隠れていた月が雲間から顔を覗かせた頃、ジョウイは放心したままその場に座り込んでいた。 月はジョウイの白金の髪と彼の抱きかかえる少年の顔を照らす。 少年は血に染まり、蒼白な顔をしていたが、その赤みの失せた唇からは、細く浅い息が吐き出されていた。 薄く上下する胸、時折痙攣するかのように動く閉じた瞼。 生きていた。生きていてくれた。 さざ波のようにせりあがる安堵感。その安堵感がジョウイをその場に座り込ませている。 ・・・・シャオロン・・・・ まだ意識の戻らぬ彼の名を呼ぶ。 座り込んだ姿勢のまま、頬を寄せて柔らかな髪に触れ、両手でさらに引き寄せて抱きしめる。 一度は己の中に封印し、身を裂く思いで諦めた、その切実な想いが再び自分の中に蘇ってくる。 決して言えない言葉ではあるけれど 決して言えない想いではあるけれど シャオロン。 彼の名を、唇だけでもう一度呼ぶ。そうして、そっとその肩に顔を埋めた。 封印したはずの、その言葉も一緒に乗せて・・・・。 やがて、ジョウイは意識の戻らぬ彼の身体を惜しむように引き離す。 そうして、マントを裂き、一番傷のひどい彼の左肩に応急手当を施した。 この森に入るとき、必ず馬の鞍にくくりつけていた装備品が、少なからずその手当に役だった。 布を巻き終わり、そっと頬に触れれば、ぴくりと小さな反応が返ってくる。 ジョウイはその命の証が何より嬉しかった。 しかし、安堵の喜びにいつまでも浸っているわけにはいかなかった。 血が、大量に流れた。 この場所にぐずぐずととどまっていれば、血の匂いを嗅ぎつけて、新たなモンスターが集まってくるだろう。 それらの敵が、弱いヤツばかりとは限らない。自分の上級魔法を持ってしても、一度や二度では倒せぬモンスターの場合もある。 どうする・・・・。 ジョウイはまず、シャオロンを抱え、馬でこの森を抜けることを考える。 だが、この森で血の匂いをまき散らしながらの夜間の移動は、あまりにも危険が伴いすぎた。 彼の新しい血の匂いが、大量のモンスターをおびき寄せてしまう。ましてや、二人の人間を乗せた馬の足では、中級程度のモンスターの速度にすら及ばない。 さらに、この傷のシャオロンが疾走する馬の振動に耐えられるかも疑問だった。 しかし、他に方法が・・・・ そこまで考えたとき、ふと、おかしな事に気がついた。 なぜ、シャオロンはこんな所にいたのだろうか・・・・。 彼の同盟軍本拠地は、今の地点よりも遙か南に位置している。陸路をたどれば数日を要する場所だ。 仲間も連れず、深夜、たった一人で、地元の人間さえ踏み込めないこの森にいたのはどういう訳か。 まして、この先はこの大陸を南北に分ける湖しか無いというのに・・・。 「・・・湖!」 ジョウイはそこまで思い至ると、弾かれたように立ち上がり、シャオロンを背負い、馬を引いて、ほんの少しだけ南に歩く。 「思った通りだ」 その、ジョウイの視線の先、鬱蒼たる木々の間から黒々と夜の狭間に光るのは、世界の中央に位置する広大な湖。 そうして、その湖と森の境には一艘の小舟が頼りなげに浮かんでいた。 小舟の位置を確認すると、ジョウイは愛馬の轡に取り付けてある真鍮の小さな筒をあけ、そこにレオン宛に書いた暗号文を滑り込ませる。 そうして、守護の呪文を馬にかけ、札を馬の背に貼り付けると、ジョウイは乗り手の居なくなった愛馬の尻を叩いた。 「行け」 短くそういうと、馬は心得たように森の中に疾走していく。 主人と幾度となくこの森に分け入った馬には、帰る道はすでに覚え込ませてある。 血を流し、モンスターの死骸が散らばる戦闘が行われた今夜、飢えたモンスターはそちらへ向かう。負の要素さえなければ、今夜は普段より安全だといえた。よほどのことがない限り、たった一頭の馬が狙われることはないだろう。 馬が森の中に消えていくのを待って、ジョウイはシャオロンを抱え上げる。 膝まで浸かって小舟を岸際に戻し、その船の中に彼をそっと横たえると、自分も乗り込み、オールで強く岸の縁を押す。 押し出された小舟は流れに乗り、月の姿が照り映える湖面に、ゆっくりと静かに滑り出していった。 