LAST UPDATE 1999.12.29

 

 

時は遠く、夢は浅い。仮象の閨で、悠久トワに酔う。

 

あれは…いつの話だったっけ…。
やはり大量のニンゲンが押し寄せて来て、目の回るような忙しさだった。寄せては返す波のように、その数は絶えず増減を繰り返した。突然群れをなしたり、限りなくゼロに近くなったり。けれど、全体としてはひたすらに増え続け、決してここに来るニンゲンが途切れる事はなかった。…今みたいに。
まるで大波がうねるようにかつてない程のニンゲンが過ぎ往き…それきりだ。それは多分珍しい事で…何かあったのかな。ふと掠めた疑問は、でもすぐさま消えてなくなった。僕にとってはどうでもいい事だったから。
そう、束の間の休息と思えば悪くない。もうずっとずっとずっと…ただ同じ事を繰り返していたから。疲れた躬が癒えるのには、まだ暫くかかりそうだし…。
僕のする事といえば、この岸に現れたニンゲンを、向こう側へ運ぶだけ。向こう側から乗って来るニンゲンはいないので、いつも片道案内だったけれど。ここに来るニンゲンはとても軽くて、何人乗せようと1人だろうと、重さは櫂にぶつかる水の抵抗だけだった。この前もそれだけの事だったのに、何故こんなにも全身がだるいんだろう…。
いつもより深い霧の中に、大柄な体躯の人影が浮かび上がった。こちらに向かって、まっすぐ歩いてくる。この森はよく悪さをするから、なかなかここまで辿り着くのは大変なのに。

仕方ない、仕事だ…。

疲労の残る躬に鞭打って、穏やかに揺れる船底から立ち上がる。こんな事は今までなかったのに。まるで一生分働いた後みたいだ。
…一生? 一生って何だ? 何かの単位かな。こんな言葉、僕は知らない…いや、今はそんな事に気を取られている場合じゃあない。男はもう、目の前まで来ているのだから。
音もなく岸に舟を寄せると、男は躊躇いもせずに乗り込んだ。大方のニンゲンは、ここで一瞬途惑っていたのに…。特にかける言葉もないので、無言のまま舟を出す。

この河はどこへ流れてゆくんだ?

小舟から身を乗り出すようにして、河に手を突っ込みながら男は訊いた。ふと途切れた言葉を再び繋ぎ合わせたように、さり気なく、自然だった。
生き物のいない水だ――――これは独り言かな。

知らない。
お前はいつからここにいるんだ?
さぁ…知らない。

噛み合わない会話にめげる風でもなく、男は切り口を変えた。

お前は、何を知ってるんだ?

少しびっくりした。初めて正面から男を見ると、視線がぶつかった。幾つくらいだろう、老若男女、色々見てきたけれど、随分と年齢不肖の風貌をしている。千歳緑ボトルグリーンの眸だ。

そんな事今まで誰にも訊かれた事ないから、考えた事もないよ。
なんでそんな事を訊くんだい?

森の色彩が虹彩に融けて、やけに果てがない。今度は男が少し黙った。

…好奇心だ。

そう言って笑った。口の端を微かに上げただけだったけれど、イヤな感じはしなかった。僕もつい釣られて、微笑んだように思う。久し振りだ。

あの岸の向こうには、何があるんだろうな。
知らないよ。
…だって僕は、ここを離れる訳にはゆかないから。

付け足してから、何だか自分がイヤになった。なんでこんな言い訳がましい事を、口にしてしまったのかな。

何故そう思う? 決まり事でもあるまいに。
知らないってば、そんな事!

ずっとずっと、それだけが僕の仕事だもの。またあの岸に戻り、次にここを訪れるニンゲンを待つだけが…。向こう側に行きたいなんて、1度たりとも感じた事はなかったけれど。なんだろう、この…。

なんの疑問も抱かずにやってきたんだな。
……そりゃ確かに優秀な番人だ。
バンニン?

笑い方がちょっと違った。苦笑、というのだろうか。悲しい表情カオをされたようで、僕まで少し悲しい気持ちになる。こんなに色々な気持ちが出てくるなんて、どうしたんだろう。
いつもならこの河の流れようにすぐさまどこかに消えて往く疑問が、くるくると胸の中で回転する。まるで吹き溜まりにはまり、本流に戻れなくなってしまった水のように。

君のせいかな?
…何だ?
えッ? 何でもない、何でもないよッ!

思わず口を突いた呟きに対して、まともに反応されても困る。慌てて取り繕おうとしたのに、

愉快なヤツだな?

却って笑われたのは何故なんだ。

…大体、僕がここを離れてたら!
向こう側に行けなくて困るのは君達だろ?
まぁ…今までは、な。

男は急に真顔になると、河下を凝視したまま静かに言った。決して晴れる事のない、霧の奥へと流れて往く水の上から。どこか遠くを見ているような、それでいてただ1点だけを見詰めているような、不可思議な表情カオをしていた。

ここにはもう、誰も来ない。
え―――…?
私が最後だ。

聞き返す言葉もない程、たぶんそれは本当の事なのだろう。そこには、事実を識る者だけが持つ、有無を言わせぬ強さがあった。

惑星ホシがひとつ滅キえた。それだけだ。

懐かしく、愛おしむような…眼差し。君は一体その眸で、何を観てきたんだろう―――?

そろそろお前も、解放されていいんじゃあないか?
…も? 君、君は…?

