何ぞ知らん
加納 一馬はボートを漕いでいた。 ボートには一馬の他に二人の女の子が乗っている。
といっても、別に連れ去ってきたと言うわけではない。
一ノ瀬 舞と会ってから4日が経っていた。 舞が出した条件をクリアするべく、火河 五月に会いに、
井の頭公園に来ていたのだった。
火河 五月はかつてトップにまで登りつめた人物である。 結婚を機に惜しまれつつも引退をしたのだった。
それが、かぞえること5年前。 その人物を復帰させること。
それが一ノ瀬 舞の出した条件だった。 それもレスラーとしてだ。
とにかく会って話してみない事にはどうにもならないと、一馬は早速約束を取り付けたのだった。
ボート小屋の近くの木陰に立つ女性に向かって、同乗者の可愛い双子は一生懸命に手を振っている。
「ママ」 一人が手に振ると、負けじと同じ声で「ママ」と手を振る。
木陰の女性も、それに応えて手を振る。 「梢。 楓」 それがこの双子の名前である。
しかし一馬には、どちらが梢でどちらが楓なのか皆目見当がつかない。 それくらいこの双子は似ていたのだった。
しばらくして4人は公園の中を散歩していた。 こうしているといい母親にしか見えない。
「なるほど。 お話はわかりました」 事情を聞いた火河は静かにそう答えた。
「それにしても、舞ちゃんがそんなことを……」
「ええ、正直驚きました。 火河さんをレスラーとして復帰させること。 ですからね」
火河は微笑みながら尋ねる。 「ふふ。 頭を痛めてます?」
一馬はため息をひとつ付き、答える。
「正直」 そう言って更に言葉を続ける。 「でも、一之瀬さんの言うことも最もだと思います」
火河は小さく頷き、一馬を見ている。
「伊達や酔狂ではなく、真剣に考えて出した条件だと思います」
「そうですか」 火河はそう言って視線を落とす。
数馬の脳裏には悲観的な考えが浮かび始めていた。 もし、火河に断られれば、それは同時に一ノ瀬の入団もなくなると言うことだ。
どうしたものか。
しばらくの間会話が途切れる。 都会の真ん中とはいえ、耳を済ませれば小鳥のさえずりも聞こえてくる。
視線にビル郡が入ってくるものの、それはそれで風流かもしれない。
いくら都会とはいえ、見上げれば空もあるし鳥も飛んでいる。
しかし、今の一馬にはそれを愛でる程の余裕はなかった。
やがて火河の口をついで出た言葉は、一馬を驚かすには十分だった。
「復帰するのには問題はないのですが……」
「え!!」 驚いて火河を見やる。
「復帰は問題ありません。 ですが……」
火河は二人の少し前を、仲良く手をつないで歩く双子を見ながら言葉を続けた。
「そうなると、あの娘達を預かってくれるところを探さないと……」
一馬も聞いたことがある。 今、都内では幼稚園や保育園、それに託児所の数が極めて不足しているのだと言う。
とりわけ幼稚園は、入園するのに2〜3年は待つという。
そんなに待っていたら、いざ入園となった時には、もうその必要はなくなってしまうのではないかと思ったことを、ふと思い出した。
しばらくは自分には無関係なことだと高をくくっていたが、よもやこんなにも早く我が身に降りかかって来ようとは、思いもよらなかった。
火河は愛娘を見ながらつぶやく。 「どこかないかしら」
だが一馬には、それを解決できる方法がひとつだけあった。
「よければ、一箇所だけありますよ。 安心して預けることのできる場所が」
火河は勢いよく振り返った。
「本当!?」
「ええ。 火河さんにとってはこの上ない場所だと思いますよ」
火河は自信に満ちた一馬をじっと見ていた。
「どこに?」
もったいぶるように答える。 「うちです」
「え?」
驚く火河をよそに、言葉を続けた。
「うちで面倒を見ます。 私の母は昔小学校の教員をしていまして、子供好きなんですよ」