暗暗裏に

都内にあるS病院。 小さな花束を手にした男が病院内へ入っていく。
男の名は加納 一馬。 数年前に大学を卒業してから、就職はせずに家庭教師のアルバイトをしていた。
一馬は308と言うプレートのかかった部屋をのぞく。
病室は6人部屋だった。 一番奥の別途に横たわっているのがお見舞いの相手だった。
ベットにいるのは一馬の祖父で加納 修五郎。 加納流柔術の師範と言えば、少しは知られた名だった。
修五郎は同年代の者と比べても、確実に若々しかった。
しかし、寄る年波には勝てず、数日前からこうして病院の厄介になっていた。
修五郎は一馬に気付くと「何だ。 来たのか」と、ぶっきらぼうに言った。
「まあね」
一馬はそう言い、花束を差し出した。
「なんじゃ? これは」
ちらりと目をむけてから言った。
「何って、花だろう。 どう見ても」
「そんなもの食えないぞ」
「食えないのはあんたの方だよ」と思ったが、声には出さなかった。
一馬は空の花瓶を見つけ、花を活けた。
「なぁ、一馬」
不意に修五郎が声をかける。
一馬は振り向かずに返事をする。
「ん?」
「ワシももう歳だ」
これにはさすがの一馬も振り返った。 普段の修五郎からは考えられない、弱気な口調だったからだ。
「何だよ。 藪から棒に」
「ワシもしばらくの間、ここに厄介になる事になるだろう。 だからこれを機に、お前にあの道場を譲ってやる」
「はあ?」一馬は耳を疑った。
「だって俺、柔術なんか教えられないぞ。 習ってないんだから」
「そんな事は百も承知だ」
「だったら……」
「あの道場は代々受け継がれてきたものだ。 どんな形でもいいから残してくれ。 なくなるのは忍びない」
一馬は口をつぐんだ。 確かに、一馬の父も道場は継がなかった。 そして一馬も柔術は習っていなかった。
「学習塾でも何でも構わん」
修五郎が本気だと言う事は理解できた。
「わかった。 考えとくよ」
「そうか」
すると、看護婦が修五郎に近づいてくる。 歳は一馬とそう変わらないであろう看護婦は、笑顔で「検温の時間ですよ」と体温計を差し出した。
一馬は修五郎の顔が一瞬ほころんだのを見逃さなかった。
「なるほど。 厄介になりたい理由はそれかい」
一馬は黙って病室を後にした。
「うーん…… どうするかな。 道場か……」
一馬はふってわいた話にあれこれ頭を悩ませていた。
「どうせなら道場として使いたいけどな……」
一馬はふと、電柱に張ってあるポスターに目を向けた。
その時、ある考えがよぎった。 道場を道場として使う方法を。
「なるほど。 これは面白いかもしれないな」
一馬はそう呟き、再び歩き始めた。 一馬が目にしたのは、プロレス団体の興行を告げる、予告のポスターだった。

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