19990505初出
20010318改訂








black of prey




凍てつく程の冷房が効いた薄暗い病室で、立ち尽くしたように微動だにしない影。身じろぎもせず『それ』を凝視していた事は、容易に察する事ができた。もう決して己の意志で起ち上がる事はない魄と、一体どんな思いで向かい合っているのだろうか。
茫然とした後ろ姿に、ジョセフは自分自身が切り裂かれるような痛みに襲われた。掛ける言葉も見つからず、無言のまま後ろ手にドアを押さえ、ポルナレフに入室を促す。伏し目勝ちに後に続いたポルナレフは、棒立ちの承太郎に気付いた途端、唇が切れる程歯を食いしばった。こんな思いは2度としないと確かに誓ったのに。またしても同じ過ちを繰り返し、そして自分は友に救われ、今ここに立っている。
『先に一人で行かせたのは、不味かったか…?』
SW財団のスペシャリストができうる限りの煩雑な事務を代行し、それでも残った処理に思わぬ時間を取られたジョセフは、心中で舌打ちする。ポルナレフもつい先刻、ようやっと意識を取り戻したばかりであった。それでも、この躯がばらばらになるような痛みは、DIOとの闘いで受けた傷の所為ではない。
ゆらり、と、亡霊のような動きで、承太郎がベットの上に横たわる『それ』に近付く。ジョセフの動きを制するように右腕を出すと、そのまま『それ』の手首を掴み指の腹を押し当てた。つい先刻、たった半日前、再会を祝して握手を交わしたばかりのその手も、まだ僅かなぬくもりさえ残しているのに何ら表情も見出せない。胸・首筋・唇…生きてさえいれば、何らかの反応が期待できる個所総てを辿り…それ以上行き場を失った右手は、学生ズボンのポケットに捩じ込まれた。
「おい、承太郎…」
ジョセフが沈黙に堪り兼ねて声をかけたが、承太郎は呼び掛けにも反応を示さず、目線を上げようともしない。ジョセフ自身もまた承太郎のそんな態度を諌める余裕が、少しばかり不足していた。ポルナレフは奇妙に緊迫した雰囲気を前に、神妙な面持ちで事の成り行きを見守っている。
「承太郎、気持ちは判るが、花京院はもう…」
「見りゃあ解る」

花京院。『それ』のかつて呼ばれていた名がジョセフの口から出た途端、承太郎は緑の強い眸だけを動かして声の主を鋭く睨みつけた。まるでこの世界を構築している総てのものを消し去る、解呪の言霊を軽々しく発するなと言わんばかりの眼力。しかし現実は何の変化をもたらす事もなく、ほんの数秒、単語相応の短い時間がただ流れただけであった。
「俺は、至ってまともだぜ。落ち着いている…自分でも気味が悪い位にな……」
静かな口調が、返って保護者の不安を煽る。親友の死が、承太郎に与えた影響は計り知れない。

『自分は、自分はどうだった?』
ジョセフは自分自身に問い掛ける。かけがえの無い親友を、シーザーを失って、どうした?冷静さを失わぬよう、気丈に振舞おうとして…できなかった。感情を抑え切る事もできず、敵地の真っ只中で声を限りに泣き叫んで取り乱した。あのリサリサでさえ涙を禁じえなかった悲劇。そして今、同じ衝撃に見舞われている筈の我が孫は、何故こんなにも冷静を装っていられるのだろう。―――――それとも、本当に冷静でいるのだろうか。何かがヤバい、とジョセフの本能が危機を告げる。
「承太郎、何がしたかったんじゃ」
「――――――――…そんな事言う必要はねぇ」
予期した通りの、愛想の悪いぶっきらぼうな返事が戻ってくる。それでも返事があっただけましなほうか。いや、そんなささやかな満足に納得してはいけないのだ。
「いかんッ!話すんじゃ、承太郎」
得体の知れない不安が、自然とジョセフの語気を荒める。
「…イカれたか?じじい」
そのただならぬ気配にも、承太郎は理解し難いとでも言いた気に眉を顰めるだけで反応は鈍い。
「何でも良いんじゃ、とにかく話せ、言葉にしろ。自分の中に溜め込むんじゃあないッ!」

