ、またな」 「……」 言い足りないことがあったけど、黙ってそのまま別れた。 71話 「ただいま」 「お帰りなさいお姉ちゃん」 ぱたぱたと栞が迎えに来た。 「最近早いんだね」 「まあね。うちも色々とある学校だからね」 「あ、そうだったね」 …まずった。 学校の話は出来るだけしないように心がけていたのに、ついやってしまった。 栞の顔が少し曇った。気まずい。 気まずいけど、今更後に引けるわけでもない。話の中で流すしかない。 「何かいいこととか起きないの?」 栞があたしに合わせるようにそう言った。正直辛い。栞の気持ちがわかるだけに辛い。 「何かあって欲しいとは思うんだけどね」 「残念だね」 「ええ。残念だわ」 残念、でも何でもない。あたしは平穏を求めている。刺激なんかいらない。みんなと一緒に一日何もなく、平穏無事ならそれでいい。 その中には栞、あなたのことだって含まれているんだからね… 「それで栞の方は最近どうなの?体調子良さそうだけど」 ちらりと頭を過ぎるのは相沢くんとのこと。確認を取りたい。 昼も結局確認を取れなかった。取る資格なんかないんだから当たり前なんだけど、でも栞自身が口を開いてくれれば… 「うん。お薬は離せないけど調子そのものはいいよ」 「そうみたいね」 いつもよりも顔色がいいように思えるもの。これは贔屓目じゃないと思う。誰が見ても今の栞は顔色がいい。 そう、相沢くんだってきっと気づかない。相沢くんは栞のことを、栞の体のことを知らないはずだ。 そのことの確認をしたいけど…したいけど… 「お姉ちゃん?」 「え?」 「え?じゃないよ。どうしたの?」 どうやら栞に呼ばれていたらしい。 「ごめん、ちょっと考え事」 「うー、酷いよお姉ちゃん。自分から振っておいてその仕打ちは」 栞が顔を膨らます。怒っているようにはとても見えないけど、多分本人は怒っているんだと思う。 「ごめんね。それで何を言ったの?」 「お姉ちゃんがわたしに質問したのに無視するからだよっ」 確かにそうだ。あたしの落ち度だわ。 「ごめん、あたしが悪かったわ」 深々と頭を下げる。 「本当申し訳ないことをしたと反省しているわ。ごめんなさい栞」 オーバーアクションと言ってもいい動きでさらに頭を下げる。 「お、お姉ちゃん大袈裟だよ」 「いいえ。あたしが悪かったわ。本当にどうしようもないぐらいに悪かったわ」 「そんなことないってば、考え事することなんてそんなに珍しいことじゃないよ」 栞が恐縮する。あたしの方が悪いのに。本当優しい子なんだから。 とはいえ、これは話を完全に逸らせる好機だ。栞には悪いけど。 「ごめんなさい栞」 「もういいってば。止めてよ謝らないでよ」 「じゃあ、もう許してくれる?」 「うん、許すから」 「それで本当に調子いいわけ?」 「うわ切り替え早っ」 そしてそのままうまいこと話を誤魔化して、学校についての話題を有耶無耶にすることが出来た。 部屋に戻り、一息。 栞が元気なので話が弾んだのは良かったけど、疲れた。とても疲れた。 でも嬉しい疲労だった。そして明日は今よりももっと嬉しい疲労を味わえる。 だって明日は休み。一日中一緒にいられる。 72話 「元気だよ」 「…そうみたいね」 明けて休日の今日、どういう流れでこうなったのかわからないけど、あたしたちは部屋の掃除をしていた。 大掃除と言ってもいいぐらいに片づけをやった。さすがに家具移動するほどしなかったけど、ゴミ袋都合5つがぱんぱんになるのを見ると大掛かりだったんだなと感じる。 「お茶にしましょうか」 例によって両親は出かけている。後で絶対後悔すると思うけど、それを気にしてあげられるほどの余裕が今のあたしにはない。 あたしはあたしで栞を徹底的に心に刻み込まなければならないという大事なことをやっているのだから。 