この男の口から出る言葉は、判らない事だらけだった。けれど、なんだろう、あたたかさはそのままに、柔らかい眸に僕が映る。苦しい位に切ない気持ちで、泣きたくなる。

ねぇ、コウキシンってなんだい?
そうだな――――…生きる事、かもな。

例え意識を向けていなくても、向こう側への水路を間違えたりはしない。そして広い河だけれど、道程にそれ程時間はかからない。流れは向こう側に傾いでいるから。

生きる事って?
それは…私も知りたいよ。

はっと振り返った瞬間、舳先がこつんと岸にぶつかった。話に熱中してしまったのか、僕らしくない。

着いたようだな。

振動を感じ取ったのか、男は体躯に似合わぬ素早い動きで岸に降り立った。
何故だろう。酷く気持ちがイタイ。櫂を握る手に、力がこもる。久し振りに、ニンゲンと話したからかな。確かに滅多に話すことはなかったけれど、だからといってまったくなかった訳でもない。それに、そんなに楽しい気持ちにもならなかった。
きっともう、ニンゲンは来ないんだろう。そうしたら、僕はどうなるのかな…。
キィィ。
船首を巡らす。早くあの岸に戻ろう。なんだか訳の判らない気持ちに、振り回されてしまいそうで…怖い。このままでは、きっと吸い込まれてしまう。あの、果てのない空翠の世界に。だから、一刻も早く…。
ギギギギ。
舟が音を立てて軋む。…違う、軋んでいるのは…僕自身だ。からっぽの躬の中で、やけに重く大きく反響する。からっぽ…?

私と来るか?

ぎょっとする。迷いも怯オソれも、総てを見透かすような冴えた眸は、早くも立ち昇る霧に隠されつつある。

僕は…君を見送るだけだよ。
そうか。

たったそれだけで、男はあっという間に踵を返し歩き出した。僕の知らない向こう側へと。
1度も下りた事のない岸辺は、波に揺れる舟よりも遥かに頼りなくみえる。そして、容赦なく遠ざかる背中。霧はいよいよ濃く厚く視界を遮る。河が、森が、白く薄く霞んでゆく。緩やかな眠りが、誘イザナうように帷を降ろす。このまま、何もかも覆い隠してしまうように…。

ま、待って、

声が喉に引っ掛かり、音にもならないような掠れた息。だって、躬が動かない。だって、どうすればいいかなんて、僕は知らない。でも――――。
霧に吸い込まれたそれが届いたのか、それとも最初から――――知っていたのか。奇妙な位はっきりと、差し伸べられた腕が見える。行ってしまうようで、待っている。…誰を?

…行く! 僕も行くよ…!

まだ、今なら追いつける。それでも、どうして? 痺れたように躬は硬く、声を出すのが精一杯だった。声…と言うより、最早悲鳴に近かった。
櫂が手から滑り落ちた。ゆらゆらと川底へ沈んでゆく姿は酷くゆっくりで、手を伸ばせば取り戻せそうに見える。けれど、拾う気にはなれなかった。もう、櫂なんか要らない。

早く来い!

明るく強い声に、何かがぱちんと弾けた。途端に、総てが動き出す。再び何かに掴まってしまう前に――――船縁を思いっきり蹴り上げて、霧の中に飛び込む。躬が―――躯が、軽くなる。
僕という意識が形作られてから、生まれて初めて、狂おしい程に、強く願う。

 

 


「――――おい、起きろ」
低くドスの効いた声に、突如、ありとあらゆる世界が分断される。飛び起きた僕の目の前には、緑の眸をした最高に不機嫌で無愛想なライオンがいた。思考が一瞬真っ白に感光し、お陰でくっきり目が醒める。
「お…はよう――――僕に凄んでどうするんだよ」
少し…そうほんの少しだけ驚いたので、語調が自然と強くなる。ぼんやりと夢を見ていたような気もするが、先刻の衝撃のせいか、もうすっかりさっぱり何も記憶に残っていない。横目で時計を見ると、いつもの起床時間よりかなり針が進んでいた。どうやら寝過ごしていたらしい。
「おう、先に行くぜ」
だが、そのライオン―――承太郎は一向にお構いなしで、非常に無情な通告を宣した。
「君、そのせっかちはなんとかならないのかッ?!」
「……1分やる」
「って、カオぐらい洗わせろ!」
「喚いてんなら、置いてくぜ」
早くもその足は、ドアに向かっている。未練の残る毛布の温度と、別れを惜しむ間もあったもんじゃあない。第一今日は…。
ガチャリ!
問答無用とばかりに響くドアノブの音。
慌ただしくも容赦なく…そして昨日と何ら変わりなく、僕の新年は既にもう始まっていたようだ。やれやれだぜ―――――は、僕のイメージじゃあないが、気分的にはしっくりとくるな。前髪をかきあげると、ドアの前で振り返った承太郎と視線がぶつかった。遠目にもはっきりと判別できる程、濃い緑の眸。常緑樹の森が透けて見える……。
「――――」
「!」
相手の物言いた気な気配を察知し、咄嗟に台詞の頭を潰すように自分の言葉を被せる。どーせ言わんとする言葉は判っている。
「言っておくが! 下らん事も考えていなければ、バカ面も晒していないぞッ!」
「・・・・・・(-_-^)」
ビンゴ! 尤も、当たったところで嬉しくも何ともないが。承太郎は出し損ねた言葉をわざとらしい溜息に替えて吐き出すと、ドアを大きく開けた。
「―――――やれやれだぜ。じゃアな」
「待て、承太郎! 行くってば、僕も行くよ!」
「待たねェよッ!」
「そうやってすぐ、むくれるなって」
「やかましいッ!! ごちゃごちゃ言っとらんで早く来いッ!!!」

 


日々の雑踏に、掻き消されそうに浅い夢が木霊する。
一緒に行きたい、生きたい――――と!

 

 

 

 

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