「メル友」という言葉が一般的になって、どれくらいになるだろうか。もとはパソコンのEメール、また携帯電話の普及が原因であろうが、その交友関係が一昔前より広がったのは確かだ。ただその中には、現実の友人と、メールだけの友人を区別している人々がいる。どちらも同じ友人であるはずなのに、そこにある一つの線をおいてしまう。姿を知らないというだけではない、その根拠はどこにあるのだろうか。 文字というのは便利なものである。同じ場所にいなくても、声に出さなくても、相手に何かを伝えることができる。今や文字だけによるコミュニケーションは、会話によるそれを超えてしまったかのようである。 しかし、その情報量には限りがある。人の感情という膨大な情報全てを表現することはできない。チャット、BBS、メール、様々な手段を用いて他人と接触が可能な世の中であるが、それはあくまでも表面上のことにしかすぎない。といっても、うわべだけの希薄なものという意味ではない。ただ、それで全てだと思ってしまうのはどうだろうか。 学生時代、哲学の授業で講師がこんなことをいっていた。 「人に間と書いて、人間と呼ぶ。互いに一人でいる時には、それはただの人でしかない。相手がそこにいることによって、人と人とに、間(あいだ)が、つまり関係が生じる。だから人間というのだ」 普段は退屈で聞き流していたのだが、この時だけは妙に真面目に黒板を見ていたのを覚えている。互いの間に生まれたものを共有し合う、それによって各々を保っていられる、心とはそういうものだ、と。そして、そのために必要 なのが意思疎通するための手段、声や文字であるのだ。 なぜ、文字による対話がこれほど利用されているのか。それは手軽さ。この一言に尽きるだろう。頭に浮かんだことをそのまま打ちこめば、それがそのまま相手に伝わる。これまで文字といえば、ペンで紙に書くものでしかなかった。が、キーボードなどによってその手間が省け、より身近になった。そして簡単であるが故に、ある感情が生じる。 気軽さから生まれる認識、それは親近感である。互いに住む場所も年齢も違う、にもかかわらず、まるで十年来の知人であるかのように普通に会話ができる。ただ何気なく話しているだけなのだが、そこに相手がいるというだけでなぜか親しみがわいてくる。 互いの関係が近づいていくには、ある程度の段階が必要だ。学校を例にとってみよう。最初は自己紹介に始まり、まずは席の近い者に話しかけてみる。住んでる場所や、家族構成、好きなタレントや趣味、何気ない話題の積み重ねによって、だんだんと相手がどんな人物かがわかってくる。そうやってお互い の共通なものが重なって、やがて知人から友人へと進んでいき、さらにその輪が徐々に広がっていく。 しかし、ネットやメールにおいては、その段階を容易に飛び越えることができてしまう。姿形の全くわからない、けれども自分と似たものをなにかしら持っている、そんな不可思議な存在。相手が不透明ということで逆に、これまで他人と接する時に邪魔であった壁が消え、臆することなく話しかけることができる。 壁が消えたということは、つまりはその相手と接することに、一つの安心感を抱くということを意味する。相手はどう思うか?笑うか、それとも怒るだろうか?自分はどう思われるだろう?、、、現実生活の中では、頭の中には常に「自分」と「相手」という二つのことが意識されている。物理的な対象として、自分とそれ以外のものとして認識できるからである。それが互いを隔てる壁となり、様々な思案を巡らせる。ところが、その対象が目に見えない、象徴的な存在であれば、そういった考えをする必要がなくなる。なぜなら、その時点でそれは、「自分の中での相手」という一つの事項として認識されてしまうからである。何の気がねもなく、まるで昔から知っている人のように会話が交わせるのは、その位置を外ではなく、自己の中に置いているからに他ならない。 他人を自分に近い存在にすることは好ましいことだ。しかし、それを己と一体化させてしまってはいないだろうか?彼、もしくは彼女は自分と似ている、だから常に自分と同じことを考えるだろう、自分がそうだから、きっと相手もそうだろう、、、そういった錯覚を覚えてしまう。が、それはあくまでも「こちら側」からの観点であって、実際に相手がどうとらえるかは、当然その本人しか知りえない。 壁が消えた、と表現した。しかしそれは単に見えなくなっているだけで、確かにそこにある。その壁によって、人はそれぞれ自分と他人を区別しているのだ。姿が見えず、「文字」によって抽象化された形で相手を捉えてしまうと、しばしそれは他人ではなく、自分に近いという都合のいい存在になりかねない。が、あやまってはいけない。それは、自分とは違う存在であり、そしてまだ自分達はほんの少ししか理解しあえていないのだ。 |