大山十五世名人の晩年の思い出
大山十五世名人が亡くなられてから、早や、九年がたちました。 7月26日は名人の命日です。今年も命日が近づいてきました。私が直に見る機会のあった大山名人の晩年について、思い出を書き綴ってみようと思います。
大山十五世名人は、名人通算 18期獲得をはじめ、生涯勝ち星数1433勝など、数々の不滅の記録を打ちたて、目標にされる、文字通り将棋界の巨人でした。
私が将棋を覚えたのは、小学校三年ぐらいの時でした。大山名人の長い全盛時代が終わりを告げ、将棋界の若き太陽中原永世十段の時代が幕を開けようとしていました。
私は居飛車も振り飛車も指しますが、どちらかといえば、振り飛車の方が好みなのは、振り飛車の達人、大山名人の影響だろうと思います。名人の無敵の強さに憧れていました。
長きにわたって無敵を誇っていた大山名人ですが、中原永世十段にだけは分が悪く、次々とタイトルを奪われ、残すは王将位だけとなりました。
王将位をかけた大山対中原のタイトル戦が行われた時、私は大山名人に勝ってほしくて、がんばってくださいという手紙を書きました。名人の住所は知らなかったので、タイトル戦の行われる旅館宛てに手紙を送りました。はたして、手紙は名人に届いたでしょうか。私が将棋のプロ棋士にファンレターを書いたのは、後にも先にもこの一回だけです。
応援空しく、大山名人は王将位を奪われ、無冠になりました。名人は、引退するのではないだろうかという一部の観測を否定して、現役続行を明言しました。
その後、名人復位こそならなかったものの、王将位を奪回して、名人は棋力、気力ともにまだまだ第一人者であることを棋界の内外に印象づけたのでした。
突然、ガンという病魔が大山名人を襲いました。手術、一年間の休場、そして、終りのない勝負の世界への復帰、勝利への飽くなき欲求。壮絶さを感じます。
そして、時は 1992年6月へと移ります。JT将棋日本シリーズが四国高松でありました。対局は大山十五世名人対小林健二八段。
将棋日本シリーズは、タイトル保持者や A級棋士というトップ棋士の対局をファンが生で見られるというところに特徴、魅力があります。ファンがプロ棋士の対局を生で見るということを発案したのは、大山名人だと伺ったことがあります。
高松大会では、前夜祭がありました。大山名人、小林八段、山田久美三段(当時の段位がわからないので、現在の段位を書きました)による多面指しの指導対局。蛸島彰子五段と地元少年による対局とその解説者は青野照市九段。大変豪華な顔ぶれです。
高松大会の前に、前夜祭での指導対局の案内状が私の手元に届きました。当時、私は将棋から離れていて、普段ほとんど将棋を指さず、将棋大会にもめったに出ていませんでした。そんな私に指導対局の案内が舞い込むとはちょっと不思議な気がしました。私は、もちろん、大山名人との指導対局を希望するという返事を出しました。
恐らく、希望者多数なのでしょう、名人との対局という私の希望は叶いませんでした。今にして思えば、大変残念です。あれが、名人と将棋を指せる最初で最後のチャンスだったのです。名人との対局は実現しませんでしたが、小林八段が指導対局してくださることになりました。
指導対局の当日、私は対局の始まる前に、会場の近くで時間待ちをしていました。そこへ、大山名人が将棋関係者とともに現れました。和服をお召しになって、堂々とした風格がありました。それまで、新聞、雑誌では名人の写真をよく見ていましたが、じかにお姿を拝見するのはその時が初めてでした。
いよいよ、指導対局の時です。大山名人を真中にして、左右に小林八段、山田三段が横に並んで、名人と小林八段が 4,5人、山田三段は2,3人相手にされました。私の位置は中よりで、私のすぐ右隣の人は名人に指導してもらっています。私の右斜め前に名人がいるという位置関係になります。
このようにして、指導対局が始まりました。私は小林八段に飛香落ちで教えていただきました。序盤 20手ぐらい進んだ頃でしょうか、大山名人が私の前に立ち、私の将棋の盤面をじっとご覧になりました。その時が、名人とお話が出来る唯一の機会だったのです。「明日の対局がんばってください。応援しています」というようなことがなぜ言えなかったのでしょうか。もっと、気の利いたことが言えていたらと思います。実際は、私が不器用で、会話にさえなりませんでした。こうして、大山名人と話をする機会は永久に去ってゆきました。一期一会という言葉が浮かんできます。
小林八段との飛香落ちの対戦は、途中私に大ポカがあり、それでも、勝つチャンスがあったようですが、分からずに敗戦となりました。私の盤面をご覧になった名人は、飛香落ちの定石知らずの無手勝流に呆れていたかもしれません。
翌日、 JT将棋日本シリーズの大山名人対小林八段の公開対局がありました。女流プロと地元強豪の対戦が終わって、大山名人と小林八段が観客席の方を通って、舞台に登場しました。名人は前日と同じく和服姿でした。名人は舞台に上がる前に、私達観客に向って二度会釈なさいました。会釈された時、名人の首筋にやつれがあるのがわかりました。前日には気づきませんでしたが、舞台の照明の明るさと観客席の薄暗さのコントラストによって、やつれがはっきり浮かびあがったのでした。その時は、お年によるやつれかと思ったのですが、後で考えれば、ガンという病気によるものだったのでしょう。病院で点滴を受けてのかなり無理を押しての対局だったようです。
公開対局は大山名人の先手、居飛車、小林八段の後手、振り飛車という戦型でした。小林八段はかつて居飛車党でしたが、当時、すでに、振り飛車党に転向していました。名人は、振り飛車党ですが、相振り飛車は余り好まれず、相手が飛車を振ったときは、居飛車で戦います。
対局は、途中、小林八段が優勢だったようですが、端攻めに銀を打った手が、思ったほどの効果を挙げることが出来ずに、形勢逆転、大山名人の勝利となりました。
これが大山名人最後の公式戦であり、最後の勝利となりました。大山名人の晩年、最後の対局に立ち会えてよかったと思います。
それから、一ヶ月ほどして、名人は帰らぬ人となりました。 7月26日、私は旅行で家を空けていて、帰宅してから、名人死去の悲報を知りました。
大山時代という一時代を築いた棋士の死、それは棋界にとって大きな損失ですが、ファンにとっても、なんともいえないような喪失感をもたらしました。大山名人からは振り飛車のお手本を示していただいたばかりでなく、生き方を通して、いろんな大切なことを学んだ気がします。