「うん。あ、お姉ちゃんもアイス食べるでしょ?」 「…そうね、いただくわ。ちょっとだけでいいからね」 「遠慮しっこなしだよ。大盛りにしてあげるね」 「こういうのは遠慮って言わないのよっ」 栞は時々冗談だか本気だかわからないから性質が悪い。 どこまで怒っていいのか匙加減がすごく難しい。 「うー、遠慮することないのに…」 遠慮じゃないっていうのに… 不満を言いつつも栞はあたしの希望通り少なめにアイスを皿に盛ってくれた。これも若干多い気もするけれど、どうにか我慢出来る範囲内ね。我慢して全部付き合ってあげよう。 「おかわりあるから沢山食べてね」 「余裕があったらね」 誓ってもいい。余裕なんか絶対に出来ないわ。 「遠慮したら駄目だよ」 しないって。 声に出すと栞が寂しそうな顔をするように思えたから、心で呟いた。 「とにかく食べましょう、溶けてしまうわ」 いくら冬とはいえ、暖房が利いた部屋の中はアイスが溶けるのは早い。きんきんに凍っていてもすぐに溶け出してくる。 「わかってないねお姉ちゃん。少し溶けた方が美味しいんだよ」 薄い胸を張って栞が語る。 「…今何か失礼なこと考えていなかった?」 「別に」 ほんのちょっと頬を赤くして、栞は胸を押さえた。ひょっとすると変な目で見ていたのかしら。意識しなかったつもりだけど。 「お姉ちゃん、嘘ついてない?」 「全然」 「うそつき。わたしはお姉ちゃんが嘘つくとすぐわかるもん」 そりゃそうでしょうよ。あんたとあたしは姉妹なんだから。何を考えているかぐらいは顔を見れば大体わかるわ。 だから「よくわかったわね」とか言ってまた栞の頬を膨らませてしまうんだ。 「うー」 「ほら、膨れてないで食べなさい。あまり溶けるのはよくないんじゃないの?」 「わっ、わっ」 栞は慌ててスプーンで掬い、口に入れていく。そんなに慌てたら消化によくないと思うんだけど、言うだけ無駄ね。 かちゃかちゃとお皿にスプーンが当たる音を聞きながら、あたしもアイスを口に運んでいく。冷たくて美味しい。 「おかわりたくさんあるから、遠慮したら駄目だよお姉ちゃん」 …だからいらないってば。 「…お腹壊しそ…」 結局三杯食べさせられてしまった。すっかり身体も冷えたように感じられる。 アイスを食べた後二人でお風呂に入った。一緒にじゃなくて交代で。あたしが先に入らせてもらったのは髪を乾かす時間の都合。 そして今は部屋でドライヤーを髪に当てている。今は栞がお風呂を使っているはず。 「それにしても…本当アイス好きなんだからあの子は…」 どれだけの量を食べたのかわからないぐらい食べていたような気がする。 あたしの倍近く食べていたんじゃないかしら。よくお腹を壊さないものよね。 お医者様から禁止令をもらっていないから好きなだけ食べさせてあげているけれど、ストップをかけないとまずいんじゃないかって気もする。 「限度ってもんがあるものねえ…」 今はお風呂か。後で言わないと駄目かも。 「とはいえ、文句なんて言おうものなら自分で全部食べかねないわね、あの子は」 嬉々として食べそうな気がする。それもちょっとまずいかも。 髪に当てた手がまだ湿っぽい。中々乾いてくれない。 「あたしも短くしようかな…」憂鬱なため息と共にそう呟いた。 73話 時々髪の毛が億劫に感じてしまう。 渇きは悪いし、とにかく手入れが面倒。憂鬱な気分になることもある、そう、今のように。 これまでに何度も切ろうと思ったことがある。でもその都度、栞があたしを止める。 「駄目だよ。お姉ちゃんすごく似合うもん。だから切っちゃ駄目」 自分でも短いよりは長い方が合うとは思う。とはいえ、どうして栞がそんなに執拗に切ろうとしたのかわからなかった。 「それに…お姉ちゃんが髪を切ってしまったら、わたしと同じように短くなっちゃったら…わたしが惨めになっちゃう気がして…」 どうしてそんなことを思うのかわからない。