『秋の夜』いつき

「っ!」
 息を呑んで、きり丸は跳ね起きた。
 眼前に広がっていた筈の光景が暗転していることに戸惑い、慌てて周囲を見回す。
 握りしめているのは、柔らかい上布団。そうして、目に映るのは忍術学園忍たま長屋の自分たちの部屋だ。
「……夢、かよ……」
 ようやく事態を認識したきり丸は、静かに息を吐いた。
 気がつけば、体中汗でびっしょり濡れている。
 流れ落ちてくる額の汗を手の甲で拭いながら、ようやく自分の体の震えに気づいた。
 心臓もまだばくばくしてら。
 笑い飛ばすように呟こうとして、けれどもそれは声にならなかった。
 大丈夫。あれは夢だ。オレは助かったんだから、もう何も怖くない。
 自分を落ち着けようと何度も心の中で繰り返してみるが、なかなか上手くいかない。あの頃の夢を見るなんて、ここしばらくなかっただけにショックが大きい。
 気にする性質じゃないんだけどな。
 なんか夢に見てしまうような出来事が昨日あったっけ?
 自問してみるが思い当たることはない。いつものように乱太郎やしんべヱと授業を受け、放課後は学園長のおつかいに行っただけだ。特に昔を思い出すようなこともなかった。第一、そんなことがあったとしても、今までは夢に見たりなんかしなかった。学園でうなされたのは初めてだ。
「ちぇ、季節のせいかよ」
 呟いた声は、まだ少し震えている。
 きり丸からすべてを奪った戦は、ちょうど猛々しい夏から実りの秋へと季節が移る今の時期に起こった。
 まだ少し震える体を抱え込むように布団の上に座り込むと、すぐ横で規則正しい寝息をたてる乱太郎としんべヱを見やる。
 二人とも気持ちよさそうに眠っている。
 まだ日中の暑さは厳しかったが、朝晩は涼しい風が吹き、連日続いた熱帯夜から解放されたお陰で、ここ数日はみんな元気がいい。もちろん、きり丸とて例外ではなかったのだが……。
 室内には、二人の寝息と庭からの虫の声だけが静かに響き渡る。
 まるで一人だけ取り残された感覚に、きり丸はいたたまれなくなった。
 なんか、イヤだな。
 このまま無理に眠ろうとしても、夢の続きを見そうで何やら怖い。かといって一人で起きているのも落ち着かない。
 しばらく考え込んでいたきり丸は、意を決して立ち上がると、そろそろと部屋を後にした。
 皓々と輝く月に照らし出された廊下や庭が、何やら普段と違う場所に思えて眉をひそめる。緩やかな風に草木が揺れ動く姿に更に寂寥感が募って、慌てて歩を進めた。
 誰でもいい。とにかく誰かに会いたい。今は一人でいたくない。
 そんな思いに後押しされる形で自然と急ぎ足になったきり丸は、教員寮にちらほら灯る明かりに足を止めた。
 真夜中だと思っていた。
 だがどうやら寝入りばなにイヤな夢を見てしまったようだ。
 見上げる月は、確かに中空よりやや東にある。
 なんだ。
 ほっと胸をなで下ろすと、注意深く教員寮の戸口を数えてゆく。目的の部屋には、まだ明かりが灯っていた。
 それを確認すると、先ほどとは打って変わった落ち着いた歩調で歩き出した。
 目指したのは、担任の土井先生の部屋である。
 戦で家と家族を失ったきり丸は、学園が休みの間は土井先生の家で厄介になっている。そのせいか同じ担任の山田先生よりも、土井先生の方がわがままを言いやすい。
 土井先生の部屋の一歩手前、山田先生の部屋の前まで来ると、きり丸は歩みを止めた。
 ……どうしようかな。
 ちょっと困ってしまう。
 家にいるときも、土井先生にこんな甘え方はしたことがない。それを、怖い夢を見たからといってわざわざ会いに行くのが、なんだか急に恥ずかしく思えた。
 立ち止まり、頭をかいて考え込む。
 幸い、山田先生はもう寝てしまっているようで部屋は暗い。ここにいる限りは土井先生にも気づかれはしないだろう。引き返すなら、今のうちだ。ぐずぐずしていると、見回りの先生に見つかってしまわないとも限らない。
 乱太郎たちでも叩き起こそうかな。
 ちらりと頭を過ぎった考えに、けれどもすぐに頭を振る。そんなことは出来ない。
 やっぱり、起きてる土井先生のところに転がりこむか。
 そう思いながらも、足はその場から動くことはない。
