佐藤友哉「クリスマス・テロル」
女子高生の冬子が「本物の衝動」に突き動かされて
たどり着いた見知らぬ孤島。
そこで出会った青年から冬子はある男の「監視」を依頼される。
密室状態の岬の小屋に完璧にひきこもり、
ノートパソコンに向かって黙々と作業を続ける男。
その男の「監視」をひたすら続ける冬子。
双眼鏡越しの「見る」×「見られる」関係が逆転するとき、
一瞬で世界は崩壊する!
「書く」ことの孤独と不安を描ききった
問題作中の問題作。あるいは傑作。
ノートパソコンに向かっていたのは、熊谷尚人という名の男だった。
この男は、一日中ノートパソコンに向かって何か作業をし、それ以外のことをなにもしなかった。
男の行動パターンはこんなふうに表現されていた。
「ひたすらパソコンに入力→たまにトイレ等→入力再開→夕食→入力再開→就寝。」
「空っぽどころじゃない」「完璧なる空虚、完全なる虚無」。
著者はこの男、熊谷尚人の空っぽさをかなりしつこく描いている。
「際だった特徴などない。平凡で平均的で極々普通でいたってノーマル。髪の毛は長くも短くもなく、目は大きくも小さくもなく、唇は厚くも薄くもない」(p53)「男の瞳に熱狂や興味といった光が少ない気がする」「なんの感動も含んでいない無機質な光」(p54)
冬子に島の住民への聞き込みまでさせ、尚人がいた学校の通信簿全部や卒業アルバムや卒業文集の作文まで調べさせ、尚人の空虚さがしつこく繰り返し描かれる。
「本物の言葉など微塵もなかった。」ただそれを示すだけのために、尚人が卒業文集に書いた作文の全文を冬子と読者に読ませたりもした。
こんな空っぽの人間、熊谷尚人は作家だったらしい。
「僕の価値は僕が書く物語で決まる」と尚人は話す。だから尚人が執筆するときの様子や、尚人の表面はどうでもいいのだという。
尚人はどんな物語を書いていたのか? 本書「クリスマス・テロル」はまったく描かない。「今までに三つの長編と十七の短編と四十二の詩を書いた」というのがせいぜいだ。
「自分一人のためだけの物語」で「出版する気」がないらしいので、当然だとはいえる。けれど、主人公の冬子も、尚人のことを聞き込みまでしたのに、尚人の物語を気にしている様子がまったくない。
尚人の物語は、二重に無視されている。作中の世界で受け入れられず、著者自身でさえ無視している。
この作品でもっとも執拗に描かれていたのは明らかに、熊谷尚人その人である。
描かれていたのが熊谷尚人の空虚さだったとしても、それは無視や無関心ではなかった。
「尚人君の中心部分は真っ白なんだよ。いや、真っ黒かもしれないけど。」
尚人以外の人物は、中心部なんてほとんど無視されている。
尚人は顔つきの描写や、聞き込み、作文まで持ち出されて、その空虚さが丹念に描かれていた。
僕はそんな『あなた』に誰もが愛した偉大なる散文作家バディ・グラースがそうしたように、早咲きの括弧(((())))の花束を贈りたいと思う。
熊谷尚人という空虚な存在はまさに、暈のような早咲きの括弧で彩られていた。
冬子は、尚人を双眼鏡越しにしか見ていず、ドア越しにしか話していない。双眼鏡もドアも、空虚さを飾り立てるための括弧である。
熊谷尚人がこもっていた密室も、空虚さを取り囲んで飾り立てるためのものだ。
尚人以外の登場人物はほとんど、異常なくらい描写されていない。顔つきなんかまずスルーされている。
冬子は主人公なのだが、一回だけ「長髪」(p30)と書かれているだけだ。あとは首尾一貫して「輪郭の定かではない曖昧な顔」のままだ。
表紙イラストには短髪で黒いセーラー服の少女が描かれているのだが、冬子は長髪だというし、岬は「白いセーラー服」「肩のあたりまである黒髪」(p45)なので、どっちでもない。もともと岬も冬子も描写はかなりテキトーなのだ。
表面的には冬子が主人公なのだけど、実際のところ、主役というより狂言回しにすぎない。冬子の衝動のあまりの不自然さは、狂言回しを調達するためのものだったと考えるのが自然だ。
つまりこの小説は、熊谷尚人を描写するための小説だ。
さてこの本には、普通の小説ならまずあり得ないような文章がいくつもちりばめられている。
「僕」「佐藤友哉」が「あなた」「読者」に向かって語りかけるのだ。語り口はとても率直で、作中の熊谷尚人が著者本人「佐藤友哉」の分身だと思わずにはいられない。普通に読んでいたら、読後感はきっと作者のメッセージで支配されるだろう。
「僕」「佐藤友哉」は、正に、もう一人の、真の主人公である。
空虚な存在を丹念に描写し、密室でさらに包装した小説。その人物は著者自信とおぼしい。
そして、まるで作中の著者の空虚さを埋めるように饒舌な、著者の直截なメッセージ。
それが、「クリスマス・テロル」である。