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気づいたのは、ふとした瞬間。 気づいたのは、何気ない言葉。 それはとてもとても怖いもの。 それはとてもとても恐いもの。 まるで初めて死を知った幼子が、夜も眠れずに恐怖するように。 何よりも恐れるのは、忘れられること。 何よりも恐れるのは、会えなくなること。 それはまるで自分の死のように、じわじわと胸の奥に恐怖を植えつける。 嗚呼、どうしてなんだろう。 別れがこんなに恐いことだなんて、初めて知った。 ここ二、三日、ビッキーと話していない事に気がついた。 先々週の暮れぐらいまでは、自分の指揮する魔法兵団の一斉訓練や、城主であるリオウや軍師のシュウを初めとした各軍団長による作戦会議のせいであまり話す機会がなくて気づいていなかったが、ビッキーは暇さえあれば自分の持ち場にとことこと寄って来ていた。 別に迷惑だとは思っていなかったし、むしろ彼女との会話は心地よいとも思っていた。時には自分のほうから彼女の持ち場に出向いたり、一緒に昼食を食べたり、非番の時は二人で街へ出掛けたりもしていた。 一番仲の良い異性――そう言うのが妥当だろうか。 友達以上、恋人未満。 世の中には便利な言葉があるな、と彼は思う。あの天然のビッキーのほうはどう思っているかは知らないが、そう言っても間違いはないかもしれない。ビッキーが他に仲の良い男が居るような節もないし、チャンスだけはあるはずだ。 けれど、会う事がなければそのチャンスも無に帰してしまう。 どこだ、と彼は約束の石版が安置されたホールを見回す。自分の場所から左斜め前方。巨大な鏡が佇む彼女の定位置に、いつものビッキーの姿は見えない。 次の開戦予定日まで、残り一ヶ月強。言っては悪いが、しばらくはのんびりできる。 とりあえず、聞き込みから始めようと、彼はふらりと歩き出した。 一方、ビッキーはビッキーで自室に閉じこもっていた。普段から自分のテレポートを皆が多用しているせいだろうか。体調が悪い、と自室に閉じ篭っていても自分に気を使ってか、ほとんど自室を訪ねて来る者はいない。 仲の良いメグやミリー、ワカバと言った面々も初日こそ訪ねては来たが、昨日と今日は誰も訪ねてくる様子はなかった。おそらく、自分の体調不良の原因が身体ではなく気持ちの問題である事に、同姓である彼女達が本能で気づいたためであるだろうが、ビッキー自身はその事を知らない。 本当は、体調など悪くはなかった。食事もいつも通り、デザートごと平らげているし、読書をする元気もある。その証拠に、枕元には図書館から持ち出した何冊かの蔵書が転がっていた。 目を走らせていた本を、枕元に重なっている本の上にさらに積み、山積みになった本の山をベッドの端に寄せる。 理由は、分かっていた。 思い出されるのは、昔馴染みのメグとの会話。 ビッキーってさぁ。時間、超えられるんだよね、たしか。 ? うん、そうだけど。それがどうかしたの? あ〜……ちょっと、ね。なんとなく、思いついたんだけど。 ほえ? 門の紋章の時、ビッキーってさ、祝賀会の最中に消えちゃったんだよね。 う、ん。そう、だけど……。 じゃあさ。もしかして、今回の戦いが終わっちゃったら、ビッキー、また居なくなっちゃうのかなぁ……? …………え〜っと―― ――ごめん。変な事言っちゃったね。 それが、一週間ほど前。 バツの悪い顔をして、気まずそうに去って行くメグの表情がやけに頭に残っている。 何をしていてもその会話が頭をよぎり、ただでさえ多いテレポートの失敗も日に日にその回数を増していくのが自分でも分かった。体調に問題はないはずなのに、どうにも気分が優れなくて、気分が重い。鬱病、と言うのだろうか、これは。 ホウアンにはすでに相談済みだが、精神的なものだと言われて精神安定剤をもらっただけである。