限りある時の想い・
後編


 act5 月が見てる

 夢を見てた。夢の中は戦いの中であったけれど幸せだった。――大好きな人がそばにいてくれたから。
 ラケシスは起き上がる。まだ外は暗い。
 さっきまでぼんやりとした頭が覚めてくるのがわかる。
 明日は大事な日だ――だからこそ眠れないのかもしれない。そう思い、ため息をつく。そして寝台からそっと抜け出す。脇の小さな寝台に眠っている娘のナンナを起こさないよう細心の注意を払う。
 外に出て、風にあたりたかった。部屋を出ると、しんと静まり返っている。靴を脱いで、裸足で歩くと石畳のひんやりとした感触が、寝起きの火照った身体に心地好い。
 月はぼんやりと鈍い橙色で地上を照らしている。血のようで気持ち悪かった。
「ラケシス?」
 外を出て何歩も歩かないうち、声を掛けられ振り向く。
「シグルドさま……」
 月明かりで自分の方へ歩いてくる姿が見える。
「眠れないのかい?」
「いいえ、眠ったんですけど、目が覚めてしまって……」
 そう言ったラケシスの頬をシグルドは触れる。前にもこうしてもらったのを彼女は思い出す。
「夢を見て、泣いていたのですか? まだ涙の跡がある」
 幸せな夢だった。フィンと恋に落ちる夢を見ていた。夢ではない。本当にあったことをラケシスの脳が再現しただけだ。
「気付かなかったわ。とても幸せな夢を見ていました。夢の中に出てきたエスリンさまは明るく笑っていて、目が覚めた私は少し哀しくなりましたけど」
 エスリンはもういない。そのことが目覚めたラケシスを哀しくさせた。彼女は砂漠でその命を散らした……夫と共に。
「あれは幸せだったと思います。ずっと想ってきた男と一緒でしたから」
「……………」
 今、生きているがそばにはいない自分の愛しい人を思う。従う身の彼にとって、キュアンとエスリンの死は……後を追うことすら許されない立場に置かれ、さぞつらいことと思う。それでもラケシスは彼が生きてまだ自分を再会できる機会を持っていることを感謝していた。
「……ただ、私がそう思いたいだけかもしれませんけど」
 シグルドはそっと呟いた。ラケシスは答えられなかった。
 二人はそれぞれの思いを抱いて月を見ていた。
 月はゆらゆらその丸い形を歪ませる。
「……悪い予感がします。今夜の月は禍々しい……」
 口を開いたのはラケシス。にぶい輪郭をはっきりさせない月光が、いやなイメージを与える。
「そうですね。なにかありそうな気がします。まだすべては終わっていない……そんな気が」
 呟くようにシグルドは言った。黙ってラケシスは聞いていた。それは彼女も思っていたこと。けれど不安を口には出来なかった。目の前にいる人を困らせてしまう。
「……月が聞いてますわ。シグルドさま」
 そっと言った。
 シグルドは顔を上げてラケシスを見、彼女の頭を撫でた。
「貴女の泣き顔を見るのは初めてです。以前、貴女を泣かせたかった、と言いましたが、それは撤回します」
 困ったシグルドの顔がにじんでみえて、ラケシスは自分が泣いていることに気付いた。
「どうしてでしょう……哀しいわけではないのに……」
 涙をシグルドが優しく拭う。
「愛しい人が泣くのは、それを見るのは……心が痛みます。けれど、泣きたい時には泣いていいんですよ」
「……!!」
 ラケシスは思わずシグルドを見た。深い哀しみをたたえた瞳に身が竦んだ。言いかけた言葉が、シグルドの愛した女性の名が、彼女の口から発せられることはなかった。
 ディアドラという名のシグルドの妻であった女性は、どこ行ったのだろう……? そう思ったら哀しみが彼女の心を覆った。涙が止まらなくなる。
 シグルドは何も言わずそばにいてくれた。
 泣きやむと「部屋に戻ろう」とシグルドが手を差し出した。甘えるように自然にラケシスはその手を取った。部屋まで送ってもらい、寝台に横たわると眠気が襲ってきて、ラケシスはようやく眠りについた。
 その後の記憶ははっきりしない。
 すべてが……最悪の形で終わった。


