秋の吐息



 緑だった葉が、色を変えていく。
 ひらり、と舞った葉が落ちる前に風になぶられて、診療室の窓ガラスに力なく当たり落ちるのを、偶然窓に目を向けた部屋の主のはとりは見ていて、慌ただしく過ごした日々で気付かなかったはっきりと境界のない季節の変わり目を知る。
 ――そろそろ、1年が経つのか……。
 過ぎる日々はあっという間のようなそれでも長い日々だったのかといつもはとりは思う。時間は時計の針が刻むだけではその長短は測れない気がするけども、自分の心の中でもはっきりとした長短は時計の針以上に測れない。
 それでも以前よりは過ぎ行く時間の中に常に感じていた苦痛のような重さを感じなくなった。
 無邪気で純粋な笑顔が頭をよぎる。
 彼女の笑顔は会う度に見ているのに、はとりの脳裏をよぎるのはいつも、冬に偶然会った時の、笑顔。
 思い出すと、何故か、ホッとする。心が少しだけ、安息するような気がする。
 それが何なのか、と自問せずに手にした書類を軽く整え、クリップで留める。それを机の上に置くと、医師用の鞄を持ち、部屋を出た。
 ひと月に一度の検診に向かうために。

 血圧計が細い腕に巻かれると、観念したように息をつめる。 
「――別に痛くないぞ?」
 と、毎回はとりが云うのだが、これはもう反射的なものだとお互い気付いてきている。注射もないのに毎回血圧を測る度に息を止めてしまうのはどう云う反射なのか、はとりには知る術もない。
「一一ごめんなさい。わかってはいるんですけど……」
 申し訳なさそうに首をすくめる。気にしても仕方ない、と、はとりは血管を探るために聴診器を彼女の腕に当てる。
 手動でポンプを押して、計器が止まった数値を確認して、血圧を測り終える。 
「――正常値だ」

 春先に彼女が風邪を引いた。
 同居しているこの家での家事、週に数回のバイト、そして本業の学生……と、3役をこなす本田透の風邪は、本人は「自分の不注意」と云ったけれども3役を全うする生真面目さから来る疲労が、要因の1つであったのは間違いないだろう。
 人の無理に心を配っても、自分の無理には笑顔で「大丈夫です」と云う一一そんな彼女に、月に1回、はとりの暇を見て軽く検診することになった。
 データを集めておけば、もし万が一になにか起きても対処の仕方が少しは増えるだろう。そして徴候は察知出来るので、急に倒れるようなことが減るだろう。
「そんなっ……はとりさんに迷惑がかかってしまいます」
 そう云った透に、こん、と彼女の額に軽く作ったこぶしを当てる。
「俺が忙しい時期に倒れられたら、その方が困る。イヤだと云うなら、きみの好きな家事も、バイトも紫呉に云って止めさせる」
 脅しとも取れそうな言葉だが、その真意に透を気遣う心が感じられて、透は嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」