薄明の中を遠ざかっていく鬱蒼とした森を抱える湖岸。 その景色をしばらく眺めやってから、小舟の中に視線を戻すと、ジョウイはマントを裂き、それを湖の水に浸してシャオロンの身体を拭き始めた。 顔から首、胸から両腕、手袋を外した手のひら、それから、スパッツを脱がせた両足まで。 何度も何度も布を水ですすいで、彼の身体についた血の汚れを落としていく。 額の傷を消毒し、マントの切れ端を包帯変わりに巻く。 静寂が支配し、月光降り注ぐ夜の湖上で、彼らはたった二人だった。 一通り血糊を拭き終わった後、ジョウイはシャオロンの黄色い肩布を水に浸して額に乗せる。 それでも、まだ彼が意識を取り戻す気配はなかった。 しかし、手当の甲斐あって、だいぶ落ち着いた様子の彼に安堵の息をもらすと、ジョウイは先ほどから感じていた疑問に思考を委ねた。 「なぜ・・・・」 ジョウイは思わず呟く。 小舟の中にも、あの戦闘のあった場所にも、彼の武器は落ちていなかった。まして、彼がモンスターとの戦闘に紋章を使用した形跡もない。 供も連れず、武器も持たず、たった一人で深夜の森へ・・・。 普段の彼なら考えられない暴挙である。 「・・・・無防備すぎる」 今の状況と、己を自失したような彼の行動。 考えられる理由は・・・・・・たった一つしかなかった。 ナナミの喪失。 ジョウイは呻く。 そうして、導き出された事実に愕然としながら彼を見つめた。 ナナミ・・・・ ジョウイはじっと目を閉じた。 あの、ロックアックスでの光景が脳裏によぎる。 ダメ・・・だったのか・・・・。 唇を噛み、手のひらを血のにじむまできつく握りこんだ。 このまま、目を覚まさないでくれ 目を覚まして、目の前に自分が居たら、彼はどうするだろう。 そんな暗然とした思いに心が沈む。 ナナミを失ってここまで自失した彼。そんな彼にどう接すればいいというのだろう。 彼らの側を離れたのは、彼らを二人置いてきたのは、他ならぬ自分だというのに。 できれば、このまま彼をそっと送り届けたかった。 「う・・・・」 乾き、はりついたような咳をしてシャオロンが呻く。 水が欲しいのだろう。 ジョウイは水筒を取り出して、口元に持っていってやる。 水をやれば、彼はおそらく気がつく。だが、苦しそうな彼の様子に、その行為を止めることなど出来はしなかった。 苦悶にゆがんだような、それでも彫像のように美しいジョウイの顔が月の光に照らし出される。 ジョウイは、ふと、その動作を止めた。それから、水を自分の口に含み、ゆっくりとシャオロンの口へ近づけていった。 喉に冷たい液体が流し込まれる感触。 ひからび、渇いていたのどは、貪るようにその液体を飲み干していく。 幾度となく流し込まれるそれを、すべて飲み干すと、ようやく喉は満足する。 すると、自分の唇を覆っていた暖かな感触が突然遠のいて、ひんやりとした外気が肌を覆った。 その柔らかな暖かさを逃したくなくて、思わず手を伸ばす。 「あ・・・・・」 「気がついたかい?」 伸ばした手が何かに包みこまれる感触と、聞き覚えのある懐かしい声。 ゆっくりと、瞼を・・・・あげた。 「ジョ・・・・イ?」 ハシバミ色の瞳が静かに開き、驚きでまん丸に見開かれる。 「ど・・・して・・・」 混乱する思考を戻そうと、必死になって考えているらしい。 ジョウイの好きな暖かな色の瞳が落ち着かなく左右に揺れる。その、困惑したような姿。 できればこのまま、今しばらくは悲惨な現実から逃してあげたかった。 しかし、シャオロンの思考は、現状の把握よりも、今、彼が抱えているもっと根元的なもの、ジョウイが最も思い出して欲しくないものへとたどり着こうとしている。 「ジョ・・・ウイ」 幼なじみの姿を瞳に映して、それが現実だと認識するまで、数分かかった。 そうしている内に、やがて、唐突に覚醒する。 目の前にいるのは紛れもない自分の幼なじみ。自分と紋章を分かつ人物だと。 そうして、彼は、できれば今、最も会いたい、そして、最も会いたくない人物だった。 ―――――――――すみません、私の力不足です ホウアンから告げられた、あの光景がフラッシュバックする。 目の前の人物は、なぜか厳しい、泣き出すのでは、と思われるような苦悶の顔で自分を見ている。 ・・・・ダメだ・・・・ ジョウイには言えない。・・・・言ってはいけない・・・・。 直感が、そう告げている。 敵の、皇王という立場にいれば、いずれは知る真実だろう。 だけど・・・今は・・・・ それは、あるいは自分への防衛的な反応であったのかも知れない。 だが、シャオロンは己の中の絶対的な直感に従い、精一杯の精神力を振り絞って、ジョウイに言葉を紡ごうとした。 「ジョウ・・・イ」 びくりとジョウイの肩が跳ね上がる。 「ナナミ・・・・ナナミね・・・・・」 笑おうと思った。大丈夫だったと告げるためには笑わなければ・・・。 けれど、自分の意志に反して、表情は少しも笑顔を作ってくれない。 「・・・・・っシャオロン!」 月光の中、悲痛な表情を晒す幼なじみに、ジョウイはたまらなくなって腕を伸ばす。 不意のジョウイの動作に逃れられず、シャオロンは無理矢理抱き起こされ、そのままジョウイの胸の中に閉じこめられた。 「!!!」 痛みより、苦しさより、なお勝りあるのは、その、懐かしい匂いと暖かさ。 その暖かさにすがりついてしまいたい衝動にかられ、シャオロンは自分の心に恐れおののいた。 ダメだ・・・・・ このままでは言ってしまう・・・・。言ってしまう。 不安に駆られたシャオロンがジョウイから逃れようとして叫ぶ。 「・・・・っ・・・、はなせっっ」 「いやだ」 ジョウイはシャオロンの叫びに間髪を入れず、いっそ彼が怯えるほどの静かな声で返答する。 そうして、ケガのため弱々しい抵抗しかできない幼なじみに、心の片隅で済まないと思いながら、突き上げる感情のまま、彼をきつく腕の中に抱きしめた。 「ジョウイっ!」 「・・・・・・・」 弱々しく抵抗するシャオロンに、思わず腕を緩めようとする。が、ジョウイの激情はその行動を理性ごと阻むだけだった。 それどころか、腕を彼の頭に回し、さらに彼の首筋に顔を埋める。 すると、かすかに、腕の中の噛みしめる歯の間から嗚咽する声が漏れてきた。 「う・・・・・」 落ちたのはシャオロンだった。 シャオロンはジョウイの胸の温かさに、ふ・・・と昔を思い出す。 三人・・・いつも一緒だった。爺ちゃんが死んだときも、少年隊に入隊したときもジョウイは傍にいてくれた。 なのに・・・ 「ど・・・して」 ナナミさえいれば、また元に戻れると思っていた。三人で走り、遊び回ったあの頃に。 彼女こそは自分の希望だった。だからこそ・・・・。 ナナミの顔が浮かぶ。 守れなかった義姉の、その明るい笑顔・・・ 「ぼく・・・の・・・僕のせいなんだ!」 絶叫のようなシャオロンの言葉。その叫びに、ジョウイは目を見張る。 すでに、シャオロンにはそれが事実の告白になるのだという認識すら持てていない。 「ナナミ・・・・ナナミ・・・・」 ゆるして・・・と掠れる声。 たががはずれ、堰を切った感情は、ジョウイの腕の中で終わりなき嗚咽の悲鳴をあげた。 ・・・・・そこまで、追いつめられていたのか。 自分が去った後、シャオロンは自分に誓ったのだろう。 優しい彼のことだから、ナナミは自分が守ろう、と。 そう、ナナミこそが彼の支えだった。 しかし、もうナナミはいない。彼の支えになる人も・・・・。 「ナナミ・・・・」 嗚咽を伴う彼の絶望的な呟きにジョウイは胸を抉られる。 こんな風に絶望させるつもりではなかった。 守りたくて、この愛しいもの達を守ってやりたくて、側を離れた。 しかし、彼の敵となってしまった自分には・・・・。 いつかは彼と決着をつけなければならない身となってしまった自分には・・・・。 ・・・・・もはや、かける言葉すら見つからず、ジョウイはシャオロンを腕の中に閉じこめる。 せめて、こうして抱いてやることしかできなかった。 そうして、ジョウイはこみ上げてくる熾烈なものに我と我が身を震わせ、その何ものかに、歯を食いしばってじっと耐えていた。 |