でも栞には色々と悩むことがあるということなんだろうとは思う。 何度となく髪を切ろうと思うけれど、その度に栞の言葉を思い出し、切るのは諦める。そして憂鬱なため息を零してからまた乾かす作業に戻る。 そう、今も切ろうと思っている、そして思い出してため息を零していた。 「短くすれば間違いなく、栞の方が魅力的に見えるのに、ね」 何で惨めに思うんだろ。別に聞こうとは思わないけど。 「ふぅ」 髪のケアはかなり気を使う。名雪もそうだろうけど、やっぱり長い髪は手入れが大変だわ。 短いのは楽なんだろうなあ、羨ましい。 愚痴ったところでどうなるもんでもないってわかっているのに、つい愚痴ってしまう。そしてため息。駄目だ、憂鬱の悪循環だ。 「コーヒーでも飲もうかしら」 部屋を出てキッチンに向かった。 お風呂に明かりが点いている。どうやらまだ栞は入っているらしい。のぼせなければいいけれど。 濃い目のブラックにしようと思いつつ、無意識のうちにミルクを入れてしまいまた憂鬱な気分になる。何やってるんだかあたしは。 勿体ないので飲み干して、もう一度ブラックを淹れる。今度はミルクは入れずに済んだ。シュガーも勿論入れていない。 「にが…」 でも、それはあたしが欲しがったものだからこれでいい。これで「しぶ…」だったらちょっと嫌だわ。 顔を顰めながらも飲み干して、もう一杯淹れる。そしてクッキーを数枚お皿に乗せて、そのお皿とコーヒーカップをトレーに載せ、部屋に持っていく。 机の上にトレーを置いて、早速一杯口に含んだ。 「にが…」 その苦さがいい。もやもやしたものが消えていくような気分。 でも頭の中がちょっと重い。何か嫌だな、しゃっきりしない。 目を閉じる。どうして頭の中が重いのか、それを考えてみる。が、数分経たないうちに目を開く。 「…わからないわ」 そんなに簡単にわかれば苦労はしない。そしてこんなにため息をついたりもしない。 「はぁ」 嫌だな。 ため息をつけばつくほど、自分がどんどん老け込んでいっているように思えてくる。 とはいえ、気がつけばため息を零している自分がいて、また嫌な気分に。はあ、この悪循環どうにかならないもんかしら。 栞とお風呂にでも入ればいいかな、とか思った。 とはいえ…今髪を乾かしたばかり。またお風呂というのも何だかなって気もする。 でも、今のままだとまた憂鬱な気分を引きずりまくって、さらにその引きずりが長くなっていく。 クッキーを一気にぼりぼりと食べてぐいっとコーヒーを飲み干した。 「もう一杯、飲もうかな」 後でトイレに行く回数が多いかもしれないけれど、飲まずにはいられない気分だった。お酒の方が忘れられると思ったけれど、残念ながらあたしは未成年だ。 お風呂にはまだ明かりが点いていた。 「長風呂ねえ…」 のぼせていなければいいけど… 栞は時々お風呂に本を持ち込んで読んでいたりするから、時間がかかることもある。 もうちょっとして、それでもまだいるようだったら声かけておこう。 結局その後また二杯ほどコーヒーを飲み足した。 気分悪くなってしまうまで飲んでしまう辺り、やっぱりちょっと駄目かもしれない。 「何やってんだろ、あたし…」 本当、バカみたい。というか完全なバカだ。 気晴らしに濃い緑茶を飲んでみた。「苦い」が駄目なら「渋い」で気を紛らわせようと思ったから。 「…失敗」 気持ち悪さに拍車がかかっただけだった。 「本当、何やってるんだろ、あたしは」 ため息を堪え、お風呂に。 明かりはまだ点いていた。 74話 いくらなんでも長すぎないかしら。 栞の長湯については時々注意するけれど、効果を得られないのが現実だった。とはいえいつまでも放っておくわけにもいかない。あの子は普通の体じゃないんだから。 