 軽い基本数値を調べ終わる。今月の本田透は異常なし、と判断を下す。
「はとりさん、ありがとうございました。お茶を入れますね」
 立ち上がった透を引き止める理由もなく台所へ向かったのを見送る。診療道具を全部しまうと、出かける前に見た葉を思い出し、縁側へ通じる障子を開ける。
 意外に手入れの行き届いた日本庭園風のこじんまりとした庭がはとりの視界に広がる。木々は春夏に緑色に葉を生い茂らせていたその面影はなく、茶色くなってひらひらと舞い落ちる葉が、秋の訪れを、そして冬の足音を感じさせる。
 さあっ、と吹く風がはとりの頬を撫でる。その温度の変化に、うつろう季節を感じる。
 季節は変わっていくものだと、頭では知っていて、佳菜といた頃は2人で季節を色々なやり方で感じていた。佳菜がいなくなって、はとりは生きることに希望すら持てず、ただ日々を過ごすのみだった。季節の変わり目も気にならないほど、はとりにとって生きることは無為だった。
「――ッ!!」
 なのに、自分は今季節の移り変わりを身を持って感じている。自分でも測り知れない無意識の変化にはとりはただただ驚く。
「はとりさん、縁側で飲みますか?」
 遠慮がちに掛けられた声に振り向くと、透がお茶の入った湯のみをおぼんに乗せて、はとりが開けた障子の辺りに立っていた。
 どう答えるか珍しくはとりが迷った時に柔らかく夏よりわずかに冬の匂いをはらんだ風が吹く。そうして、答えが決まる。
「ここで構わないか?」
「はい」
 にこり、と笑うと、透は縁側に出てくる。はとりは慣れた様子で外へ行けるサンダルが置いているところに腰掛ける。透はその傍に正座し、お茶を置いた。
「今日は風が気持ちいいですね」
 はとりがお茶を受け取ったのを確認すると、自分用に入れた分を手に取る。
「そうだな」
 暑過ぎず、寒過ぎず、一一秋はそういう季節なのだ。それははとりがずっと忘れていた感覚。佳菜がいなくなって、生きる意味を無くして、そういうことを考えなくなったから。
「夏よりは乾きが悪くなりましたが、今日は洗濯日和です」
 嬉しそうに笑う。その表情に無理は感じられない。ただ――、心と身体は繋がっていても別だと、医者のはとりは思うから、無理は勧められない。
「無理のない程度に、な」
 はとりの言葉に、透は微笑む。過剰に思えるような心配をしてくれる人がいる。あの日から、少しは無理をしないように心掛けている。倒れる方が困ると云ったこの人の手をわずらわせないように。そう云ったけれど、自分が倒れたら、多少の無理はしても治療しに来てしまうことを透は知っているから。
「はい!」
「そういえば、紫呉はどこか行ったのか?」
 訪問時に由希と夾はいない、と透は云った。彼等がいてもいなくてもどちらでも構わなかった。いたらついでに検査をしたくらいだ。
 ただこういう時に茶々を入れるであろう、紫呉の存在をはとりは今まで忘れていた。
「紫呉さんは、眠っています」
 今日、原稿を渡したと云う。透が帰る直前に渡した――つまりそこまでずっと起きていたからさすがに眠かったようだ。 
 はーさんが来ても 起こさなくていいから。
 紫呉の言葉に透は従ったのだ。 
「そうか」
 紫呉は、無理をする必要のない才能を持っていることをはとりは充分知っている。悪戯をするように、たまに自分を追い詰める傾向がある。そうやって彼と云う人間はバランスと取っていることも知っている。
「一応、診ておくか」
 このまま黙って帰れば、茶化されるに決まっている。
 はとりは湯呑みの茶を飲み干すと、立ち上がる。
「あ……、そういえば、1年になりますね」
 透の言葉に、何が、と目で問うたはとりに透は微笑む。
「はとりさんに、初めて逢ってから、もうすぐ1年になります。早いですね」
「早い一一そうだな」
 駆けるように時が過ぎるのを最近感じる。人であろうとせず、機械のように過ごしていた。動く心はもうないと思っていた、なのに、止まっていた心が緩やかに動き出したのかもしれない。
 佳菜と過ごした日々、自分の傍から消えた佳菜を想う心も、痛みと共に思い出していく。その痛みすらも忘れていたのか、とはとりが驚くくらいに。
「紫呉の部屋に行く一一、ごちそうさま」
 飲み終わった湯呑みを律義におぼんの上に乗せる。くすぐったそうに、笑みを浮かべて、透はぺこり、と頭を下げる。縁側から紫呉の部屋に向かうことにする。最近足繁く通わされているので、勝手知ったる家、だ。
 歩き出そうとして、ふと足を止める。振り返ると同じ場所に透が自分を見送るようにまだ、いた。振り返ったはとりに、首をかしげる。
「秋は、好きか?」
 何故か、聞きたくなった問いを投げると、案の定、笑顔を一緒に答えが返ってくる。
「はい! 好きです!」
 ざあっっ。
 瞬間、舞い落ちた葉が、ふわり、と舞い上がるほどの風が吹き抜けた。
 その風にまだ早い冬の訪れを感じて、
「季節の変わり目には気をつけろ」
 丈夫そうに見えて、実は風邪を引きやすい透に、はとりが云う。
「――はい! 気をつけます!」
 そんな元気いっぱいに云われれば大丈夫だろう。
 思わず笑ってしまうほどの答えに安心して、はとりは紫呉の部屋に向かった。
 透は、はとりが背を向ける寸前に見せた、目までも優しい笑みに、呆然と立ち尽くして、しばらく動くことが出来なかった。
 END