これはしたり


とある日曜日の昼下がり。 その男は待ち合わせの場所へと急いでいた。
男の名は加納 一馬。 数年前に大学を卒業して以来定職には着かず、家庭教師のアルバイトをする毎日だった。
約束の時間より遅れること5分。 都内ならばどこでも見かける有名チェーンの喫茶店。
ここが待ち合わせの場所だった。 一馬はすうっと一息つき、店内へと足を踏み入れた。
店内にはスーツ姿が多い。 平日の昼過ぎであれば、大概こんなものなのだろう。
一馬はそう思った。 その中にいて、ひときわ存在感を放っている女性がいた。
シックな服装に黒く長い髪。 それが、待ち合わせの相手だった。
一馬は何度も見たことがあるが、私服姿を見るのは初めてだった。
女性の名は一ノ瀬 舞。 3年程前まである団体のエースとして活躍していた。
一馬が私服姿を見たことがないのも当然だった。
一馬はまっすぐに舞の元へと向かう。 舞も一馬に気付き、目が合う。
「はじめまして。 加納一馬と申します」軽く会釈をする。
「お呼びたてして申し訳ありません」
舞は「いえ」と答え、一馬に座るよう勧めた。
一馬が席に付くのを待っていたかのように、店員がオーダーを取りにやってきた。
「ご注文はお決まりですか?」
少しばかり不自然な笑顔を見ながら、一馬はブレンドを注文した。
一馬が視線を戻す。 「いやあ、ちょっとドキドキしますね。 あの一ノ瀬 舞さんが目の前にいるなんて」
「そうですか?」舞は微笑んで答える。
「私は戦っているところと、ジャージ姿でロビーにいるところしか拝見したことがありませんからね」
「あら、イメージを壊してしまったかしら?」微笑んで言う舞に、一馬は慌てて答える。
「いえ。 決してそんな事は……」
一馬の慌てぶりを見て舞は微笑むも、次の瞬間まっすぐに顔を見据えた。
「それで、私に御用というのは?」
しばらく見とれたが、慌てて用件を切り出した。
「今日はお呼びたてしたのは他でもありません。 実は一ノ瀬さんにお願いがありまして」
「お願い…… ですか?」舞は些か困惑気味に答える。
「ええ。 私の祖父が、加納 修五郎と言うのは先日電話でお話したと思います」
「ええ、伺いました。 加納流柔術の師範でいらっしゃった」
「はい」
「確か、今は療養中だと伺っておりますが」
「ええ。 今は落ち着いていますが、如何せん歳ですから」
「はあ」
「それで、私が祖父から道場を譲り受けることになったんです」
一馬は道場を譲り受けていきさつについて話した。
「あなたが柔術をお教えになるんですか?」信じられないと言った感じで舞は尋ねた。
「いえ、私には出来ません」一馬の返事は早かった。
「私は球技が専門でして。 野球はカープ。 サッカーはマリノスって……」
そこまで言って一馬は、相手がきょとんとした顔で見ている事に気付いた。
「あ…… いえ、3〜4歳くらいまでは祖父に稽古をつけてもらってましたが」
「それじゃあ……」
一馬は舞の言わんとしている事に答える。
「ええ、道場は継げません。 その事は祖父もわかってますから、学習塾でも習字教室でも何でもいいから、道場を残してくれと言われたんです」
「もしかして、私に算数や理科を教えろと?」あくまで真面目に答える舞に、少し笑いながら答える。
「いえ。 色々と考えた結果、プロレスの団体をつくろうと考えたんです」
「プロレスですか」
「はい。 そこで一ノ瀬さんを、エースとして迎えたいと思いまして、お願いに上がった次第でして」
舞は驚きを隠せなかったが、一馬の意図することは理解していた。
「ずいぶんと思い切った事を考えましたね」
「そうですか? 道場を道場として使うわけですから、別におかしくはないかと思いますけど」
一馬はいたって冷静に答える。
「確かにそうですけど」
「まだ、動き出しはしてませんが……」
舞は店の外に目を向けた。 やはりスーツ姿が足早に闊歩するのが見えた。               

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