相楽総三・本名小島四郎左衛門将満は長身・色白の
青年であったという。しかしながら、その内に秘めた強靭な意志は
やがて自らの悲劇的な運命さえも決定付けてしまうほどであった。
というのも、彼は政府や藩といった権力に対してもすこしも
媚びることなく、民衆の立場を貫きとおしたためである。
歴史において「もし」という過程は何も意味を成さないということは
分かっているつもりではあるが、彼がもし計算高く、自分に有利に
立ち振る舞っていたらどうなっていただろうか?やはり草奔の志士は
草奔の志士として切り捨てられていたのだろうか?
もちろん、彼らが現在に生きる我々の心をひきつけるのは、
そういった利己的な計算のない純粋さのためであろうが。
慶応四年一月、近江の松尾山金剛輪寺において赤報隊が旗揚げされた。
赤報隊は官軍の東征の先鋒隊であり、その名の由来は相楽隊長が
「赤心をもって国恩に報いる」べしという、彼の理想そのものである。
赤報隊士の出身地はかなりばらつきがあり、北は現在の秋田県
南は現在の鹿児島と、隊士各自に地理的なつながりはなかった。
これらの隊士を短期間のうちに編成し、疾風迅雷のごとく
碓氷峠まで進軍したことは、隊長の統率力の高さを物語っている。
逆にその能力は薩摩にとって脅威でもあったのだ。
つづく
参考資料:歴史探訪第12集 角川書店