確かに多少は落ち着いたが、効果が薄いものだったのかそれとも自分の鬱病が重いものなのか、これと言った解決策にはならなかったので、昨日から飲んでいない。 もう、今日は寝よう。 気分は優れないが、明日ぐらいから顔を出さねばそろそろ解放軍自体に迷惑がかかりかねない。たしか、少し前にリオウがティル・マクドールを仲間にしたいからバナーの村まで送ってほしいと言っていたような気がする。 こん、こん、こん 静かな室内に、ノックの音が嫌に五月蝿く響く。 返事をするのも面倒だった。だんまりを決め込んで、ビッキーは頭から毛布を被って寝転がる。たぶんメグ辺りだろう。放っておいても、寝ていると思ってどこかへ行くだろう。 だが、呼び掛けられた声は思いがけない者からの声。 聞き覚えのある、忘れたくても忘れられない人の声。 「ビッキー、寝てるの?」 びくっ、と全身が震えるのがはっきりと分かった。鳥肌が立つ感覚に似ている。ぞくぞくとした寒気で、怯えるように身体が震える。 起き上がろうと身体を動かすと、枕元に積んであった本の何冊かが、ばらばらと床に落ちて散らばった。 せわしなく何度も手を開いては閉じ、嫌な感じに震える自分の身体を抑えようときつく奥歯を噛み締める。 どうして、こんな時に限ってあの人は自分に優しくするのだろう。 ――今、一番会いたくない人が、そこに居る―― 部屋にこもっていた一番の理由は“彼”だ。会いたくなくて避けてしまう理由も、メグの言葉を思い出せば思い出すほど怯えてしまうのはどうしてかも、ビッキーは自分で分かっていた。 一時的なものだと思っていた。 少し待てば落ち着くと思っていた。 二、三日もすれば、きっといつものように振舞えると思っていた。 いつものように二人で笑いあって。 いつものように二人で話して。 いつものように二人で食事をして。 いつものように二人で出掛けて。 いつものように二人で魔法の勉強をして。 いつものように魔法の失敗を怒られて。 いつものように二人で―― これほど酷いとは、自分でも思ってなかった。 「………………来な…い……で………」 喉の奥から何とか絞り出したのは、今にも消え入ってしまいそうな小さくか細い声。自分でも聞こえるかどうかも怪しいのに、ドアの外に居る彼に聞こえるはずがない。 けれども、 「…………来ないで……ぇ!」 目頭が熱くなる。 頬に涙が流れるのを感じる。 ――助けて―― 誰に助けを求めているの? 一番……頼りになる人。 マクドールさん? ううん、違う。 ビクトールさん? カスミちゃん? それも違うよ。どっちも違う。 メグちゃん? ミリーちゃん? フリックさん? ワカバちゃん? シーナさん? 違う、違うの。全部違う。 じゃあ、誰なの? …………………。 ちゃんと答えて。 ルック。 誰から助けて欲しいの? ルックから。 もう一回聞くよ? うん。 誰に助けて欲しいの? ルックに。 誰から助けて欲しいの? ルックから。 変じゃない、それ? うん、変だね。 馬鹿みたい。 うん、馬鹿みたい。 小さな声と物音が漏れている。声は嗚咽のようにも聞こえるが、ドアを隔てているせいなのか、声が小さすぎて何を言っているのかは分からない。少なくとも、ビッキーが居る事だけは間違いがないようだ。 なんとなくドアノブに手をかけると、鍵が開いていた。 「ビッキー、入るよ?」 ドアノブに手をかけ、扉を少しだけ押し開きながら問いかけるが、部屋の中から彼女の答えはない。 もしかしたら思った以上に重病なのかもしれない。不安が胸の奥をよぎり、彼女に再度呼びかけながらルックはビッキーの部屋へと足を踏み入れた。 さきほどの物音の正体か、数冊の本がベッドの横に散らばっているのがまず目に入った。開け放しにした窓からは月光と涼しげな風が舞い込んでいる。 そして、暗がりの中心。 黄色いパジャマの上下に身を包みながら俯いたビッキーが、ベッドに腰掛けて肩を震わせている。