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「……怖いのか?」
はとりの声に過剰にも身を強張らせて夾は反応する。
「怖い訳ないだろ!? 別に注射くらい……」
ここは夾の部屋。風邪をひいて寝込んだ夾の診察に来たはとりの診断は「注射1本で完治」と云うものだった。
慣れた手つきで注射を取り出すはとりの手の動きを追いながら、物心ついてから比較的医者要らずの生活をしている夾の心臓は今にも破れそうだった。
必要無いから、気付かなかったけれど、実はかなり怖い。
紫呉に、「はーさん、注射で失敗するから」とこの家でことあるごとに透に教えているのを良く耳にしているからはとりを信用出来ないというのもある。
それ以上に、注射のピストン、それを引いて、夾に処方すべき液体を注入しているところ、終わって細い針から滴る液を見ているとなんとも言えない気持ちになってくる。
「――腕を」
そんな内心汗だらだらの夾に気付かないのか、はとりは苛立ち気味に云う。
しぶしぶ腕を出す。Tシャツだから特に腕をまくりあげる必要はない。
夾の腕にチュウブを巻き、細い針を当てようとしたその瞬間。
「はーさんの注射は痛いよう? 嘘じゃないよ、僕まだ痕が残っているもの。ほら、夾くん、見てみる〜〜〜?」
部屋をばん、と開けて、紫呉がそう言いながら入ってきた。夾はもちろん驚いたが、はとりもその例外ではない。
「診療中に入ってくるな」
そうは言うものの、冷たい感触がして腕を見ると、夾の血管に入れられるべき液体が腕の皮膚の上にしたたり落ちている。
気付いて、はとりが手早く拭う。
「針、入れとかないで良かった」
呟きは紫呉の耳には入らない小さなものだが、夾の耳にはしっかり入っていた。
夾の不安はますます確実なものになっていった。
「飲み薬で、直んないのか?」
問いにはとりが顔を上げて、夾を見る。
「夾ちゃん、怖くなったんでしゅか?」
わざと幼い言葉でからかう紫呉に小さく舌打ちして、有無を言わさず部屋から追い出して、夾が滅多にかけない鍵をかける。
「薬で、直る」
夾に向き直って、はとりは言う。それなら、なんで注射なのか、と夾は問おうとした。その先手をはとりに取られる。
「本田くんは、丈夫そうに見えるが、実は風邪を引きやすい体質だ」
言葉を切って、わかるだろう? と答えを促すように夾を見る。
透という存在は夾にとって弱点だから、そこを突かれたら、返す言葉を瞬時に失う。
つい先日、透が風邪を引いたのを目の当たりにした夾だったから、なおさらだ。自分の風邪が長引けば同じ屋根の下で生活している彼女に被害が及ぶ可能性は大きい。
――どうせ、痛みは一瞬だ。
しろよ、と促す言葉も言えずに黙って夾は腕を差し出す。
新しい液を入れ替えて、はとりは夾に注射をした。
夾の熱および諸々の風邪の症状は、その日の内に全て無くなった。
「どういうことだよ!!」
はとりの処方から2日、まだ夾が学校に行けずにいる。その原因は風邪ではないが、はとりがまた大きな医療カバンを持ってやってくる。
「薬が効き過ぎたみたいだな」
紫呉みたいに終止からかう口調でも、謝罪の気持ちがある訳でもない淡々としたはとりの口調に、夾の苛立ちは頂点に達する。
「効き過ぎたからって、いつまでもこんな姿でいなきゃならないのかよ!! ふざけんな、はとり!!」
注射をされて風邪の症状が無くなると共に、夾は人間の姿に戻れなくなった。状態がひどい時は時折変身したが、熱の痛みが引いた時からずっと戻らない。
別に学校というものに透のように生きたい訳でもないから返って気楽だったが、それが人間の姿であればの話だ。
ずっと猫の姿なら、飽きてくる。
その不満を誰彼構わずぶつけてきたのだが、ついにぶつけるべき相手が自分からやってきて、夾はここぞとばかりに怒りをぶつけた。
「では、もう1回注射をしたら、戻る」
どこに根拠があるのかわからないが自信たっぷりに云って、カバンから注射を取り出す。
「やめてくれー!!」
と、叫んだが所詮猫の姿だ。どう足掻いても適わない。
「大人しくしないと、針が体内に残るぞ」
ご丁寧に最後通告までされたら、大人しくしているしか道はない。
かくして、まだ苦手意識の取れない注射を2度する羽目になって、翌日、夾はようやく人間の姿を取り戻した。
ちょっとした不注意で引いた風邪だったので、2度と注射はされない、と自己鍛練に励む夾であった。
実はその鍛練での格好が風邪の原因となっていることも気付かず……今日も鍛練をする。
END
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