 葉擦れの音。虫の声。風が汗で濡れた体を冷やしていく。
 ……一人でいたくない。
 静寂が、怖い。
 でも……。
 交錯する思いに、しばらくその場で考え込んでいたきり丸は、くるりと踵を返した。
 やっぱやめよう。
 そう、決めたとき。
「どうした、きり丸」
 土井先生の、声がした。
「土井、せんせぇ……」
 びくりと体を震わせて振り返ると、夜着に身を包んだ土井先生が障子から顔を覗かせてこちらを見ている。
 どうやら気づかれてしまったらしい。
「まだ起きていたのか。どうした?何か用事があったんだろ?」
 いつもの口調で問い返されて、口ごもってしまう。
 しまった。言い訳を何も考えていない。普段のような冗談さえひとつも浮かんでこない。
「いや、別に……何でもないです」
 それだけを口に乗せると、慌てて戻ろうとして、きり丸は思い止まった。立ち去るにしても、もう一言二言話したかった。頭をかいて土井先生を見上げる。
「先生は寝ないんですか?」
 深く問われる前にこちらから尋ねてみる。先生は特に気にした様子もなく、ああ、と軽く頷くと廊下に出てきた。
「今日の試験の採点をやっていたところなんだ。明日の休校日は他に片づけたいことがあったんでね」
 にこやかに答えながら近づいてくる土井先生から目を逸らし、庭へ泳がせる。
 虫の声が何だか耳障りだ。
「……先生も大変っスね。……あ、じゃあ……オレ、もう……」
 心とは裏腹な言葉を呟き、土井先生と目をあわさないように踵を返したきり丸の背に、先生の言葉が投げかけられた。
「きり丸」
 どきりとして立ち止まる。
 凍り付いたようにその場に立ちつくすきり丸に、土井先生は変わらぬ口調で続けた。
「今一段落ついて、ちょうど休憩しようかと思っていたところなんだ。お茶を入れるから付き合わないか?」
「え?」
 恐る恐る振り返ると、いつもの穏やかな土井先生の表情とぶつかった。
 どうする?と目で問われて、きり丸はうろたえた。見透かされてしまったんだろうか。
 緊張に、手の平がじっとりと汗ばむのを感じながら、先生の真意を探るように見返すが、土井先生はにこやかにきり丸の返事を待っている。
「じゃあ……」
 静かに息を吐きながら、絞り出すように呟いた。
「もらおっかな」
 その返事によしよし、と頷き返すと、室内で待つようにきり丸に言い置き、土井先生は食堂へ向かった。その後ろ姿を見送って、きり丸はその場にへなへなとへたり込んだ。
「あー……焦った」
 なんで緊張するかなー、これぐらいで。
 我ながら可笑しくなりながら、それでも当初の目的が果たされたことに安堵する。土井先生の部屋に入ろうかと室内に目をやった時、一際大きく鳴く虫の声に振り返った。
 静寂を破る虫の声。そうして風にそよぐ葉擦れの音。
 まるで夢の続きを思わせる状況。
 足下からひたひたと、あの時の恐怖が這い上がってくるようで、きり丸は動けなくなった。
 それを、頭をひと振りすることで無理矢理追い払うと、へたり込んだまま廊下の端まで這ってゆき、廊下のへりから足を出して座り込んだ。
 あの時もこの音しかしなかったんだっけ。
 昼間とは打って変わった静寂。
 耳を押さえても飛び込んでくる音の数々。目の前で繰り広げられる光景よりも、音の洪水に身が竦んだ日中。
 だが、その晩の静寂はなお一層、恐ろしかった。
「……」
 静かな足音に顔を上げる。
 食堂からお湯を持って帰ってきた土井先生は、部屋の前の廊下のへりに座り込んでいるきり丸を不思議そうに見やった。
「なんだ、中に入らなかったのか」
「はぁ」
 頭をかきながら、曖昧に答える。
 土井先生は何も言わずに部屋に入り、ごそごそとお茶を入れだした。
 破られた静寂に心地よさを感じながらぼんやりと庭を見つめていると、そっとお湯呑みが差し出された。見上げると、土井先生がすぐ横にいる。
「ほら。熱いから気をつけて」
「あ、ども」
 両手で包み込むように湯呑みを受け取り、そっと口をつける。熱い。
 汗で冷えた体が少しずつ温まっていくようだ。
 土井先生は自分の湯呑みを手に、そのままきり丸の横に腰を下ろした。