拳の形になった彼女の両手にはしっかりとシーツが握り締められ、まるで何かを耐えているようにも見える。どこか体調が優れないのだろうかと、ルックは一歩だけ前に出ながら思考する。部屋で休んでいるのは体調が悪いからであって優れないのは当然だと、自分のおかしな疑問に苦笑する。 そして、ビッキーの呟きが聞こえた。 「…な……で………」 思わず、足が止まった。 何を言っているのだろうかと、ルックは彼女の声に耳を傾ける。 今度は、先ほどよりもはっきりと聞こえた。 「来ないで……」 来ない、で? そんな事を言われるような事は、自分はしていたのだろうか。 聞き間違いか、と思い、ルックが再びビッキーに近づこうとすると、 「来ないでっ!」 叫び、ビッキーが長い黒髪を振り乱すようにして顔を上げた。 泣いている。 大きな黒い瞳からぼろぼろと大粒の涙を流しながら、彼女はその辺りにあったものを手当たり次第に投げつけ始めた。ひよこ柄のカバーの付いた枕が胸に当たり、読み掛けの本が肩をかすめて挟んであった栞が舞い落ちる。半分ほどの長さにまで縮んでしまった鉛筆が壁に当たって芯が折れ、芯のなくなった鉛筆がコロコロと床に転がった。 わけがわからない。自分が一体、彼女に何をしたと言うのだろうか。 記憶の糸を探ってみるが、ルックに心当たりがあるはずもない。それに元来、ルックはキレやすい性格だと言う事を彼自身も自覚している。相手が怒るのは別に構わないが、せめて怒る理由ぐらいは言われなければ気が済まない。 もっとも、理由を言われても自分が納得すると思えないが、言われなければさらに納得しない。 何も言わぬまま、ルックはゆっくりとビッキーに近づいた。漆黒の瞳から止まることなく零れる涙を両手で拭う彼女の前に立ち、ルックはベッドに腰掛けたビッキーを見下ろした。 不思議と怒りが引いて行く。 彼女は何も変わっていない。あの頃から。 自分は三年と言う歳月を重ね、少しだけ中身が変わってしまったが、彼女はどうだろう? 消えてしまったあの時の、あの瞬間のまま、ここへやってきた。少なくとも自分はそう聞いている。 けれど、やはり彼女も変わっているはずだ。昨日の彼女も、今日の彼女も、明日の彼女もビッキーだが、それはビッキーがビッキーであるだけだ。同じビッキーはこの瞬間だけで、過去にも未来にもいない。 いつからだろう。彼女がどこか怯えともとれる寂しげな表情を、時折見せるようになったのは。三年前からか、ここに来た後からか、少なくともルックは覚えていない。たぶん、つい最近の事だった――と思う。 「来ないでぇ……っ!」 ヒステリックになっていると言うよりは、どこか混乱していると言ったほうが近かった。 涙を流しながら「来るな」と言われても、従えるはずがないじゃないか。 焦燥感にも似た感情が渦巻き、ルックは思わず叫びそうになったその言葉を飲み込んで、心中で言うに留まった。一度だけ、深く呼吸する。肺に送り込まれた酸素を二酸化炭素に循環し、一気に短く吐き出す。 ゆっくりと伸ばされたルックの両手がビッキーを包み込む。腕に当たるさらさらとした彼女の黒髪が気持ち良かった。しゃがみ込んだルックの胸板にビッキーの顔がぎゅっと押し付けられ、彼女の涙がゆっくりと彼のローブを濡らして行く。 「優しくしないでぇ……」 言葉と行動が反対だった。自らの両腕をルックの背中に回し、口元をルックの胸板に押し付けて彼女は子供のようにわんわん泣いた。みっともない、と自分で思ったがどうにも止めることが出来ず、しゃくりあげながら鼻水を啜った。 「……僕、ビッキーに何かした? 理由を言ってくれれば、僕だって謝れるんだけど――全然心当たりがないんだ。ごめん」 自分でも驚くくらいに優しい声が出た。こんな台詞、きっとビッキー以外には言う事はないだろう。もしかしたら、ビッキーに対しても、これが最初で最後かもしれない。 