| | T H E M O O N | |
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■ 18 月 |
| 外は奇妙に明るかった。思わず眸を瞑ってしまいそうな、眩む程の光量。 だがこの館の主が一身に浴びる光は、太陽のものではない。窓の外に広がる景色は、昨日も明日も何も変わらない。しかし砂にざらついた街並みに降り注ぐ月光は冷たく清廉で、絵葉書の中に閉じ込められた別世界を連想させた。 グラスになみなみと揺れる紅い液体を透過して尚冴えたままでいる光の矢に、尋常ならざるその存在は満足していた。 もはやアルコールは何の意味もなさず、味覚もとうに失せている。今の『彼』に判るものは、若い女の生きた血潮、その熱さだけだった。それでもグラスをあおる手は止まらない。自らが喪った血潮を補うかのように、杯を重ねる。 酔いが回る事もない今、何故に酒へと手を伸ばすのか。 ちり。 ちり、ちり、ちり。 何かが這い登って来るような感覚に、それまでの満足気な表情が一変する。 決して激しい痛みではない。鈍く深く…間断なく。弛緩した意識にひっそりと流れ込むように、いつの間にか忍び寄る。 苛立ちの根源を捜し出そうとしても、突き詰めれば突き詰める程、その輪郭を失い、痛みが拡散してゆく捉え所のない感覚。それでいて、確かにそこにある不吉な存在感。 存在のない存在、それはまるで影のように。 いや影は…『彼』自身だ。心弱い人間の恐怖に棲みつき、造作もなく意のままに操る影。その『彼』が恐れるモノ―――ならば、それは光なのかもしれない。『彼』が避け逃げ隠れ続けなければならない、太陽の―――――。 陽の当たらぬ場所で生命を維持する影は、本来のあるべき場所に突き出されると…消えてしまう、魔物の属性。 陽のぬくもりは、体温の失せた躬をあたためはしない。腐らせるだけだ。その後に残るのは、ただの消滅。そんな事は断じて許さない。 決して近寄らせてはならないのだ。この生命を維持してゆくためには。 ちり、ちり、ちり。 パ…ンッ。 不当に加えられた圧力に抗議するかのような、硬質の悲鳴。しかし効果は期待できそうもない程に、ガラスの砕ける音は小さく幽かなものだった。零れた酒が上腕を伝い落ちたが、『彼』はそんなものに構ってはいなかった。 向けられた先には―――消えそうでいて決して消えない、星の瞬きにも似た痛み。 意識するよりも先に、手が動いた。手の甲でもはっきりと認識できる、いまだに馴染まぬ傷口がそこにある。 自らの意志などとうの昔に消えたであろう。 何故いまだに私に逆らう! 「忌々しい…!」 腹立たし気に舌打ちする。握り締めていたグラスの破片を、突然、左の首筋に突き立てた。勢いもそのままに、肩口まで一気に引き裂く。ジョースター家の証が、忽ち赫い濤に飲み込まれる。 バシュッ!! 1拍置いて噴き出した体液――かつては血であったそれが、辺り一面に飛び散る。『彼』の肉体は突然の体組織の変化に慌て、一斉に動き出す。その陰で、派手な騒ぎに掻き消された祈りは、溜息のような沈黙に隠れた。 そして。 何事もなかったかのように、噴き出した血は止まり傷口は塞がった。ただひとつの溝を残して。この瑕疵があってこそ、常態なのだと…『それ』が主張する。 これだけの傷でさえ、『彼』に苦痛を与える事などできはしない。痛覚、否、触覚そのものすら、時の狭間に投げ捨ててきた。それなのに、たったこれしきのモノが何故にこうまで神経に障り、逆撫でしてゆくのか。 最初は、治りかけの傷が疼くようなものだと思っていた。『それ』の魄が『彼』の肉体となるまでの、一過性のものだと抛っておいた。 だが、ジョースター一族が性懲りもなくその姿をちらつかせ始め、あまつさえ自分を斃すなど馬鹿げた意志を掲げ向かって来るに至り、漸く納得した。否、認めざるを得なくなった。 この痛みは意思ならざる遺志を持っている、と。 かつてこの肉体を司っていた人物、ジョナサン・ジョースターの…。 ちり、ちり、ちり。 意識すればする程遠ざかりながら、しかし薙ぎ払っても払い落としても纏わりついてくる感覚。緩慢な動きで、しかし確実に間合いを詰めてくる。 何故こんなちっぽけなものに、このDIOが脅えなければならないのか! 「DIO様、ご報告致します――――……!!」 慎重に重厚な扉を開けたテレンスは、血臭漂う部屋の惨状に一瞬息を飲む。