 何か問いただされるのではないかと内心ヒヤヒヤしながら、しばらくは無言のまま庭を凝視し続ける。そっと横を窺うと、土井先生は何を話すでもなくきり丸と同じ格好で座り込んだまま、静かにお茶をすすっている。その様子に安堵した時、すぐ近くにいるのか、また一際おおきな虫の声がした。
「鈴虫か……もう夏も終わりだなぁ」
 呟かれた言葉に応える代わりにお茶をすする。虫の声は、今は恐怖と不安を呼び覚まされそうで聞きたくない。
 あの悪夢の一日で、あまりにも現実離れしたために一番恐ろしかった音。
「音って、不思議っスよね」
 まざまざと思い出される感覚に、そんな言葉を思わず口からこぼしてしまう。
「い、いや、ほら……音で怖いと思ったり、安心したり……するじゃないスか」
 その言葉からきり丸の感じていることなど、わかろう筈もないのに、きり丸は慌てて弁解するようにそう付け加えた。その慌てぶりに土井先生の方が首を傾げる。
「まあ……音というのは人の精神に影響を与えるのに有効だからな」
「影響……ですか?」
 問い返したきり丸に、そう、と先生は頷き返す。
「例えば、自分に関係なくても怒鳴られたら体が竦むだろ?」
「そうですね」
 確かに、怒鳴られたら身が竦む。それは毎日のように経験しているからよくわかる。
「人を驚かす時には、体を叩くと同時に大声もかける。そうするとより相手は驚く」
「なるほど」
 そういえばそうだ。たとえ叩かれなくても、「わっ!」という声だけで飛び上がる。逆に、叩かれただけではそう驚かないもんだ。痛さに顔をしかめるだけで。
「視覚や触覚よりも聴覚−−−つまり音から与えられる影響は計り知れない。驚かしたり、恐怖を与えたり、鼓舞したりといろいろね」
 土井先生はきり丸の顔を覗き込むように、一言一言丁寧に説明を続ける。きり丸たちも授業外での説明は、割と熱心な態度で聞く。今も、先生の言葉に一々相づちをうちながら、説明に耳を傾ける。
「大きい音はそれだけでもう凶器になる。耳から伝わる振動が思考力を奪い、狂わせていく」
「……」
「集団を操るのにも有効だ。合戦場なんかでの鬨の声なんかもその一種と言える」
 なにやら怖い方向に話が進んできた。
 思わず顔をしかめたきり丸に、土井先生は明るく笑った。
「まあ、怖い話ばかりじゃなく、他にも、夏の風鈴なんかもそうなるな。あの音や水の流れる音なんかで涼しさを感じたりするだろ?」
「そういえば、確かに……」
「これは音から連想されるからなんだ。風鈴が鳴る、風が吹く。水が流れる、水は冷たい、といった風にね。だから、鈴虫は秋、かな」
 そう言えばそこから話が始まったんだっけ。自分から振っておきながら、話の展開に振り回されていたようだ。
 秋の虫の声……に、オレはあの時の恐怖を連想したんだ。
 納得して、頭をかく。
 いつもはなんとも思わないんだけどなー。やっぱ、あんな夢を見たせいか。
 小さなため息は、冷たさを帯びた風にさらわれる。
 再び、虫の声と葉擦れの音だけが場を静かに支配した。
 手の中で徐々に熱を失ってゆく湯呑みを覗き込むふりをしながら、こそりと隣の土井先生を盗み見る。
 土井先生は相変わらず穏やかな表情のまま、湯呑みを手に庭を見つめている。虫の声に聞き入っているのだろうか。
 人と話すという当初の目的は達成されてはいたが、まだ気分は晴れない。けれどもそろそろ先生から寝るように言われそうで、それが怖くてきり丸は必死で話題を探した。
 まだ、一人になりたくない。今部屋に戻ったって眠れやしない。
 何かないか……必死で考えるきり丸の目に、土井先生の口が開きかけたのが映った。
「そ、そういや山田先生はもうお休みなんスね」
 声が発せられるよりも先に、思いついたままを口に乗せる。この際脈絡云々はどうでもいい。
「ああ、山田先生ね。お休みなんじゃない。いらっしゃらないんだ」
「へ?」
 予想に反して楽しげな口調に、きり丸はきょとんと土井先生を見上げた。
「いない?って、こんな夜更けにどこへ……」
 明日は確かに休校日だけれど、どこへ行ったというのだろう。まさか家に帰ったわけではないだろうし……
「どこへ行かれたか当ててごらん」