さらさらとした感触が気持ちいい黒髪の上から、ビッキーの頭を子供をあやすように撫でつけ、嗚咽をあげる彼女の背中を優しくさすってやる。 暫くしてからビッキーが口を開いた。 子供のような泣き声でしゃくりあげながら、己の言葉を放つ。 「………………………ちがっ、うのぉ……っ!」 何が? と問い返すルックに、ビッキーは鼻を啜りながら続ける。 「わた、し……っ! ルッ…クが好きぃ、だからぁ……っ! でぇもお、好きっ、にっ、なっちゃったら……お…別れするのがぁっ、物凄っ…寂し……っ! 私……自分がぁっ、思…わなくても、どっか、行っ、ちゃうしぃ……っ!」 ビッキーの叫びを、ルックは彼女を抱きしめたまま黙って聞いていた。黒髪を撫で、ビッキーの身体を抱きしめる心地良さに心が奪われそうになるが、そんな事を思っている場合ではないのは重々承知だ。 ぽんぽんっ、と彼女の背を二度ほど軽く叩き、ルックは彼女には見えないと分かりつつも小さく微笑んだ。ビッキーのルックにしがみつく力がさらに強まり、 「だか、らぁ……っ! ルッ、クからは、なれればぁ…っ! 好きっ、にならっ……なかったら、だいじょ…ぶぅ、だと思…たのにぃっ! ルックの事ぉ……好きになっちゃ……っ!」 ひぐぅ、と大きく啜り泣き、ビッキーはルックの肩の辺りに甘く噛みついた。泣き声を殺そうと口を強く押し付け、唾液でわずかに濡れるローブの隙間からう〜う〜と唸るような声が漏れている。 ごめんなさい、と ふと、ビクトールの言葉が思い出された。 少し前、有無も言わさず参加させられたバカだらけの酒盛り。 くだらないとは思ったが、たまには悪くなかった。 アルコール度数の濃い酒を、自分が記憶しているだけでも三本は軽くストレートで飲み干して、真っ赤な顔で自分に何かと絡んできたビクトール。酒臭い息を吐き出しながら、なぜかとくとくと恋愛論について語っていた。たぶん、かなり冗談交じりだっただろうが。 『黙って抱きしめて、キスの一つでもすりゃあ、あとは勢い任せだ。ノリでそのまま強引に――』 馬鹿馬鹿しい戯言だと聞き流していた。酔っ払いの、下品な冗談。 ぐいっ、とビッキーを自分の体から引き剥がし、彼女の顔を覗き込む。 泣き腫らした顔。頬には涙の後が残り、鼻っ柱は赤くなっている。目尻に涙が溜まったままの漆黒の潤んだ瞳はやけに輝き、唾液に濡れた彼女の真っ赤な唇が、妙に艶かしく見えた。 指先で、頬に触れる。 子供のようにすべすべで、柔らかい。 嗚呼。僕は求めてるんだ、この少女を。 百面相のように表情を次々と変化させながら、くるくると笑う少女。 十六歳というのは子供なのだろうか、それとも大人なのだろうか。 今年で十七になった自分は随分と大人なつもりだったが、彼女はどうだろう。 自分の場合は、肉体の年齢をこれ以上重ねることはないだろうが、彼女の場合、いくら年齢を重ねようとも、子供のままで成長していくような気がする。 そんなことがあるはずはない。彼女が人間である以上、いろいろな経験を重ね、様々な体験をしては、嘆き、悲しみ、泣き、笑い、喜び、成長する。 そして、いつかは大人になり、老人になり、死ぬ。 だが、それでも、そんな気がする。 もし、今この瞬間に自分がビッキーを求めたのなら、彼女は大人になるのだろうか。それとも子供のままなのだろうか。欲望のまま彼女を求め、汚しても、彼女は彼女のままでいるのだろうか。 視線がぶつかる。 漆黒の瞳の奥に、わずかな怯えと戸惑いが見えたような気がした――が、見ないことにする。 どうしたの? そう呟くビッキー。ルックの目に映るのは、彼女の唇とその動きだけ。 「今まで、黙ってたけど――」 ビッキーの目を見ながら、ルック。 泣き止んだビッキーが、泣き腫らした顔できょとんとこちらを見つめ返している。 「僕も好きだよ、君のこと」 声が響く。やけに遠くから。 何を言ったのか、頭が理解してくれるのに時間がかかった。 