LAST UPDATE 1999.10.17

■16 塔 -THE TOWER-

 

メビウスの輪のはじまりをさがしにゆくにはどうしたらいいの?


塔の前に来ていた。
ありとあらゆる財と権力を放出して作り上げたような、神に挑むに相応しい、壮麗な建築物。塔の先端は天に融け、肉眼では確認できない。暗い背景に距離感を失い、一点透視の図面の中に紛れ込んでしまったような、奇妙な感覚に軽い眩暈を覚える。
正面にはとても頑丈で重厚な両扉が、行く手を遮るかのように立ち塞がっている。豪華な装飾が彫り込まれた巨大な取っ手は、一体誰の使用に耐えうるよう設計されたものなのか。精一杯手を伸ばしても、届きそうにない程の高さにそれは取り付けられていた。
半ば途方に暮れたまま、取り敢えず扉を押してみる。すると、意外な程に扉は軽く、僅かに手が触れただけで音もなく内側に口を開いた。内側…それは一度飲み込んだ獲物を、二度と吐き出さないための弁の役割を果しているようで身震いする。
そう、この塔が人間を拒む事はないのだ。
拒まれたのは、この塔の存在―――これを作り出した人間、だ。
そして人間を拒んだのは、神。
だが怯んではいられない。
この塔に登る為に、ここへ来たのだから。


僅かに開いた細い隙間―――とはいっても扉の大きさを基準にしなければ、それは人1人余裕で通れる幅―――に滑り込む。
塔の内側は、闇に慣れた目にはとても豪奢に映った。全体的に埃を被ったような印象を与えつつ、実は塵1つ落ちていない。本当に、ここには何も存在していないのだ――――この塔、そのもの以外には。
壁から下がる瀟洒なデザインのシャンデリアが、時間の向こうにくすんでいる。踝まで沈むような毛足の長い緋色の絨毯が、緩やかなスローブを描く階段へと続いている。しかしそれは総て階段の為の設備であった。
この塔の中には、階段しかない。この広々としたエントランスから本来ならば入って行けたであろう客間や食堂は、設計の初めからその存在を無視されていた。ただただ、階段の為に、それだけの空間がだだっ広く展開していた。
余計な物音を立てると振動で総てが消え去ってしまうような気がして、極力動きを抑えてエントランスを横切る。しかしそれは杞憂であった。この絨毯では足音など立ちようがない。この壁自体、音も光もあらゆる波形の一切を反射させる事なく取り込み、己の意志で闇と静寂を維持しているかのようだ。
呼吸音すら吸い込まれる、耳が痛くなるような沈黙。似合いであろう不気味な獣の遠吠えさえ、ここには決して届かない。
澱んだ空気が掻き回されて、侵入者から遠ざかるように逃げてゆく。だが窓ひとつない鎖されたこの場所では、絶対的な質量が予め定められているかのように、新しい空気すら入り込む余地はない。後から後から押し出されて、最初に逃げ出した筈のそれが再び戻ってきてしまい、慌てふためいているような感覚。久方振りの来訪者は、どうやらあまり歓迎されていないらしい。
つい一瞬前まで使用人が磨き込んでいたような手摺りを伝って、回廊のような階段を進んで往く。洒落たガスランプの明かりが、壁に沿って規則正しく灯されていた。しかしそれは足元を照らす為というよりはむしろ、より深く濃く闇を彩る為に備え付けられているように思える。事実、風もないのに揺らぐほの暗い炎の影は、必要以上に不安を煽る。人間が人間として生き始める更に前から内に抱え込んでいたような、原始的且つ一番厄介な恐怖。それが、この闇と同化し忘れ果てた心の深層から表層へと、這い出してくるような嫌な感覚がそこにあった。

たった1つの上に続く階段が、途中幾重にも幾重にも枝分かれしていたのではないか、という錯覚に苛まされる。何故こんなにも不安を感じるのだろう。階段ひとつきりの空間で、何をどう間違えようと道に迷う事などあり得ないのに。馬鹿馬鹿しい、と思いつつも、感情というものはどうも厄介だ。一度不安が過ぎると、収拾がつかなくなる。打ち消そうとすればする程、泥沼に嵌ってゆくような危険がある。それはきっと、信じるよりも疑う方が、楽だと思わせる何かがあるからかも知れない。
ぐっ、と腹の底に力を入れ、余計な雑念を追い出す。結論の出ない堂々巡りなど、考えるだけ無駄だ。
そうこうするうち、あまりにも延々と変わらぬ景色に、飽きたと感じる感覚さえ濁ってゆく。主観的な時間のみが渺漠と流れて往き、最早惰性で足が前に出ているだけだった。重力は次第に遠退き、浮き上がってしまわないよう苦心しているような錯覚すら覚える。そして、浮き上がるのなら飛んでゆけば良い…と気付いた時には、それは通常の何倍もの圧力に摩り替わり、酷く苦しめられた。