「ええ〜?そんなこと言われても……」
 何やら随分楽しそうな土井先生の笑顔に、場の雰囲気ががらりと変わってしまったようで、その落差に思考力が停止してしまう。当ててみろ、というからにはきり丸の知っている所なんだろうが……
「見事当てたら、明日の休校日にアルバイト手伝ってやってもいいぞ?」
「本当っスか!? 絶対ですよ!?」
 その言葉に、弾かれたようにきり丸は土井先生の肩口を掴んで詰め寄った。
「え〜と、明日は休校日で……ほんでもってこんな夜更けに出かけて……」
 何もかもをも忘れて、きり丸は考え始めた。

 途端に先ほどまでの少し沈んだ表情が吹っ飛んでいったことに、半助は苦笑する。
 こんなに簡単に切り替えられるのは、一種の特技と言えなくもない。
 今日行った抜き打ち試験は、相も変わらずの寂しい点数のオンパレードで、半助は何やらもの悲しくなっていた。
 抜き打ちだったからなのか、それとも自分の教え方が悪いのか……採点時にいつも感じる虚しさが胸に去来し、深いため息ばかりがこぼれ落ちる。燭台の火がゆらゆら揺れる室内に静かな虫の声も相まって、その虚しさは一層、強まっていた。
 そんな時、廊下を渡る足音に気づいた。
 聞き知った足音に、また何かやらかしたか、と額を押さえたものの、足音は一歩手前で立ち止まったまま動かなくなった。
 おや?と首を傾げてしばらく様子を窺っていると、何やら逡巡する気配がして半助は眉をひそめた。
 これはひょっとして……。
 思い当たる事態に慌てて立ち上がる。予想通りなら、きり丸は部屋まで入って来ない筈だ。
 案の定、覗いてみるときり丸は引き返そうと踵を返したところだった。
 振り返ったきり丸の複雑な表情に、わざと普段通りの口調で話しかけた。
 実は、きり丸のこんな表情を見るのは初めてではない。
 学園でこそ表したことはないが、休みの間、二度ばかりお目にかかったことがある。
 一度目は、朝。うなされて目覚めた後。
 慌てて半助の様子を窺う姿に、気づかないふりをした。半助と向き合ってもどこか落ち着きがなく、沈んだ表情をしていた。そうして細々と家の用事を手伝い、アルバイトにも出かけたがらなかった。
 二度目は、夜。今日と同じように、宵の口に目覚めた後。
 まだ起きていた半助の側に座り込み、なんやかやと珍しく話したがり、なかなか布団に戻らなかった。
 怖い夢は、現実から過去へときり丸を誘い、普段なら一人でも平気なきり丸を人恋しくさせるのだろう。
 それを悟られるのが嫌なのか、言葉になされたことはない。だから、半助も常に気づかないふりをする。その方がきり丸にとって居心地がいいのであれば。
 真剣に考え込む様子に、もう先ほどまでの陰は微塵もない。これなら大丈夫だろう。
 微笑みながら見つめていると、急にきり丸が顔を上げた。
「先生っ!ヒント!ヒント下さいっ!!」
 アルバイト、の単語にすっかり目の色が変わった相変わらずの現金ぶりに安堵し、さぁて、と思案する。
「そうだな……第一ヒント、お前たちのためになること」
「オレたちのためぇ?」
 半助のヒントにきり丸はますます考え込む。
 抽象的すぎたかな? 更に頭を抱え込んだきり丸に苦笑しつつ思う。
「第二ヒント、教師としての仕事」
「う〜ん……要するに仕事で外出してるのに間違いはないから……」
「明後日の授業のため、だとして?」
 答えを導きだせるように、そう助言してやる。
「明後日? 明後日は別に特別なことはない筈……あーっ!!まさかっ!?」
 半助の右袖を掴んでそう叫ぶきり丸の口を、慌てて押さえつける。口元に指を立てて「しーっ!!」と小声でたしなめると、きり丸も慌てて頷いた。それを見てそろそろと手を離す。
 宵の口とはいえ、もう休んでいる教師もいるのだ。忍たまたちだって眠っている。
 きり丸は嫌そうに顔をしかめると、半助の顔をまじまじと見た。
「まさか……また学園長の思いつきで……」
「思いつきで?」
 笑いながら先を促す。
 すぐさま学園長が出てくるあたり、は組はよくよく思いつきの犠牲にあっていると言える。
「野外実習が入って、その準備に出かけているんじゃあ……」