不意打ち。 そして、 「ふあ……っ!? んんっ!?」 ビッキーの唇に触れる“ルック”の感触。 キスの仕方など、全然分からなかった。 がむしゃらに彼女を求め、乱暴に唇を重ねる。自分の好きな人に「好きだ」と言われて、自分を抑えることなどできるはずもない。自分の心の内側に黒く蠢きながら渦巻く欲望が、荒々しくルックを突き動かす。 呼吸をしようとしているのか、抵抗しようとしているのか。 時折離れる唇を、ルックはけして逃さない。離れても執拗に追い、また唇を重ねる。 きつく一文字に結ばれた唇を上下に割って、舌を差し入れる。ゆっくりとビッキーの口内に侵入したルックの“それ”が、さらにきつく閉じられた歯に当たり、今度は唇の裏側でも刺激してやろうとして―― きつく握られたビッキーの二つの拳が胸を打ち、ルックは唐突に我に返った。 「う、あ……っ」 呟いたのは、ルック。 唾液でべとべとに濡れた自分と彼女の口元。思わず唇を押さえ、そのぬめる唾液を手の甲で拭う。 怯えたようなビッキーが、目尻に再び涙を溜めて自分を見ていた。 その瞬間、自分の中に渦巻いた感情は、一体何だったのだろうか。 罪悪感――とは少し違うような気がした。 恥ずかしくて、死にそうになる。何かを言おうとしても言葉が見つからず、呻き声にも似た言葉にならない呟きが、喉の奥から漏れる。 嫌われた。「好きだ」といわれて調子に乗ってしまった。口の中にたまった唾液を飲み込み、激しく鼓動する心臓を少しでも抑えようとして胸に手を置いても、心拍数が減少する様子はない。額に汗が噴出し、背中に冷や汗を掻いているような感覚。 ああ、そうか。これは“怯え”なんだ。 嫌われたくない。そのことだけが自分の中に渦巻く。自分勝手だとは思うのに、そう思わずにはいられない。 そして、怯えは絶望に変わる。一瞬で。 自分の目の前に存在するのは、怯えたビッキー。 こんなことをして、許されるはずがない。 無言のまま、踵を返す。頬に熱いものが流れているのは、気のせいだと思い込んだ。 部屋のドアを開けようと、ドアノブに手を伸ばす。 「あ……っ!」 ビッキーの呟きが聞こえる。引きとめようとしているように聞こえるのは、自惚れか。 逃げるように部屋を出て、乱暴にドアを閉める。 (何をしてるんだ、僕は……っ!) 身体中から力が抜ける。その場から動き気力もなくなり、ルックはどかりとその場に座り込んだ。ビッキーの部屋のドアに背を預け、こつんと後ろ頭をドアにぶつけて天井を見上げる。 虚空を見る、虚ろな瞳。 好きな子を目の前にした幼子のように鼓動する心臓が止められず、目を閉じれば先ほどの“ビッキー”の感触が唇にまざまざと蘇り、己の指を思わず唇に滑らせる。 (……やわらかかったなぁ……) 罪悪感よりも何よりも、そんな事に心を奪われてしまっている自分に自己嫌悪を覚えながらも、ルックは自分の思考を止める事は出来ない。ビッキーの感触がまだ自分の身体に残っているような気がして、目を閉じて先ほどの光景を思い出しながら拳を握り締める。 ドキドキする。たぶん、二度と忘れられないだろうな、と思った。 目を閉じると、自分の息遣いだけが聞こえる。 ビッキーはどうしているのだろうか。泣いているのだろうか、それとも―― いやに、しん、とした城内。自分以外、誰も居なくなってしまったかのような気がした。左手に見える窓ガラスの向こうには深い闇が広がっていて、右手に続く通路はまるでどこまでも伸びる無限回廊を錯覚させる。 謝ろう。 少し落ち着いてから、そうしようと思った。 身体がやけに熱いのは、どうしてだろうか。 自分の唇に触れてみると、わずかに残る“ルック”の感触が鮮明に思い出される。 物凄く、ドキドキする。 恐い、と言うよりは、驚いた、と言うほうが正しい。何が起こったのか理解できなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって混乱していた。