声をかけておこう。さすがに心配になってきたわ。 「栞。ほどほどにしておきなさいよ」 そう言ってドアを軽く叩いておく。これで大丈夫でしょう、いつもそうだし。 部屋に戻ることにした。 「………………」 苛々する。 原稿用紙を丸めてゴミ箱に放り投げた。かさ、ころころと音を立てる。ああ。また入れ損なった。 一向に浮かばない演劇部の台本から逃げてばかりもいられない、だから無理矢理でも書き進めてみようと思ってはみたものの。どうにもこうにも進まない。 少しずつ、本当に少しずつ書き進める。 まるで水滴が水溜りを作るように、ぽつぽつと字を原稿用紙に乗せていく。 書いて、消して。書いて、消して。 「…………」 じれったい。 じれったいけれど、そうやって原稿を書いたことは今までだって何度か経験している。根競べみたいなものだ。 「…ふぅ」 上を見上げてため息一つ。蛍光灯の明かりが目に痛い。 目を閉じる。眩い光が抑えられ、少しだけ頭がクリアになった。 そのままゆっくりと首を下げ、顔を正面に向ける。まだ下げない。まだ原稿用紙に向かない。 浮かべるのはドラマ、様々なシチュエーションを想定し、キャラクターに言葉を吹き込む。 違和感があれば消し、違和感がなければ残し、用紙に書き留める。 何度も何度も繰り返し、いくつかの場面を作り上げていく。そして物語をそこから膨らませていく。 「…疲れる」 息をついた。 「無理矢理作っていくのはやっぱり精神に良くないわね…」 とはいえ、部長である以上は何かしらのものを作らなければ、穴を開けるわけにもいかないもの。 他の部員の子も何か用意してくれればいいけど、あまり当てには出来そうにもない。 「まあ、作ることそのものは楽しいからいいんだけどね」 いいんだけど、疲れる。 疲れるから気分転換に軽く身体を動かしたりするけれど、あまり効果はない。 あたし、二十歳になったら煙草吸いそうな気がしてきたわ…別に煙草の煙が苦手というわけじゃないし、吸えばすっきりするんじゃないかと思えることもある。 もっとも、今はまだ学生だから吸うわけにもいかないけどね。 「さて、続きやるか…」 もう一度机に向かおうとした時、不意に思い出す。 栞、お風呂からあがったのかしら… 気になる。 時計を見る、さっきから30分経っていた。 そして湧き上がる嫌な予感。 あたしは部屋を飛び出した。 「……あの子は…」 お風呂に栞はいなかった。いなかったのは良かったけど… 「どこ行ったのよ…」 お風呂どころか家にもいなかった。一応それほど広くない家の中を一通り探してみたけれど、誰もいなかった。 消えていた栞の靴を確認すればこんな無駄なことをしなくても済んだのに、何やってんだかあたしは。 それにしても… 「あの子はどうして落ち着きがないのかしら…」 折角二人だけで家にいるっていうのに、何であたしといようって思わないんだろう。 …ばか。思うわけないじゃない。本当ばか。 自分の都合の良い時だけ栞を求めるなんて、図々しいにもほどがあるわよ。 「はぁ…」 どこに行ったのか知らないけど大丈夫かしら。心配だわ。 今日は天気がいいから遠出しているのかもしれない。 そう思ったらいてもたってもいられなくなっていた。部屋に戻って支度を済ませる。 「…探そう」家を飛び出した。 75話 心当たり、なんてわかるはずもない。 とりあえずは駅周辺、そして商店街、とにかく賑やかなところを先にしよう。 人恋しい、栞がそう思うことはないかもしれないけれど、あたしから逃げたというのなら人ごみの中にいるんじゃないかと思った。 嫌われるようなことをした覚えは、ありすぎるぐらいある。 心当たりがありすぎる。だからあたしと話をしたくなくて逃げ出したのかもしれない。 とにかく行ってみよう。行かなければはじまらない。 