 act6 悪夢

「ラケシス……?」
 声に顔を上げる。目の前に立つ人物にすうっと焦点を合わせる。今まで混沌としていた意識が急速に覚醒した。
 互いに信じられない再会に胸が躍った。
「フィン? ……フィンなの?」
 確認するように言うラケシスをフィンは無言で抱きしめた。レンスターへ帰る前のフィンの背丈はラケシスの頭半分くらいしか差がなかった。あれから2年近く経っている。今はラケシスの頭までフィンの胸にすっぽりと包まれている。
 なんだか違う人みたいだ……ラケシスはぼんやり思った。
「レンスターまで、遠かったろう……?」
 フィンは優しくラケシスの顔を見た。嬉しさを隠しきれない笑みは前のままだ。そんな発見が彼女を安心させる。
「私……どうしてここに?」
 喜びから覚めぬまま、ラケシスは呟く。どうして目の前にフィンがいるのかわからなかった。これは、夢なのだろうか?
 よほどのことがあったのだろう。記憶が混乱してしまうくらいに。フィンはラケシスをまた抱きしめた。
「生きてくれて、また会えて、嬉しい」
 フィンの言葉のその意味が重かった。ラケシスの瞳から涙がとめどなくあふれてくる。現実だった。すべて。ここに来るまでのこと、ただひたすらに娘を抱いて、レンスターへ向かったこと。こうして会えるとは思わずに歩いていた日々。
 すべてのことを思い、そして今は愛しい人との再会で胸がいっぱいになった。
「私も……また会うことが出来て嬉しい」
 嬉しい、という月並みの言葉しか出てこなくて、2人は顔を見合わせて笑う。
 悪夢が、ラケシスの前で繰り広げられた出来事が、ほんの少し遠い記憶になった。
 廊下から赤子の泣き声がして、ラケシスは顔を上げた。
「ナンナが泣いてるわ」
 ここはフィンの部屋である。控えの間に娘のナンナがいる。
「娘を、ナンナを紹介するわね。会うのは初めてでしょう? デルムットは……まだシレジアにいるの。セリスさまたちと一緒にいるの」
 ラケシスの顔が一瞬暗くなる。それを見て、フィンはちらりといやな予感がかすめた。
 2人の再会別れの予感を秘めていた。


 
act7 別離

「デルムットをここに連れてきたいの」
 ラケシスは言い、毅然とした目をフィンに向けた。その言葉をいつ言うか、フィンは心のどこかで待っていて、反面、待つのが自分の徒労であって欲しいと思っていた。
 もれるためいきはどこか嘘っぽいとフィンは思った。
「止めることは出来ないんだね」
 頷くラケシスに、フィンは心の中でそっとため息をつく。
「ずっと、考えていたことなの。ここに来てからずっと。シレジアにいる方法がデルムットにとって幸せかもしれない。でも会いたいの。会って、連れてこられるなら、ここに一緒に帰ってきて暮らしたいの」
 わがままだということは承知していた。そしてフィンがレンスターを出ることはないということも。
 すべてを知って、それでもラケシスは息子に会いたかった。
 そしてそんな彼女の心をフィンはとうに知っていた。自分の子供にまた会いたいとは思う。それでもラケシスを失うことを考えるとためらわれる。
「いつ……立つつもりなのかい?」
 フィンはラケシスを見た。唇を噛みしめて、自分を見つめ返す彼女がとても愛しく、そして自分の意のままにならないことを少しだけ憎んだ。そういうことを含め、彼女のすべてを愛しているフィンに止めることなど出来なかった。
「――3日以内には」
 フィンに言ってしまったらすぐにでも行かなければ、自分の気持ちが動いてしまう。そうは言えなかった。言ったらフィンを苦しめてしまう。
「わかった。ささやかですまないが旅の用意をしよう」
「……ありがとう」
 再会から1年が経っていた。
 1年は互いに長くて短かった。そして至福だった。
 ラケシスがフィンに寄り添う。彼はそっと彼女を抱きしめる。そんな時がずっと続けばいい、と2人は思い、その気持ちを以前にも思っていたことを互いに思い出す。
 翌朝、朝も明け切らないうちにラケシスは城を出た。
 城の門が良く見える部屋で、フィンはラケシスの姿を見ていた。
 別れを告げずに旅立つであろうことは予測がついた。見透かして見送ることはおそらくラケシスのプライドを傷つけてしまう。止めることができないのならば、気持ち良く送り出したかった。
 だが、見ている今も駆け出して、ラケシスを抱きしめ、そのまま旅に出したくない自分と戦っていた。
 ラケシスの行く手には砂漠がある。その旅は死を意味していると知っていて、2人はそれを口にすることはなかった。
 再び会えたことが奇跡なら、別れることは必然であった。
 歪む視界にフィンは、まるでそれがラケシスの死を指しているようで、涙を静かに笑みに変えた。
 贈り物は、ラケシスの荷に忍ばせてある。
 それしかフィンに出来ることはなかった。自分に正直に生きるラケシスが輝いて見えた。
 後ろ姿が完全に消えるまで、フィンはずっと佇んでいた。
 彼女が振り返ることはなかった。


 
act8 そして最後の花束

 胸に抱いた花は彼女が最初にもらったあの草みたいな香りのする花、今までにもらった花、初めて見る花、その他いろいろな花たちだった。
 振り返ることはしなかった。フィンがずっと見ていたことをラケシスは知っていた。
 やっぱり見透かされちゃうのね。
 フィンがラケシスの思いや行動を知っていたように、彼女もまたフィンのそれを知っていた。一緒にいた期間は長くはないのに、お互いのことがわかるくらいに想い合っていた。
 幸せだった。……ここの生活は幸せだった。
 城門を出て、ようやく涙が頬をつたう。それでも立ち止まらず前を見据え歩いた。
 花に、ラケシスの涙がつたい、重みに耐え兼ね首を曲げる。
 後悔はなかった。ラケシスは今、幸せだった。
 end