嫌だったかと問われれば、否、と答えられる。 僕も好きだよ、君のこと。 嬉しかった。物凄く嬉しかった。あの言葉が聞けるなら、いつ自分が別の時代に飛ばされたとしても恐くない、と思った。 ルックから離れる事も、嫌いになる事も、好きになり過ぎて辛い思いをしなくとも。 彼の傍らに立って、一緒に過ごせる一瞬が今だけでも許されるのなら、もう恐れる事は何もない、と思った。 じゃあ、そのために自分は今、何をすればいい? 「ルック!」 己への問いかけへ自答するよりも先に、ビッキーは弾かれたように動いていた。 ドアノブに手をかけ、勢いよく一気に開く。 ルックを探そうと辺りを見回すよりも先に、足元で小さな悲鳴と鈍い物音がした。 ルック、とビッキーの叫びが聞こえるのとほとんど同時に、ルックは背中に感じていた支えを一瞬にして失った。視界が壁を伝って天井を過ぎて行き、視界の端に見覚えのある黄色が映り込んだかと思うと、次の瞬間には頭部の後ろに激しい衝撃を感じていた。 ごんっ、と言う鈍い音が辺りに響き、一瞬だけ視界が真っ白になった。冷たい床に打ちつけた後ろ頭がずきずきと痛むが、そこから身動きする気がなぜか起こらない。 二、三度、まばたきをしてしっかりと瞼を開くと、しゃがみ込んで心配そうに見つめるビッキーの顔が視界一杯に広がっていた。彼女の長い黒髪が顔に少しだけ触れていて、妙にくすぐったかった。 実に、間抜けだ。 ふっ、と先に笑い出したのはどちらだっただろうか。胸の奥底から笑いがこみ上げてきて、馬鹿みたいに二人で笑った。 先ほどの事など全て忘れてしまえ。水に流してしまおう。 ルックは笑った。ただひたすらに。 背に触れる床が冷たいのも、打ちつけた後ろ頭がずきずきと痛むのも気にならない。ただ自分の目の前に彼女が居るのが嬉しくて、そしてなぜだかそれがとてもおかしくて、今のこの瞬間がとても幸せだと感じていた。 ビッキーも笑った。ただひたすらに。 何の根拠もないはずなのに、この人となら一緒に居られると思った。 もう逃げるのはやめよう。もう恐れるのはやめよう。 所詮、人は自分の一歩先どころか、足元や目の前ですら見えていないのだ。 今を感じよう。今を生きよう。今を進んで行こう。 先の見えない未来なんかどうでもいい。やり直せない過去なんてどうでもいい。歩んでいる今が大事なんだ。 どうにかできるのは、この指先で触れる事のできる、ほんのわずかな未来。 変わるのは周囲。 変えるのは自分。 いつまで一緒に居られるか、そんことは分からないし、無責任な約束もできないけれど。 時間が許す限り、二人でずっと一緒に居よう。 君が孤独を感じたなら、君の傍に居よう。 君が泣くならば、君の手を握ろう。 君が嘆くなら、君を抱きしめよう。 君が笑うなら、君と笑おう。 悪足掻きをしながら、ずっと傍にいようよ。 ----------------------------------------------------------------------------------- あとがき。 久々の休みにファイルを整理してたら、どこからともなく昔書きかけていたるくびきを発掘したので完成させてみたw まあ、4発売まであと少し、っつーことでw 一緒くたに見つけた2ビッキーvs3ビッキー(ちびビッキーに非ず)を発掘したのでそれももしかしたら完成させるかもw ただ戦闘シーンの練習のために書き始めた一品だったかと。 つか、そろそろリク小説の至Sf&ライフェリを書き上げねばヽ(;´Д`)ノ 八月いっぱいか九月の中ごろでバイト止める予定なので比較的更新増えるかと。 ----------------------------------------------------------------------------------- ←二次創作置き場へ |