学生服の襟を掴み上げ、無理やり目線を花京院から引き剥がす。一瞬行き場を失った視線に、ジョセフは決していつも通りの承太郎ではない事を納得する。しかし、それが喜ばしい事なのかどうかの判断を下す事を、ジョセフは躊躇っていた。
「ジョースターさんッ?!」
止めに入ろうとしたポルナレフを、承太郎は無言で制す。暫くの沈黙の後、憮然とした態度は崩さないものの、諦めたように重い口を開いた。

「死んじまったものは仕方がねーぜ。……嘆いたところでこいつは戻って来はしねえ。泣いて満足するのは自分だけだ…。俺はそんな満足は必要ねえ、だから無駄な事はしねえ…」
訥々と静かに語られる言葉は、だが、冷淡とも思える表現で2人を困惑させる。
「生きている事を期待した訳じゃあない。もう死んだのだと、…自分で確認しただけの事だ」
「何を……ッ?!」
「くどいがな、俺は正気だぜ。じじいの口車に乗って、くだらねー話をしているってとこ以外はな」
総てを受け入れ、死すら覚悟の上であった事が見て取れる死顔。苦しかっただろうに、辛かっただろうに、穏やかなまでの表情と、遣る瀬無い思いに身を切られる。最後の最後まで、自分達に負担をかけまいとする花京院の配慮が痛かった。

「これから先、まだまだ得体の知れないスタンド使いが現れるだろう、予感がするぜ。やれやれだがな。そして俺達は目立ち過ぎた。いつ何処で標的にされるか知れたもんじゃあない」
「確かにな。スタンドの世界で名を挙げようとする奴は、承太郎を狙ってくるな」
「DIOを倒したんだぜ、世界最強のスタンドだ」
ポルナレフの科白に、承太郎は既に物体と化した花京院に視線を落とした。その先には胸のあたりから不自然に窪んだシーツの曲線が、本来ならばできる筈のない陰を創り出している。大きく抉られた正視に耐えない傷痕が、今だ微かに血臭を放っていた。
「――――――――俺にとって…こいつは、絶対かつ最大の弱点だ。敵は必ずそこを突いて来るだろうし、このままでは確実に命取りになる」
だからこそ、花京院が自分に向かって話し掛けてくる事はもう2度と無いのだと。花京院として自分の前に姿を現したモノは、必ず自分に対して敵意のある者なのだと…例え感情が拒絶しても、精神を超えて肉体が反応するように。躊躇う事なく、魂の無い虚像を打ち砕けるように。その為に、花京院の死をこの手で理解する必要があった。


――――――――これからを、生きて往く為に。


「す…すまねえ、承太郎ッ!オレがあの時、早まった真似をしなければ…あんな……――――ッ?!」
「――――ッ!!」
ポルナレフが痛恨の懺悔を口にした瞬間、承太郎の気が桁外れの圧力を伴って放出された。ジョセフとポルナレフは思わず後ずさり、ぶつかった拍子に蹴飛ばされた椅子ががたりと音を立てた。
DIOと対峙してなお退かなかったポルナレフを以ってして後ずさらせた、その爆発は純粋な怒りの発露そのものであった。何が承太郎の逆鱗に触れたのか見当もつかず、2人は互いに顔を見合わせようとして、全身が竦んでいる事に気付く。これ程までに、剥き出しの感情を叩き付けられたのは初めてであった。承太郎は左足を後ろに引き、躯全体でポルナレフに向き直ると、真っ正面から厳しい一瞥を投げつけた。

「そんなものだったのか?」
「な…承太郎?」
「てめーのあの時の意志は、そんなに簡単に譲れる程度のものだったのかッ?!」ポルナレフの頭にガッと血が昇る。
「ふざけるなッ!オレは既に死んだ身だったッ!命に代えてもDIOを倒すつもりだったッ!」
「ならばッ!」
興奮に声が高くなるポルナレフを、更なる声量で捩じ伏せる。
「てめーに死ぬ覚悟があって、仲間を失う覚悟がなかったとは言わせねーぜッ!!」
ぐっと、息を飲む。病室の酸素総てが吹き飛んでしまったように、苦しい。吐き出すような言葉ひとつひとつから、血が流れている。にも拘わらず、瑕痕から噴き出す血潮を止める術も持たず、ただ流れ出るままに任せている。いわんや、本人に痛みの自覚があるのかすら判断がつかない。苛烈な試練――――――こんな事になるとは、思いもよらなかった。
「これはてめーの主義を貫き行動した、その結果だ。良いか悪いかじゃあねぇ、受け止めろッ!すまねえなんて一言で投げ出すようなら、この俺がその根性叩き直してやるぜッ?!」
水を打ったように、静まり返る。心臓の鼓動だけが、いやに大きく頭の中に響いた。承太郎は激昂した自分を恥じるように、2人に背を向ける。その視線を受け止めた物言わぬ骸は、肯定も否定も示しはしない。沈黙だけが、供も連れずに舞い戻って来た。
「―――――じじい、…ひとつ訊く」
「ああ…なんじゃ」
落ち着きを取り戻した承太郎に、多少なりとも安心する。感情に課された総ての束縛が解き放たれた時、一体承太郎はどうなってしまうのか、ジョセフは想像しようとして挫折した。そら恐ろしい結果しか出てこなかった。

