『夜香』ちゃまる

 風呂から上がって部屋に戻ると、夜着姿の仙蔵と小平太が何やら談笑していた。
 伊作は改めて室内を見渡す。疲れ切って間違えたわけではなく、どうやら自分の部屋らしい。
「お疲れ。随分と遅かったな」
「やけに遠いところにまで行ってきたそうじゃないか」
 明るく出迎える二人に、伊作は溜め息をつきながら腰を下ろした。
 一年は組との校外学習でとんだ目にあい、今日はこのまま眠ってしまいたかったのに、そんな自分を労いに来たのか、冷やかしに来たのか、二人はずっとこの部屋で待っていたらしい。
 すでに夜も遅い。果たしてこれを素直に友情だと喜んでいいものか。
「二人はどうだったんだ? 仙蔵は饅頭売りだっけ?」
「ああ、全部売り切ってきたぞ」
 さも当然と涼しい顔で言い切る仙蔵に、伊作は肩を落とした。
「そうじゃなくて……」
「あの一年は組だから警戒はしてたが、結構無難なヤツらをだったし」
「こっちなんて一緒に組んだのが炭屋の息子だったから、奉公人に間違えられてさ、あ、勿論薪は売り切ってきたぞ」
 やけに楽しそうな小平太の笑顔が、この時ばかりは恨めしい。
 深く溜め息をつく伊作に、仙蔵と小平太が顔を見合わせた。
「長次も疲れ切ってたけど、お前も相当だよなあ」
 労うというより、ただ感心しているだけの小平太の言葉に、伊作は顔を上げた。
「ああ、だからあいつ、風呂で寝てたのか」
「風呂って、長次、風呂場にいたのか?」
「ん? ああ」
 無防備に湯の中でまどろんでいる長次など滅多に見られるものではなく、一応声をかけて伊作は先に上がったのだが。
 仙蔵が驚きの仕草に眉を上げる。
「しかし長次は……」
「私と一緒に風呂から出たんだが……、また入り直したんだな」
「……わかるような気がする」
 同情するように吐息をつく仙蔵と、やけに深く頷く小平太。
「……何かあったのか?」
 自分以上の不幸な犠牲者はいないと確信していただけに、伊作は身を乗り出す。
 そう、あったんだよ、と前置きして、小平太は自分の首筋を指差した。
「長次のやつ、ここんとこを、ナメクジに這われたらしい」
 しばし、伊作は小平太の言葉が理解できなかった。
「――なめくじ?」
 なぜそんな物体が出てくる。沼地で蛭、というなら話はわかるが、今回の実習コースに沼地などない。
 小平太はやけに明るく、
「そう、ナメクジ。見てみたかったよなあ、あの長次の顔が真っ青になる瞬間」
「学園に戻ってきたときも、結構青い顔してたじゃないか」
「そうかあ? いつもの仏頂面に見えたぞ」
「そう言ってどかどか相手の懐に踏みこんで行くところがお前の強みだよな」
「仙蔵に誉めてもらうと、照れるなあ」
「誉めてないっ」
 きっぱりと否定する仙蔵に、わかってる、というように小平太がひらひらと手を振る。一見無防備で無害な笑顔に、がっくりと仙蔵が肩を落とした。こうなると小平太に何を言っても無駄なのは、長い付き合いでよくわかっている。
 あえて小平太を無視して、仙蔵は伊作に向き直った。
「どうだったんだ? その山のような擦り傷切り傷で、よっぽど苦労したことだけはわかるが」
「……凄い苦労だ」
 仙蔵の言葉を訂正しておいて、伊作は今日一日の実習内容を二人に語り始めた。
 想像以上の苦労ぶりに、仙蔵が眼を丸くし、小平太が膝を打って笑い転げる。
「よりによって、あの三人か?」
「伊作、お前って最高ー!」
「……小平太」
 目尻に涙さえ浮かべ、笑いすぎて腹を押さえる小平太に、握り締めた伊作の拳が震える。彼の神経が音をたてて切れる前に、仙蔵が小気味良い音をたてて、小平太の頭をはたいた。
 まだおさまり切らない笑いを喉の奥で殺しながら、小平太は楽しそうに、
「伊作、お前さ、案外ここの教師に向いてるかも」
 その発言に隣で仙蔵が吹き出した。
 伊作の表情が、微妙に歪む。
「――なん、だ、って?」
「その面倒見の良さといい、途中で放り投げない責任感といい、教師向きだよ。就職が上手いこといかなかったら、学園長に掛け合って見ればどうだ?」
 ゆっくりと、伊作が俯く。その肩が小さく震え、低い呟きが漏れる。
「――僕、は……」
「ん?」
「いくら高みを目指してるといっても、誰にも読めない文字が読めて、誰にも解けない暗号が解けるような、そんな高みだけは御免だ!」
 それは忍術学園教師の中でも低学年担当の特定の教師における特技ではないかと言い掛けて、小平太はやめた。
 これ以上伊作を怒らせたら、本気で殴られる。
 伊作の勢いに身を逸らせる小平太とは逆に、仙蔵はクスクス笑いながら取り出した木屑らしき物を傍の灯にくべた。
 やがて微かな匂いが立ち昇る。
「……仙蔵?」
「疲労回復の効能が少しはある。ま、気休め程度にしかならないだろうが」
「ありがとう」
 微かな香木の匂いに、ようやく伊作の表情が緩んだ。
 不意に、何を思いついたか小平太が眼を輝かせて仙蔵の名を呼ぶ。
「仙蔵、それ、長次の部屋にも焚いてやろうぜ」
「あ、ああ」
 やけに気の利いたまともなことを言い出す小平太に、仙蔵が訝しげに首を傾げた。続く小平太の言葉に、わかっていながら頭痛を覚える。
「ほら、お前がこの前調合に失敗したとか言ってた、あのすっごい匂いのお香」
「……小平太、お前な」
「効き目はあるんだろ? ただ翌日になっても匂いが取れないだけで。……確か、あんこを煮詰めた匂い」
「花が腐ったような匂いだ!」
「甘露煮の鍋を焦がした匂いじゃなかったか?」
 口を挟んだ伊作を、仙蔵と小平太はまじまじと見つめた。
 思わず身構える伊作に、仙蔵が吐息を漏らし、小平太が笑い出す。
「やっぱ、伊作って最高ー!」
「どういう意味だそれはっ、おい小平太」
「遅くまで邪魔したな。ほら仙蔵、長次の部屋へ行こう」
「小平太……本気なのか?」
「親切って気持ちがいいぞ」
「お前のはやることなすこと、どれもありがた迷惑だ」
 それでも小平太に促され仙蔵は立ち上がる。
 おやすみの挨拶を残し部屋を出て行った二人に、伊作は深い深い溜め息をついた。
 どうにも、労われたとは思えないのだが、
 それでも少しは気分が晴れている自分に、苦笑が漏れる。
 微かに立ち昇る匂いが二人の残り香のように、部屋を満たしていた。
―終― 
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