もうどれだけ進んだ事か。ガスランプは既にただの松明と代わり、僅かに光源を供しているに過ぎない。塔の内壁に沿って遠大な螺旋を描いていた階段はいつの間にか規模を縮小し、贅を尽くした装飾も鳴りを潜めている。
道のりが長ければ長い程、疑惑が脳裏を駈け巡る。しかしその一方で、不思議と生まれてくるものもあった。疑惑の深さに比例するように、確証もまた強まってゆく。
確かにここに求めるものがあると。
この苦労に報いるだけの何かがあると。
「――――…ッ!」
カツーン。初めて耳元に大きな靴音が届く。
そこにある筈の段を捉え損ない、バランスを崩す。今まで無意識に躯を動かしていたリズムが破られた。一瞬歩の進め方をど忘れし、上半身だけが前にのめる。慌てて態勢を整え陰の中に目を凝らすと、そこは階段の段差さえ不揃いになる程の散々たる荒れようだった。先刻からその様子は視界には入っていた筈なのに、意識からまったく切り離していた事を思い出す。今頃になってそれがどんな事態であるかを漸く認識した。
突貫工事よろしく、杜撰な内装を―――いや、これは既に杜撰などというレベルではない―――露にしている。足元にも石やガラクタが乱雑に散らばり、暗く狭い視野の中では結構な障害物となって行く手を阻む。
資金の不足が顕著になったのだろうか。不信感を募らせた瞬間。


ばりばりばりッッ!!
記憶にあるどの音とも違う雷鳴が轟く。塔の中に居ながらにして稲妻の眩しさを感じ、反射的に目を瞑る。瞼の奥に、残光をなお走らせる天の怒りが見えた。聖獣の咆哮にも似た、牽制というよりはむしろ威嚇のためのシグナル。自分を構築する信念を根底から揺さぶるような、激しい波動。
手抜きの理由を、身を持って体験する。踏み込んではいけない領域に近付いたようだ。動揺がそこかしこに渦巻いている。遥か歴史の彼方の、ここで生命を落としたのであろう人間達の、思念が縛され蠢いている。
如何に傲慢であろうと、流石に気が付いたのだろう。この塔の更に上に居を構える、自分達とは生命を別にした存在の怒りに。許容範囲を逸脱した人間達の、挑戦を冒涜と解した者達の制裁が始まった事に。
ここにきて初めて具体的な恐怖を感じ、浮き足立った労働者達。資金が尽きた訳でもなく、漸く己の愚かしい行為を眼前に突き付けられ、今更ながらに慄いているのだ。俄かに色めき、脅えている。
神/禁忌に?
自分に?
何に対して?
それでも、意地と見栄と、そしてその他の得体の知れない何かに突き動かされ、煉瓦を積み上げ塔を展ばした人々。死してなお昇華する事すら許されず、自ら築いた塔の中に閉じ込められようとも。
絶望と満足と、達成感、罪悪感、後悔と未練―――混在する意識の中を掻き分けて、ひたすら頂上へ向かう。時折、しつこく追い縋る魂を振り払う。勘違いするな。お前達の無念を晴らしてやる気など、毛頭ない。最初から、神々が座す世界になど興味はない。確固たる真実を求めて、ここに来ただけだ。お前達の下らん欲望と混同するな。これは純粋な使命なのだ。
…何を以ってして、違うと言いきるのか。…いいや、違いなどありはしない。これもまた単なるひとつの欲望だ。
松明の明かりすらもはや消え失せ、墨染めの闇の中を手探りで登り続ける。風に煽られ塔の軋みが、直に躯の中心に伝わってくる。階段は酷く不安定で、まるで薄氷の上に放り出されたようだ。徐々に、身動きが取れなくなる。


ばりばりばりッッ!!
内部が剥き出しになった壁から、雨と風と光が殴り込んでくる。ずぶ濡れになりながら、吹き飛ばされないように踏み堪える。それにしても手が触れただけでぼろぼろと崩れ落ちる、建材の脆さはどうした事だ。いつぽっきりと折れてもおかしくない…いやむしろ、この状態を保っている方がおかしな位だ。
叩きつける風雨に負けじと、幾多にもある綻びから貌を出す。目を凝らして地上の様子を覗っても、塔の外に存在する世界は、白と黒、ただそれだけだった。今となっては、稲妻の明かりに頼るしか術はない。とはいえ、全てを照らし出す剛毅な光は余りにも鮮烈に過ぎ、却って何も視界に残らなかった。
稲妻の影に、幽かに星が瞬いていたのは気の所為か? 視界の端にちらと掠めたものを求めて、再度闇を一瞥する。しかし黄金の閃光を前に、小さな星明りが届く訳もない。今日は随分と判断が鈍っているようだ。しっかりしろ。幻など、必要ない。
呼吸が、切れ切れになってゆく。酸素が薄くなっているのか、それとも…計り知れぬ重圧に過剰反応し、自家中毒を引き起こしているのか。
早く辿りつかなくては。
真実を見失ってしまう前に。
この塔が足元から崩れ落ちてしまう前に。