「俺は冷静か?」
「?」
自分の思考に気を取られ、一瞬真意を測り損ねる。

「それとも―――――冷酷か?」
「ッ?!」
聞き返そうとした言葉が凍りつく。あまりに遣り切れない問いかけに、どくん、と2人の心音が一段高くなった。咄嗟の言葉を失い狼狽が表情となって形作られようとした瞬間、短いノックの音が事態を一旦留保させた。ジョセフが縋るように、入室の許可を出す。
「ミスター・ジョースター、お約束通り、これ以上の時間は差し上げ兼ねます。直ちに作業に移ります」
ドアを開けたのは、SW財団の関係者だった。

承太郎の頑強な主張により、花京院の遺体は冷凍保存され、日本に帰郷する段取りになっていた。そのための然るべき処理を施す準備が整ったのだった。冬とはいえ、日が昇ればそれなりに気温も上がるこの国では、遺体の損傷も激しい。ジョセフがぎりぎりの譲歩を引き出し、どうにか用意した別離の時間が、何の効も奏さぬうちに終わってしまった。だが、かといってこれ以上引き伸ばすのも、無理な相談である。心の準備も整わぬ前に突きつけられた最後通牒に、ジョセフは咄嗟に承太郎を見遣る。しかし、その時既に承太郎は静かに頷き、指示を与えていた。それが合図となり、廊下に控えていた職員が数人、花京院の横たわる簡易なベッドを素早く部屋から運び去る。呆気ない程淡々とした、贐の言葉もない葬送であった。

「それから…もうじき夜が明けます。こちらの準備も整っておりますので、お早く…」
ドアをノックしたチーフらしい男が、一言言い添えドアの奥に消える。その後を引き継いだ人物は、ポルナレフに呼び掛けた。
「ムッシュ・ポルナレフ、包帯を交換しますのでこちらへ…」
その瞬間が、起爆剤だった。ポルナレフの号泣が、張り詰めた緊張を破る。
「やっぱり駄目だ、すまねえ…すまねえ、承太郎ッ!オレが…ッ!おめーをこんなにまで追い詰めて、オレは、オレは…ッ!!――――――オレをッ!気の済むまで殴ってくれっ!!」
堪え切れなくなった悔恨が、どっと溢れ出す。泣いて良いのは自分ではないと判っていても、堰を切った涙を止める事は、もはやポルナレフには不可能であった。
「さっさと謝って、てめーひとり気楽にはい、終わり、だなんて思っちゃあいねーぜッ!この後悔は一生忘れねー、オレの全人生掛けて懺悔するぜッ!だがな、オレはおめーに対しても謝りてーんだ。謝んなきゃあならねーんだッ!」
大の大人が、みっともない程感情を曝け出し泣きじゃくっている。その様を目の当たりにし、承太郎は咽喉元まで競り上がって来た得体の知れないモノを、無理やり飲み下した。咄嗟の行動だった。


―――――理由はなかった。


「患者を興奮させないで下さいッ!」
白衣を着けた、医師らしい人物がポルナレフを庇うように間に入る。承太郎はポルナレフの懇願を軽く一蹴した。
「怪我人はがなってねーで、さっさと泣き止んで包帯でも替えて貰って来い。その間に、俺達は最後の片付けをしてくるぜ。DIOの死体のな」
「コラ待て、承太郎ッ!」
承太郎は尚も泣き続けるポルナレフを医師に任せ、ジョセフを連れ主の居なくなった病室を後にした。


『まるで逃げ出すようだ』

誰もが、自分自身の行動をそう評した。





人気のない郊外へ車を走らせる事十数分。昊天は充分に明るく、後は太陽の輪郭が地平に現れるのを待つばかりであった。グラスファイバー製の強化ガラスケースから、土塊のようなDIOの断片を運び出す。