 恐る恐る続けたきり丸に、半助はにやりと笑ってみせた。
「正解、だ」
「でーっ!!またですかあっ?……学園長も懲りないよなあっ」
 きり丸は拍子抜けしたようにぺたん、と廊下に座り込むと、頭の後ろで手を組んで半助の右肩に背を預ける。
「学園長の思いつきがオレたちのためになってるとは思えないんスけどねえっ」
 教師陣には迷惑になることの方が多いと半助も思う。お陰で授業計画は狂いっぱなしだ。だが、学園長からすれば、すべて生徒のためを思っての訓練なのだ。……たぶん。いや、そうであって欲しい、本当は。
「まあそう言うな。そんなわけで一年生の実技担当教師陣はお出かけ中だ」
 ふてくされているきり丸に笑いながらそう言って、廊下に置かれたきり丸の湯呑みを自らの左側に移動させる。
 当日はともかく、準備の貧乏くじはなんとか外れたお陰で、こうやって仕事の後片づけが出来る。たまにはいいだろう。どうせいつもこき使われる身だ。明日も久々にゆっくりと過ごすつもりだったのだが……
「あっ、でも当てたから、明日のアルバイト手伝ってくれるんでスよねっ?」
 転んでもなんとやら。きり丸はきらきらと瞳を輝かせ、腕にしがみつきながら聞いてくる。
「約束だからな」
 そのいつもの輝きに早まった感は否めないが、苦笑してそう答えてやると、きり丸は満足げに笑ってすぐまた背を向けた。右肩に寄りかかる重みは、きり丸なりの精一杯の甘えの表現だ。
「それは嬉しいけど、当てた内容はたまんないよなー。どーせろくでもない思いつきに決まってんだから」
 ちぇー、とぼやき続けるきり丸に半助はくすくすと笑い続ける。
 落ち込んだり喜んだりぼやいたり、瞬く間に変化する表情が楽しくもある。それはきり丸だけではなく、は組の面々全員に言えることだ。
「今日の試験の追試をやるよりはいいだろう?」
 意地悪くそう言ってやると、詰まるようにきり丸は黙り込んだ。何やら口の中でごちょごちょ言っているのが聞こえるが、はっきりと言葉になることはなかった。 その様子に微笑んで、それから庭へ目を泳がせる。
 庭には、自室からの明かりによって、廊下に座る二人の長い影が落ちている。
 月明かりに浮かび上がる草木の影が、秋の薫りを含んだ風にそよぎ、さやさやと囁くように音を奏でる。それを彩るように鈴虫の声が重なり合う。
 半助は湯呑みを包み込んだまま、ぼんやりとそれらに身を任せた。
 昼間の喧噪が嘘のように穏やかな空間。室内よりも違った意味でそれを感じることが出来て、試験の採点で少々憂鬱になっていた気持ちが和らいでゆくのを感じた。
 確かに、場合によってはもの悲しさを助長する光景かもしれない。だからきり丸は余計にいたたまれなくなったのだろう。かういう半助も、先ほどまでは侘びしい思いでこれらの音を聞いていたのだから。
 ……一番の原因は試験の点数だけれども。
 風が、もう冷たさを帯びている。
 肌に触れる緩やかな風に、静かに目を閉じた。
 こんな、季節の終わりを感じる夜は、一人より二人の方がいい。
「……」
 右肩にかかる重みが、先ほどよりも増したことに気づいて横を見やる。いつの間にかすっかり静かになったきり丸の体が、心なし半助の方に傾いでいた。
 どうやら眠ったようだ。
 静かな寝息をたてて眠る教え子の姿に微笑むと、起こしてしまわないようにそっと抱き上げた。
「……ん……」
 普段通りの穏やかな寝顔。
 これなら、もう怖い夢も見ないだろう。 
 抱き上げて、きり丸たちの部屋へ向かう。
 素直でたくましいくせに、変なところで意地っ張りなきり丸を、日常の場所へ帰してやるために。
 明日は忙しくなるかもしれないな。
 ひとりごちて苦笑する。
 手伝う、と言ってしまったのだから、容赦なくこき使ってくれるに違いない。こういう時は『程度』というものを失念してくれるのだ。
 だとしたら明日にやろうと思っていたことを片付けておかねばならない。
 途端に忙しくなった秋の夜に、半助は一人微笑んだ。
 庭では鈴虫が鳴いている。
 静かな秋の夜―――。 

―終― 
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