しかし『彼』の普段と寸分違わぬ泰然とした様子に、動揺をなんとか押し隠す。迂闊な侵入者は(尤も良くここまで来れたものだが)、既に跡形も残っていやしまい。掃除が少しばかり面倒なだけだ。 「花京院がジョースター側に寝返りました」 「―――――死んだのではないのか?」 花京院の生死が問題なのではない。肉の芽の効果に疑問があってはならないのだ。意外な内容に、豪然とした雰囲気が一瞬波打つ。しかしそれはテレンスには伝わらなかった。 「はい。空条承太郎が、肉の芽を抜き取ったらしく…」 空条承太郎…確かジョースターの末裔がそんな名であったか。肉の芽を抜き取るとは、侮れない奴もいたものだ。 どう転んでも――ジョースターの首を狩って帰らぬ限り――花京院が生き残る術は断っておいた。花京院が今後大いに役立つであろう事は容易に察せられたが、ジョースターに競り負けて生命を落すならそれはそれで構わなかった。玉砕するならそれなりに、相手方にも相応のダメージを与えるだろうとの打算もあった。 花京院の歳に似合わぬ聡明さと精神力は、側近にするには少々疎ましく思えていた。ともすればいつか『彼』の核を成す、虚無にも似た“うろ”の存在に気付くのではないか、という危惧を感じていた。 勿論花京院如きに油断を見せるような『彼』ではない。花京院に限らず、偽りの微笑と絶対の理解者である幻を信じ込ませる事など、何にもましてた易い。支配者としての存在に疑問を持たせる隙なども欠片もない。 しかし自分にそうした警戒感を、ほんのちょっぴりとでも抱かせた「何か」を持つ花京院が、平たく言えば気に食わなかったのだ。とは言えその反面、ジョースターを倒せるだけの実力をも備えているならば、刺激に乏しい永遠の生、多少の爆弾を置いてみるのも気晴らしになろう。そんな思惑もあった。真っ先に刺客として送り込み、花京院を試した理由はそこにある。 だが、結果はどうやら裏目に出たようだった。 「…フン。花京院の1人や2人、どちらにつこうと戦況は変わらん。「塔」で充分だ。まずは雑魚から削っていけ」 豪活に言い放つ。その語気の強さに飛び上がりかけ、テレンスは一礼をするとすぐさま部屋を後にした。 再びこの空間を満たす沈黙と、密やかに舞い戻るひとつの魂。 ちり、ちり、ちり。 『彼』は窓辺に向かい、空を見上げた。完璧な真円を描く天鏡が、酷く薄く闇に張りついている。そのあまりにも不安定な姿に、訳もなく苛立たしくなる。まるで射落とすかのように鋭い一瞥を投げつけ、深い彩を放つボトルに手を伸ばす。 いくら刺客を送り込もうと、この館に辿り着くのは必至であろう。精々隙を狙い不意を討ち、揺さぶりをかけて混乱させ、ヤツらを精神的にも肉体的にも疲弊させれば良いのだ。足を引っ張り時間を奪い、奴等の焦りを呼び出せばそれで充分だ。配下のスタンド使いなど、所詮は捨て駒だ。それ以上の働きなど、最初から期待していない。 そうだ、奴等は侮れない。『それ』の血を引いている、という、たったそれだけの事が何よりも重要なのだ。 だからこそ。 ジョースター一族は、私がこの手で直に絞める。確実にあの血統を根絶やしに出来るのは、この私だけなのだ。 そして見事奴等を討ち取った暁には、足元に転がるジョースターの血でこの傷を洗い落としてくれる。その時こそ、私は真の覇者となる。 捩じ伏せ押さえ付け、知らしめるのだ。この世界を征する者は誰かを。 100年の時を越え、 ―――――ジョナサン、お前に、だ。 新しいグラスを求めて室内に視線を走らせた『彼』は、不意に動きをやめた。残忍な笑みで口元を歪ませながら、高々と酒瓶を掲げる。まるでそこに旧い友の差し出すグラスがあるかのように、そのまま瓶を大きく傾けた。咽返るような芳香と共に溢れ出した緋色は、瞬時に絨毯を醜い模様に染め上げ更なる不快な汚点を広げる。 その様子を暫く眺めていた『彼』は、興味と中身の失せたボトルを投げ捨てると窓枠に手をかけた。階下に降りるのも億劫なのか、窓を大きく押し開くと月明かりの中に飛び込む。 食料の調達と…そうだな、もう1人くらい執事がいても良かろう。今度はもう少し、頭の悪いヤツを捜すとするか。 闇が一段、濃くなった。 いつまでも癒えぬ傷口から、一筋の赫が流れ落ちる。 黒く鋳抜かれた星に寄り添う赤い月のように。 2度と流せぬ泪のように。 |
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