DIOを倒して、一体何が残ったのだろう。失ったものばかりが、通り過ぎて往く。差し出した掌の隙間を零れ落ちていく幻が、朝日に透けていやに眩しい。DIO終焉の時が、ついに来た。奇妙な音を立てて崩れ去ったDIOの破片は、塵になる事もなく夜明けの空気に消えて失くなった。
「――――――最強のスタンドか…笑わせるぜ。俺はあいつのどてっ腹に開いた穴ひとつ、塞いでやる事もできねーってのにな」
最強のスタンドでさえ、仲間を失う事を避け得なかったのならば、仲間を護る為には一体どんなスタンドを身につけなければならないのだろう?それとも、スタンドという能力では親しい者達を護り得る事は不可能なのだろうか?
周囲の評価と自分の無力感が、悲鳴にも似た音を発っして軋む。
「落ち着け、承太郎―――――いや、これは正確でないな。お前は最初から落ち着いていたからな。……お前はホリィの命を救い、DIOの犠牲となった人々の魂を解放した。ジョナサン・ジョースター…総ての始まり、わしらの先祖の安息を取り戻した。無くしたもの、取り戻したもの。どちらも秤に掛けられるものではない」
あまりにも多くのものが係わり、捩じれてしまったDIOの世界。何の為に犠牲になったのか、その死を正確に悼まれた者もそう多くはあるまい。だが殆どの人々がその存在を知る事もなく幕は切れた。それでも、この旅が終わった事には意味がある。

大きな安心が戻ってきた事には。


「承太郎、先刻の質問の答えじゃが…お前は人一倍聡明で合理的で、非常に――――――冷静だ。誰もができれば拒もうとする親しい者の死を、心静かに受け入れている」
太陽の光が目に染みるのは、きっと失った人々の魂と同じ輝きだからなのだろう。漠然とそんな事を思いながら、ジョセフは手を翳す事も忘れて、東の空を見つめ続けた。
「死を悼む表現は人それぞれじゃ。取り乱さずに死を受け入れる、それが花京院に対する、お前の精一杯の哀悼なんじゃな。それならそれで良いんじゃ。お前の感覚も、今は何処か麻痺しているんじゃろうて」
ホリィの危機に、動揺を隠せなかったのはむしろジョセフの方だった。承太郎は、母親の理不尽な受難に無言で耐えていた。それ程、恐ろしいケタ外れの精神力を持っているのだ。花京院の死に、いや、花京院の死だからこそ、感情を表に出す事を極端に避けたかったのだとしたら、それは至極当然の事なのかも知れない。だからこそ。
「冷酷だと?まったく―――――そんな馬鹿な心配はせんでいい」
「――――――――――…」
「いつかきっとお前にも、悲しみや寂しさが漣のように押し寄せる時が来る。その時に感情に逆らわなければ良いだけじゃ。―――――押さえ込まずに解放するんじゃ、それだけで良い」
泣かなければならない、という訳では決してない。ただ、涙する事を躊躇う必要はないのだと。そして総てを犠牲にする前に悲しみを癒して欲しいと、ジョセフは心の底から祈った。

承太郎の返事はなかったが、ジョセフは無理には訊き返さなかった。


「これで終わったな……」

今日がまた、何事もなかったように動き出した。







かちゃん、と小さな音が何処かで響く。
誰かが鍵でもかけたのだろうか、
それとも、水晶質の物体が砕け散った音だったのか。

眠レ、眠レ。

機体の、低い重音と鈍い振動が、張り詰めた神経を不快に揺らす。
DIOは死んだ。もう、ゆっくり眠っても良い筈だ。
そうだ、眠らなくては。

眠レ。

この奇妙な不快感。思考が絡まって吐き気がする。

眠レ、眠レ、眠レ。

べったりと纏わりつく疲労を拭い去らなくては。
悲しみは時に融ける。辛く悲しいのは、一時だけだ。

眠レ。

時の流れは遣り切れない痛みを癒し、思い出に変える。

それは決して間違った事ではない。
今を耐えれば、またささやかな喜びに巡り会う日も来るだろう。

辛い?悲しい?
そんな感情があったのか?

朦朧とした意識の中で、何かが何処かで囁いている。

眠レ、眠レ…眠――――――――――………。



at the begining…










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