ぽつん、と軒先が鳴った。
だがもう清美は顔を上げなかった。
この生活が始まる前、清美は「待つのはつらくはない」と答えた。いつかは帰ってくる者を待つのは、実際楽しみでもあった。
始めはその音を聞く度、直斗が帰ってきたのかと玄関まで行っていたのだが、もうそれもしたくはない。何度も期待を裏切られ、少々疲れてしまったようだ。
直斗が帰ると言った時間には土砂降りだった雨も、もうすっかり上がっている。今はただ、木や電線にたまった雨粒が屋根に滴り落ちるだけ。
パラパラパラ…
清美は寝返りを打った。あれももう聞き慣れた。雨をまとった木から、鳥が飛び立つ音。
いつ、帰ってくるのだろう? いや、本当にここに戻ってくるのだろうか?
思いを巡らせれば、不安ばかりが沸き起こる。
直斗は帰って来ない。電話すら、かかってこない。
食卓は、もう冷め切っていた。ラップをかけて温める準備はしてはあるが、一度冷めた物は清美は嫌いだった。一旦失ったものは、何があろうと完全に元に戻るはずもない。
機嫌を損ねたのだろうか? そう言えば一昨日、ケンカをした。些細なことだったとは思うが、もうそれすらも忘れてしまった。第一、もう直斗も気にしていないと言っていたではないか。
体調でも崩したのだろうか? 巷では風邪が流行っているから清美も注意するように、と言われたのを思い出す。直斗は根を詰めるタイプなので、彼こそ気を付けないとと咎めると、照れたように頭をかいていた。
いや、それなら電話の一本でも寄越すだろう。直斗はそういった心配りを欠かさない人間だ。では、電話をかけられない状況にあったら…? まさか――事故にでも遭ったとか?
ぽつつん…名残惜しそうに、軒下に雫が落ちた。
直斗に電話しようか。
でも、未だ仕事をしていたら悪い。気が散るから、と私用電話を嫌っていることは、以前から知っている。
それに、もし…万が一、病院だったら。医療器具に影響を与えるから、無闇に携帯電話を鳴らす訳にもいかない。それに、病院に運ばれたなら看護婦から電話があるだろう。
…浮気? 張り詰めていたものが崩れ落ちる。まさか。こんなに早く?
どうして? 何故!?
清美の頬を、熱く涙が伝った。
こんな考え方はいけない――そう思うが、止められない。早く、一秒でも早く、直斗が帰ってくるように祈った。それで嫌な考え方を忘れてしまうように、と。
あぁ、神様。どうか――!
カタン…。
固い音に、はっとして清美は顔を上げた。
冷めてしまった皿の横に、湯気を立ててカップが置かれていた。そして、その隣には――。
「おはよう。寝起きはうすぅい紅茶がいいんだよね?」
にっこりと笑う直斗が座っていた。
「お帰り…なさい……」
遅くなった理由を問えずにいると、直斗はひとつ清美の頭をなぜた。
「参ったよ、ようやく帰れると思ったら、鞄をスられてね。警察に電話したんだけど、あんな深夜じゃスリ程度じゃなかなかむつかしくってね」
止まっていた涙が、再び溢れ出た。
直斗は慌てて清美を抱き締める。
「ごめん。連絡しようとも思ったんだけど、寝てたら悪いと思って――」
口を開くと泣き声にしかなりそうにないので、清美は黙って首を振った。直斗が無事ならそれでいい。
「提出期限には間に合ったし、明日は休めるよ。一緒に食事でも行こうか?」
「あなたが…いてくれるだけでいい」
ようやく涙が止まった清美の言葉に、直斗は笑った。
「じゃ、美術館に行こうか。こないだ、ずっと広告を見てただろう?」
直斗が一番忙しい時期に開催されている美術展だから、と半ば諦めかけていただけに、それは意外で嬉しかった。
「…知って…たの?」
「ああ。一人じゃ行きそうにないなとも思ってた」
ずっと前から、清美は直斗には勝てないと思っていた。そして、今も。
「直斗――」
涙を拭い、清美は逞しいその腕に寄り掛かるようにしてもたれかかった。
「大好き」
微笑みが、清美に返された。
やはり、待つのは楽しいことなのかも知れない。
―了―
|