『かくも永き夜の終わりに』木綿

いったいどれほどの間、そうしていたことだろうか。
月のない夏の夜。
その男は、草いきれの中にじっと身を潜めて何かを待っていた。
蛙(かわず)たちの斉唱が夜の湿地帯に響きわたる。
彼がその身を一群の草の中にじっと横たえた当初は、
蛙は警戒してか、声をたてるのを躊躇していた。
しかしあまりに永い間じっと動かないその一つの影を、
両生類たちは風景の一部であると認識したようだ。

斉唱は単調に続いていた。
じっと聞いていると眠くなりそうな歌声だった。
時折、腹に響くような心地よい低音が混じる。
しかし草むらに潜んだ男は、その歌声を聞いてはいなかった。
まったく息をしていないようにも見える一つの影。
彼はただ、湿地の中の比較的乾いた場所を選び、
できるかぎりの体力の消耗をおさえながら、朽ち木のように転がっている。
そう。ただ、転がっているように見える。
しかし、その眼だけは、らんらんと夜の中に輝いてあった。

彼は幼い頃、池の中に一日中立たされた。
ただ水面(みずも)の一点をみつめる。
時折、魚がはねる。
その一瞬を斬った。
手の届く範囲内で、魚がはねることのない日もあった。
くる日もくる日も、魚のはねる瞬間を待って斬った。
彼の家に伝わる修練の法だった。

待つことはさほど、苦ではない。
衆人にとって、集中力を維持することこそが困難なのだ。
しかし男は、そのことについて、すでにある域に達していた。
彼がじっと待っていたものは…。

河を舟で渡って、一人の忍びがやってくる。
そして舟を乗り捨て、湿地の中を歩いて横切り、
北に位置する、とある城へ向かうであろう。
それを斬ってほしい。
彼はそう依頼されていた。
忍びが何者であろうと関係はない。
彼にまかされた仕事は、ただ斬ることのみだった。

どこかで魚がはねた。
一瞬、蛙が鳴きよどむ。
声が途切れる。
彼、いや、大木雅之助は目を閉じた。
その脳裏に、黒々とした塊が浮かぶ。
一艘の舟と、ゆっくりとそれを漕ぐ男。
水鳥が一匹啼きはじめる。
舟を漕ぐ男が声を真似ているのだ。
雅之助は、精神を集中することで、
男の気配を五感すべてで感じた。

舟がやわらかい泥にのりあげる、かすかな音がした。
甘い土のにおいが、夜の清浄な空気に拡散する。
それは、実際は耳で聞き取ることのできないくらいの、
音とはいえない音であり、
鼻で感じることができないくらいの、
匂いとはいえない匂いであっただろう。
男がゆっくりと舟から降り立つ。
湿地帯に足を踏み入れる。
雅之助は、自分の足が同じように、
ずぶずぶと黒光りする泥に吸い込まれる妙な感覚に襲われた。

足音は聞こえなかった。
しかし男は、まっすぐ雅之助の潜む草むらに向かってくるはずだ。
なぜなら、生あたたかい泥から抜け出し、いち早く乾いた地面を踏むためには
こちらに向かうしかないからだ。
戦闘に不利な条件からまず抜け出そうとする忍びの本能を、
雅之助は逆手にとって罠をはった。

足音はまったくしなかった。
見事なまでにその男は気配を殺していた。
雅之助は待った。
魚がはねるのを一日中待った、あの頃そのままに。
永い、永遠ともいえる時の果ての、その一瞬を待った。

そして、切っ先がひらめいた。
斬る瞬間、雅之助は相手の目をみた。
覆面をしたその男の、目は涼やかである男を思わせた。
野村ではないか、
一瞬そう思った。
可能性がまったくないわけではない。
しかし、彼は迷うことなく袈裟懸けに斬った。
覆面の男は声もなく倒れた。
そして雅之助は、覆面の下の顔をあらためもせずに、
風のようにその場を離れた。

雅之助は、その仕事に関する雑事を終えると走った。
自分の家とは違う方角にただ走った。
やがて巨大な門が黒々とそびえるのが見えた。
それを横目に、彼は塀を高々と跳びこえた。
内部に進入し、植え込みの中から、目当ての部屋に明かりが灯っているのを確認した。
明かりは、部屋の主の在室をほぼ証明している。
雅之助は、なぜだかその日はじめて息をしたような気になった。
深い安堵のため息がもれる。
そんな自分に思わず自嘲の笑みをもらすと、きびすを返した。
高い塀に跳びうつろうとした瞬間、
その背に呼びかける声があった。

振り返ると、障子が開け放たれていて、見慣れた影が立っていた。
逆光で、その表情まではわからない。
「血の臭いがすると思ったら、おまえか」
雅之助はあらためて、自分が僅かながら返り血をあびているのに気がついた。
しかし、その血はとうに乾いて黒い染みをつくっているだけで、
雅之助自身には臭いなど感じられなかった。
「じき、夜が明ける。そのなりでは不都合だろう」
部屋の主、野村雄三はそう云って手招きする。
雅之助はその影にむかって一歩を踏み出した。
夜明け前の冷えた空気が、走り続けてきた体をつつむ。
満天の夏の星々が、冴えた上空でまたたいていた。

雅之助はふと、野村かもしれない男を、先刻ためらわずに斬りおろした自分を思った。
いや、もちろん、自分は知っていたのだ。
あれが野村でないことを。
頭ではなく、感覚で知っていたのだ。
そしてまた思う。
この永い夜は
ここに還るためにあったのかもしれない、と。

―了―
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