「耕一さん、耕一さん」
まどろみの中、自分を呼ぶ声を聞いて耕一は目を覚ました。
ぼやける視界が徐々に焦点を取り戻していき、耕一は目の前に見覚えのあるあどけない少女の微笑を目にする。
「楓ちゃん……?」
「耕一さん……。目、覚めましたか?」
静かな声で囁く様な楓の声に、耕一はなんだかとても懐かしいものを聞いたような錯覚を覚える。
「楓ちゃん……。どうしたの?」
耕一がぼんやりと尋ねると、楓はまた微笑んで言った。
「帰ってきたら……お話しするって……約束したから」
ああ、と耕一は寝ぼけた頭で少女と交わした約束を思い出す。
――でも。と耕一は頭の中で付け足した。
先ほどから感じる違和感を耕一は確かに感じていた。
そして、耕一は心の奥底でそれに気付いていたが……
(俺の目の前で微笑んでくれる楓ちゃん)
(その微笑みは確かに俺が望んだ物)
(何かを忘れている様な気がしてならない)
(今まで、楓ちゃんって、俺に向かってこんな微笑みをくれたっけか……?)
「耕一さん……。覚えてましたか?」
「……うん、覚えてるよ」
拭いきれない違和感を感じつつも、耕一はとりあえず寝ぼけた頭を左右に振って立ち上がった。
そして、気付いた。
はっきりとした視界に写る、その少女が血まみれで、そして――
耕一は全てを取り戻し、そして同時に全てを失った事に気付いた。
震える手で、腕で、全身で。
優しく愛しい少女を包みこんだ。
「楓ちゃん……楓ちゃん……」
楓は苦しげに、でも心から幸せそうに微笑んで耕一の背中に手を回した。
「こういち、さん……よかった……ほんとに……」
(よかないよ、ちっとも……)
耕一は心で呟いて、目からその想いを溢れさせながらも、愛しい少女に笑って見せた。
「ああ、楓ちゃんのおかげだよ……ありがとう。そして」
楓の瞳からも涙が溢れていた。
今度は、確かに温かい涙を。
「……ごめんよ……」
その涙を指で拭いながら耕一は涙の雫を落とした。
楓は、ゆっくりと首を横に振ると、にこりと微笑んだ。
「耕一さん、わたし、忘れてなかった……この腕の、温もり……」
「楓ちゃん……」
「また、この温もりの中で、眠れる……ん、ですね……わたし……」
「…………ああ、俺も忘れてないよ。腕の中で眠る君の微笑みと、温かさを……」
止めど無く溢れる悲しみ。でも、二人は微笑み続けていた。
「こういちさん、お話しましょう……わたし、あなたに話したい事が……」
「ああ、俺も。楓ちゃんと、話したい……」
そう言って二人は優しく微笑み合うと、再び優しく抱き合った。
――――ザッ
すぐ近くに降り立つ気配を感じても、耕一は動こうとはしなかった。
その気配が一歩ずつ歩みより、そしてすぐ近くで立ち止まる。
耕一はそこで始めてその気配に視線を送って言った。
「千鶴さん……」
その人影、千鶴は耕一の肩を優しく叩くと、動かない楓を見詰めて悲しげに眉を寄せる。
そして、優しく楓の体を耕一から離し、腕に優しく抱えると、耕一に視線を送った。
「…………」
耕一は力なく、それでも確かに頷き、そして千鶴と共に夜空に跳躍し、麓を目指し消えていった。
光の中、楓は自らの敗北を知る。
前ほどの速度が出ていない。
そして、鬼はその速度に付いて来ている。
自分の腕が鬼の身を貫く――自分の身を鬼の腕が貫く――その時。
鬼の目に見覚えのある光が灯った。
(……耕一さん?)
楓は振う腕を思わず止めた。
そして、その身を、鬼の腕が……
楓は思わず戸惑い、自分を抱きしめた人物の顔を見上げる。
そこには、優しく微笑む耕一の顔があった。
(…………そう、か……)
楓は戸惑いながらも、悟った。
これは、死へと……来世へと向かう自分を慰める、最後の夢だ。
(……なら、夢なら……いいですよね……)
楓は夢の中でその温もりに身を委ねた。
(夢なら……甘えてもいいですよね、耕一さん……)
その温かい胸に顔を埋めながら、楓は泣きじゃくった。
生まれたばかりの赤ん坊の様に、無力に、相手に身を任せながら、泣いた。
この目を開けたら、夢は覚めるだろう。
だから、今は泣けるだけ泣こう。
泣いて、悲しみを振り払って、そしてこの胸と魂に刻もう。
私を包んでくれる、この両腕と胸の温もりを――
「耕一さん……」
「楓ちゃん……おはよう」
「耕一さんっ、耕一さんっ……」
楓はその胸にすがりついて再び泣きじゃくった。
そして、そっと感謝した。
朝の光が障子の間から刺し込み、抱き合う二人を優しく包みこんでいた。