ばりばりばりッッ!!
狂い荒れる暴風の間隙をぬい、轟音が鳴り響く。その質量を伴った音波は、迫り来る危機のように着々と間合いを詰めている。颶風の中に佇むか細い柱は、ぐらぐらと揺れ非常に心許ない。雷鳴の衝撃は、確実にダメージを与えながら胎内を走り抜けて往く。鼓膜はとっくに自分の使命を放棄していた。
『ココニナニガアルトイウノ?』
頭の中に直接投げ込まれたような、これは声? 訳が判らず、辺りを鋭く睥睨する。だが振り向いても、そこには黒い板のような闇がただ、下へと続く道を塞いでいるだけだった。勿論、自分に声をかけるような存在の気配は、微塵も感じられない。
心臓を射抜かれたような感覚は、単なる思い過ごしだったのか。こめかみを押さえ、朦朧としがちな意識をはっきりさせる。次元の狭間に忘れ去られたこの塔に、そうそう訪れる物好きもいまい。
――――そう言えば。自分は、どうやってここに来たのだっけ…?
ふと、階上から自分を見下ろす視線を感じ、貌を上げる。遠い稲妻の明かりが一筋、もう隙間と表現するには広がり過ぎた穴から差し込む。その光の先に、人影がひとつ、佇んでいた。
真っ白な頬に赫い泪の模様をのせた、道化師がひとり。その表情は闇に融けて、ここからでは良く判らない。
けれど一瞬、照らし出されたその貌、その眸は―――――。
「な…んだ…と――――…ッ?!」
再び闇と同化した影を追って飛び出そうとした、瞬間。


ばりばりばりッッ!!
目の前で闇が裂け、空気が燃えるように熱くなる。
安い印画紙が感光したかのように、思考すら真白に射抜く。瓦礫と化した塔の欠片に、虚空の影が奇妙な程くっきりと焼き付く。
そうしてこの身に押し寄せる、黒い闇の苦い恐怖!
驚愕がパニックへと変わるのに、さして時間は必要でなかった。膨大な時間を費やして登り続けて来た階段を、転げ落ちるように駆け降りる。しかし逸る気持ちに躯の動きは追い付かず、あっという間に脚が縺れる。勢いはそのままに、カーブを曲がり切れず肩口から煉瓦に激突した。
呼吸が止まる程の衝撃と、外壁を叩きながら奈落の底に崩れ落ちてゆく土塊の音。後を追うように中有に飛び出した躯を包み込む、吐き気のする浮遊感。それらが、辛うじて恐慌状態の魂を引き留めた。重力に引かれ、ただ落下に身を任せるかにみえた魄が動く。
右手に掴んだ壁は砕け散ったが、反射的に伸ばした左腕は折れ曲がった鉄芯に引っかかった。片手で全体重を支えながら、そろそろと移動する。打ちつける雨は激しく、絶え間なく呼吸器官に流れ込む。雨に濡れた手は酷く滑ったが、粗雑な動きは塔を塵と変えた。
全てがぎりぎりまで追い詰められていた。がくがくと膝が笑い、自力で躯を支える事すら困難に感じる。この震えが貧弱な塔を崩壊へと導く起爆となりそうで、ますます痙攣は止まらない。
ようやっと自分が突き破った穴から塔の中へ戻った時には、躯中が悲鳴を上げていた。暴走しそうな意識を封じ、逃げ出しそうな躯を抑えつける。
軟体動物のようなそれが、途切れる息から、噴き出す汗から、ばらばらと飛び出しひとつのモノを形作る。恐怖を目視する恐怖。見えない筈の恐怖を、「見て」しまう恐怖。
それから、赫い泪が頬を伝う恐怖―――――。
恐怖に屈してはならない。克服しなければ。ここで挫折すれば、先刻の浮遊する魂達と行く末を同じくしてしまう。未だやる事はある。こんな処に留まる訳にはゆかない。
疲労に翳む視線を、それでも段上へと向ける。額を流れ落ちた水滴が数粒、シャツに染み込んだ。既に色も変わり切った服は搾れる程水分を含み、躯に纏わりついてやけに重い。
そうだ、思い出せ!
掴んだ壁の、手の中で崩れて往く感触。喉の奥を焼く胃液の不味さ。横隔膜が唸りを拾う程の重低音。恐怖に敗北し、事態に背を向け逃げ出した己の醜態…。
呼吸を整え、繰り返し自分に言い聞かせる。
そう、落ち着け、冷静になるんだ、取り乱してはいけない、と。


早く辿りつかなくては。
真実が消えてしまう前に。
この塔が虚飾に気付いて霧散してしまう前に。
あと少し、もう少し…。


たった一本しか道のない迷路など、果たして迷路と呼べるのだろうか。
それとも、例え一本道であろうと、迷ってしまえばそこが迷路なのだろうか。
迷う…迷っているのか?
いいや違うッ!
ここに、必ず―――――…ッ!!

 

 

 

 

 

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