三分間懺悔
 
 
謝ることとは自己満足である。
 
 
例えば兄妹や親子や恋人や親しい友達の間で喧嘩をしたとき、たいていの場合我々は数日としない内になにもなくても仲直りしてしまっている。
 
こう言うとき、我々にとって喧嘩の後の仲直りを行うための代表的なことばである「ごめんね」は一体何を意味しているのであろうか。
 
相手が「ごめんね」を言ってきたとき、それが親しい間柄であればあるほど私は「こちらこそごめんな」と言いたい衝動を抑えきれず、言ってしまう。
そうしてお互いが謝り過ぎであるという否定を繰り返すことがほとんどの場合での仲直りの最初の一歩である。
 
「ごめんね」という言葉が自己の満足の役割を果たしているとは思えないか。
 
お互いがはっきりとした謝罪を伴う講和のステップを踏まなかった後、ぎくしゃくとした関係に陥っていると感じる事態が私の場合はあるが、それは自分が謝らなかったことで相手が怒っているのではないかと不安な気持ちが存在するからだと思う。
実際は謝らなくともしっかりと仲直りできて、長い間再び喧嘩もせずに暮らせているという事は大した対立点など存在していないことの証拠なのに、むしろそのまま時が流れれば流れるほど私はぎくしゃくした関係に耐えかねて、自然と関係を腐らせて衝突することなく消していこうとする。
 
犬上すくね氏の短編集に収録されていた「twinkle」という話では、主人公(男)の双子の妹が兄妹喧嘩をして、そのまま妹が交通事故で死んでしまうと言う話であった。
謝る機会を永遠に失い、その上でかけがえのなかった妹の存在を嘆いているとそこに、幽霊となった妹が現れ、成仏するまでの数日間彼しか見ることの出来ない存在としていろいろと騒動を起こしつつ、最後に成仏して消えてしまう。
双子の兄である主人公にしか見えないため、その存在は彼にしかわからない。だから彼は妹を最初は拒もうとするも、徐々に素直に打ち解けていき、生前は語り合えなかったことまで語り合う。
そして最後に、妹は突然「いままでひどいこと言ってごめんね」と言い残して消えていく。
 
最後の兄妹喧嘩について自分が謝る機会を永遠に失ったことを、彼女が死んだとき以上に痛感した主人公は、妹の「ごめんね」を反芻しながら彼女の死を乗り越えていくという、ちょっと説明できないところを抜いているのでわかりにくい話になっているが、ひとえに私の文章力が足りないせいである。
 
ひどい喧嘩をしても結局親しい二人は仲直りしてしまう。いや、むしろそう言う存在だからこそ「ごめんね」の一言を出す機会を失ってしまう。
この手の後悔は、言い残したまま相手と別れたときなどに一番重く心に突き刺さる槍となる。
 
だから、私は仲直りするときは取り合えず「ゴメンね」と言おうと思う。
キミが怒っていようがいまいがそんなことは本気でどうでも良いことだ。この「ゴメンね」は、オレの精神安定のための言葉なんだ。
だから、黙って受けてくれ。
 
ヨーコ、フミ、マイマイ、ダイスケ、マナブ、エミリ、α、ゴメンね。
 
 
 
2001年3月5日未明
戻る