なにやら論争が巻き起こっているらしい。とあるネットワークゲーム内で行われている、「不正問題」についてだ。それは通称「チート」と呼ばれ、キャラクターや武器などのステータス数値を改造して異常なまでに強靭に育てたり、またアイテムのコピーなどで通常のプレイでは入手できないような物を手に入れるなど、要するにそのゲームを自分の都合のいいように変える、ただの「インチキ」である。この「チートを行う者=チーター」の是否が、そのゲームの公式BBSでその存在の発覚から今なお論じられている、らしい。 ナンセンスな話である。もともと「不正」であるものに対して、何故それについてその是非を論じる必要があるのか、全くもって理解できない。 肯定論の大多数の論理は、つまるところ「自己防衛」である。その根底には必ず一つの共通点がある。彼らいわく、 「誰にも迷惑はかけていないからいいじゃないか」 確かに、中にはアイテムを奪ったりする非常に悪質な者たちも存在する。彼らを批判する声は後を絶たず、またそんな者達相手に所有権がどうの、窃盗罪がどうしたと、たかがゲームの仮想空間に現実の法律問題などを持ち出してくるエセ知識人もいるほどだ。自ら「正当なプレイ」を主張するデータ改ざん者が、そういった悪質なモラルのかけらもない人間と同等に見られたくはない、というのも筋が通っているようにも思えなくはない。が、そこに大きな違いはない。所詮は「同じ穴のムジナ」だ。 彼ら「チーター」は、一見、他者に対して正当な論理を展開しているかのように見える。が、そうではない。彼らが訴えかけているのは、他人に対してではない。他でもない、「自分自身」に対し「言い訳」をしているに過ぎないのだ。 自分が後ろめたい行為をしているのは自覚している。誘惑に負け、安易な道を選んでしまった。しかしそれを素直に認めることができない。自分に負けた人間がとる行動はただ一つ。己をごまかし、それを正当なこととして受け入れてしまうことだけである。そう、彼らは心の弱い人間なのだ。 一般的に全ての法律においては、そこに本人の意志が介入していたか、またその行為がどんな意味を持つかを知り得たか否かで、その罪の重さが大きく変わる。ここ数年、連続して起きる凄惨な事件では、まさにここが焦点となっている。すなわち、「その時、それを罪と知っていたか。」 本来ゲームとは、ある制約が定められ、その中でいかに楽しむか、ということが目的だ。野球は三振があるからこそ野球であり、手を使ってはいけないからこそそれはサッカーなのだ。そして、それが人の手によって作られたものなら、作り手の挑戦を真正面から受け止めることがプレイヤーとしての最低限の礼儀であり、それ自体を好き勝手にいじくりまわすような真似は、創造者に対するいわば「冒涜」である。そのゲームが素晴らしい出来であるのなら、なおさらのことだ。 彼らは、間違いなくそれが「罪」であることを理解している。だからこそ、あえて反論し、同時に自らを擁護するのだ。それと知りながら、己の欲望のために他人を、そしてなにより自分を犠牲にし、なおも省みることもない。まさにこれこそが、真の意味での「悪」である。 ゲームだから、というだけの話ではない。他人から何かを責められた時、また自らの行為に批判を受けた時、それを素直に認めることは意外と難しい。人の心は脆く、弱い。その罪が大きければ大きいほど、受け入れようとしなくなる。その大きさが、そのまま自らが受ける「罰=傷」になるからだ。 しかし、だからといってそこに甘んじてしまっては、その人間に成長はない。どこかでそれを受け入れ、一度「痛み」を感じなければ、いつまでも同じ場所であがき続けるだけだ。つい最近、そういう人間を実際にこの目で見た。なんとも滑稽で、ある種哀れみさえも感じてしまった。 誰の心にも、邪(よこしま)な心はある。それは人間である以上、否定できない。問題は、そういう自分に気づいたとき、それと真正面に向かい合い、打ち勝つことができるか、ということだ。 それから目を背け、日陰の道を歩くか まっすぐに立ち、 日の当たる道を歩むか その時どちらを選ぶか。それは、その人の心の強さに、そのままつながる。そして、この2つの道は、常に交差している、ということを忘れてはならない、、、 2001.6/24 17:35 |