「ったく、あの子は何をやっているのよっ!」 栞がどれだけお金を持っているのかわからないのが探すことの難しさに拍車をかけた。 普段あの子がどういう買い物をしているかはわかっていたけれど、買い物目当てとは思えなかった。数日前にかなり買いこんでいたからそれはないと思った。 それでも一応あの子の持っていたレシートを思い出し、その店に飛び込んでレジのお姉さんに聞いて回った。結果は無駄足だった、栞は来ていないようだった。 駅ビルのお店を隈なく覗く。どこにもいない。 待ち合わせ場所で知られている駅前のベンチには誰も座っていない。 映画館の窓口で確認を取る。出かけた時になくなっていた服の特徴と栞の背格好を教えた。旬を過ぎていることが幸いし、割と簡単に「そういう子は見かけなかった」という返答をもらった。 駅の改札でも確認した。さすがにわからないと言われたけれど、とりあえず後にする。 駅を一旦諦めて商店街に。 夕方前でまだ人の足は少なかった。天気はいいけれど人はまばらだった。 商店街のお店の人たちには悪いけれど、好都合だわ。片っ端から入って確認しよう。 とはいえ、さすがにお惣菜屋さんとか呉服屋さんは見る必要がないと思う。 本屋さんとかゲームセンターとか、栞が興味を示そうな場所だけを回ろう。 とりあえず近くにクレーンゲームが見えたので、そこから入ることにする。 「いないか…ったく、どこ行ったのよあの子はっ!」 ゲームセンターにもアクセサリーショップにもアニメショップにも本屋さんにも、コンビニにもいない。 美味しいアイス屋さんにもいなければケーキ屋さんにもいない、たい焼きの屋台の前にもいなければ隠れ家みたいなCDショップにもいない! 後の心当たりというと…百花屋! 「あそこを忘れてたわ!」 あそこのお化けみたいな巨大なパフェを一度制覇してみたいなんて無謀なことを言ったこともあったっけ。 駄目元、とりあえず行こう! 「…厄介ね」 知った顔がいる。 今顔を合わせたくない、最悪な知った顔が。 「何で北川くんがいるのよ…」 しかも一人でコーヒーを飲んでいる。はっきり言って男の子一人で来るようなお店じゃないのに。 「誰かと待ち合わせでもしているのかしら」 北川くんは顔が広い。 学校内だけでもかなり顔が広いのにバイトをしているから交友関係はあたしが想像出来ないほど多いんじゃないかと思う。 だからデートとまではいかないけれど、誰かと待ち合わせでもしている可能性は十分あった。 「…今確認するのは無理か」 ショウウインドウから遠巻きで見ることしか出来ないけれど、見た感じ栞は見当たらない。 席はほぼ埋まっているけれど、一人で座っているのは北川くんを含め三人、うち一人は高齢の方みたいだし残りの一人は明らかにお母さんを待っている小さな女の子だ。 「…先に他行って見たほうがいいわね」 百花屋を後にした。 「次は…公園、かな」 公園も好きだったはず。 あの子絵を描くのが好きで、よく公園でスケッチというにはあまりにも画家には失礼な落書きを描きに行っていた。 本人は一生懸命描いているんだろうけど、ちょっと…ねえ。 とにかく、公園に行ってみよう。無駄足かもしれないけれど、可能性が少しでもあるところは全部回らないと。 「……しかし」 どうしてここはこんなに人がいないのかしら。 適度に広いし、噴水のライトアップもとても綺麗、デートスポットには最適だと思うんだけどなあ。 時計もちゃんとあるから、腕時計忘れても時間はちゃんと把握出来るし。 って、今そんなこと考えている場合じゃないわ。 「とはいえ、どう考えても誰もいないわよね、これ…」 ほとんど人が来ない公園。それを証明するかのように 「足跡一つ、残ってないじゃないの」 誰もいない公園で、あたしは一人途方にくれた。 つづく |