キャラクターの視線に関する考察
T 前書き
周知のように、アニメや漫画のキャラクターは写実的では全くない。
正確なデッサンという点から見れば、アニメ絵は狂っている。
アニメ絵には現実とはかけ離れた特徴がいろいろとある。
最大の違いは平面的ということだ。
セルアニメの場合に限れば、アニメが平面的なアニメ絵で描かれるのは、物理的に仕方のないことだったが――。
そうした必要性とは全く関係のない特徴が、いくつもある。
たとえば、目が大きいというのがそうだ。
アニメ絵はもうたいていの人が見慣れている。だからいまさら異様さを感じることはない。けれど意識的に写真とかと比べれば一目瞭然である。キャラクターの目の大きさは、冷静に観察してみれば異常だ。
そしてセルアニメがアニメ絵なのは当然だったような、仕方のない事情は、キャラクターの目の大きさにはない。
アニメ絵が嫌いな人はたいてい、目が非現実的に巨大なことを揶揄するようである。
アニメ絵の眼の大きさについての説明を、わたしはこれまでにいくつか読んだことがある。
一つめの説明は、少ない書き込みでキャラクターを描写する手法だ、というものだった。
要するに目や手のように心理描写上重要なパーツをマンガ家本人が重点的に書き込み、あとのパーツや背景はアシスタントに任せる。そしてマンガの生産コストを下げることができたのだという。
(斉藤環という人が書いた、「戦闘美少女の精神分析」という本にはそう書いてある。「逆に言えば、眼と手の描写だけを入念に行えば、あとの部分は省力表現でもかまわない」ので「分業が可能になる」のだそうだ。)
また、森川嘉十郎という人は「趣都の誕生・萌える都市アキハバラ」という本の111ページから114ページにかけて、図像を引用しながらこんなことを書いている。
「これまでも日本の漫画やアニメの美少女を、平安の引目鉤鼻から江戸の浮世絵の美人画に連なる美人画の系譜に位置づけるような雰囲気はあった。そしてそれは、ある程度の妥当性を帯びているようにも見える。平安美人から江戸の瓜実顔まではなだらかな変化の系図をたどれるし、それは竹久夢二(一八八四−一九三四)や高畠華宵(一八八六−一九六六)らを代表とする明治・大正の美人画を経て中原淳一(一九二三−八三)などの昭和初期のイラストレーションに至るまで、スムーズに延長できる。ところが、そこから戦後のアニメ絵につなぐには、一つ無視しがたい突然変異ともいうべき変化がある。それは、目の異様な巨大化である」
「そこでもう一つ注目すべきは、アニメ絵の美少女がおおむね幼女のごとく幼顔に見えるということである」
「目が大きいというのは赤子や幼児の顔のポロポーションの特徴なのである」
森川氏は、目の大きさをアニメ絵の幼顔指向に回収し、それ以上追求しなかった。この本のメインテーマはアニメ絵の大きな眼ではなかったからだと思う。
こういうわけで、大きい目が出現したのは、マンガ生産コスト節約であり、キャラクター幼顔指向だと考えられているらしい。
それは間違いではない。でもわたしの考えはすこし別だ。
どうしてあるときからアニメ絵と呼ばれるようなスタイルできたのか(要するにどうしてあるときまで存在しなかったか)、というのは重要だ。
でもだからといって、かつて目が大きくなった理由は、今でも通用しているのか。
今もアニメ絵の目が大きい理由は、かつて目が大きくなったのと違う理由かもしれない。
もし現在目が大きい理由が、あるとき目が大きくなった理由と違っているとしたら、こんなことがいえるだろう。
かつて目が大きくなった理由が将来なくなった後も、あるいはすでに消滅しているとしても、キャラクターの目は大きいままだろう。
実を言うとわたしはそんなふうに考えている。
手短に言うとこんな感じだ。
昔アニメ絵の目が大きくなったのは、予算や手間の厳しい制限内で、売れるマンガを描かなければいけなかったからだ。
でも今はそういう理由で目が大きいのではない。
今日キャラクターの目が担っている役割は、むしろ心理的な理由で、ユーザーがそれを求めるようになったからだ。
そして、あるとき予算や手間の制限内で、売れるマンガを描かなければいけなかったのも、あるときからそれが変わってきたのも、要するに技術が進歩したのが原因だ。
キャラクターの視線に関する考察
T 前書き
U リアルと2次元・一考
V 必要性に応える
W 広告が告げたこと
X 可能性を見つける
Y リアルと2次元・再考
Z 後書き
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