きみに優しい夜が降る




 こっそり見ていた。
 ムッティとハリィが話をしているところを。
 内容は盗み聞くまでもなかったけれど、もうすぐムッティが本当にムッティでなくなるから、少しでも『ボクのムッティ』を見ていたかった。
 『ボク』という子供を産んだ事実は僕が生きている限り残るのに、ムッティの心から事実は消去されてしまう。
 哀しい顔しか思い出せないけれど、――これからのムッティが倖せであるように。
 ボクは祈った。

 ムッティがいなくなると、ハリィはためらいもなく、ずっと僕がそこにいたのがわかっているような感じでまっすぐにボクの方を向いた。僕は思わず身を竦ませる。
「――見てたのか?」
「うん、ごめんね。ハリィ。記憶を消去するところまで……、それまでは僕のムッティだったから」
 ボクの言葉にそれ以上怒る気はないというため息のようなつぶやきをハリィは漏らす。
「そうか」
 おして、ぽん、と軽く僕の頭に手を置く。あまりにハリィが優しい目でボクを見るので、びっくりした。
 ――ハリィの手は、なんだか落ち着くなあ。
 僕はうっとりと目をつぶる。
 そして手から伝わる温度を感じる。他人の温度って不思議だ。こうして触れているだけで、、心が落ち着く。ハリィとボクなら、多分ボクの方が熱が高い(ハリィは平熱が低いって前に云ってた)のに、それでも暖かく感じる。
「ハリィはあったかいね。僕はムッティにこうしてもらったこと……なかった。このくらいなら、僕は変身しないのに、こうして触ってもらったこと、なかった」
 すっ、とハリィの手が頭から、ボクの頬に移動した。皮膚に直接触れるから、僕はハリィの手の感触を感じていた。
 ハリィの手は、目のあたりをしきりにこするようになでている。
 一一どうして、かな?
 まるでなにか拭っているみたい……! そうしてボクは気付いた。
 自分が泣いていることに。
 ばっ、とハリィから身体を離す。
 ――今日から、強く、ならなきゃ、いけないのに……!
 巣から落とされた小鳥が生きようとするように。
 だから目のあたりを手でごしごしとこする。それでも濡れた感覚はちっともなくならない。目の奥にまだ涙が残っているような気がしたけど、強くなるためにはそういうのにも耐えなければならない。
 そんなボクをハリィの腕が、ぐんっと強く引っ張る。
「――っ!?」
 びっくりした僕の目に飛び込んできたのは、白。そして頭にさっきまでのあたたかい感触が降りてくる。
 頬に触れるあたたかさがハリィのものだって気がついて、僕はハリィに抱きしめられるいることに気付いた。
「――俺は、見ていない。そして、聞いてない」
 ハリィがなにを云っているのか、最初は気付かなかった。ただ、泣いて良いんだってことはわかった。
 ここは檻の中だから、声を出すことは出来なかったけれど。
 煙草の匂いのするハリィの胸は、僕の涙で濡れてしまったけれど、すごくすごくあたたかかった。
 ――それが、ボクの一番古い、記憶。

「さみしいって気持ちはどこから来るんだろうね」
 あの日から何年か経って、ボクはハリィと過ごす時間が他の誰といるよりも多くなった。ハリィはムッティのことがあってから、僕に対して負い目を持ってるみたいで、独りで過ごす夜が多いボクがハリィのところに潜り込んでも滅多なことでは追い返したりしない。
 今日もそんな風にハリィのベッドに潜り込んでいる。
 ハリィの良心につけこんでいる一一のかな、うん、独りでいると胸をかきむしってもどうしようもないくらいに耐えられなくなる時がある。だからその時だけお邪魔してる。ハリィは毎日のように来ても文句云わないけど、一番ひどい時うんと甘えさせてもらったから、今は遠慮してる。ちょっとだけど。少しはボクもハリィから自立しなきゃね。そう思わせたきっかけもあるんだけど。でももっと大きくなった時に、『大人』になれないから。大切な人と自立は、違うんだ。
「……さあな」
 ハリィの言葉にボクは驚く。ぼんやりと呟いた言葉。それは言葉が返って来なくても聞いてくれることを知っていたけれど、滅多にない返答が来るとは思わなかった一一それもボクが無意識に呟いたことで。
 ボクらは大抵ボクばかり喋っていてハリィが聞き役で、返答がない時があるけど(その方が多いかな)、ボクは気にしない。ちゃんと聞いてくれるのはわかっているから。
 しんと沈んだ場に慣れなくて、僕はその空白を埋めるように喋っている時もある。
 でもハリィといる時は違う。あまり怖くない。けれど、本当に沈黙が怖い時はボクがかなりギリギリのところにきている一一そんな風に思う。
 ハリィのところに来た時は怖い訳じゃなくて、子供が一日の報告を親にいているような、そんな感じ。まずは今日1日あったことを話す。話し終わると、沈黙が来る。その沈黙に吸い込まれるように、いつもなら眠ってしまうんだけど、今日の出来事の中でハリィに云っていないことがずっと心に引っ掛かっていて、ボクはつぶやきを言葉にした、んだと思う。ハリィの言葉にびっくりしてしまった。
 ベッドから見える机に向かった背中がさみしそうで、ボクは言葉を継いだ。慰めるとかそういうんじゃなくて、ハリィじゃなくボクの心の穴を埋めるように。僕は自分にしてほしくないことはしたくないから、自分に向けて話してみたら、ハリィの胸にも言葉が届くかなって。慰めようとして空回ってしまうことがボクの場合、多いから。慰めるなんて、大それたこと、ボクには出来ない。それでもなんとかしたいと思うから、僕は自分に語りかける。慰められた、と云われることはあまりないけど、不満は云われなくなった。
「どこにその気持ちがあるのかわからないのに、人はさみしいって思うんだね。不思議だね」
 ハリィがボクの方を振り返る。
「そうだな」
 そう云って、唇の端だけ上げて笑うと、机の上を片付け始める。
「――もう、寝るの?」
「ああ」
 机のスタンドのスイッチを切ると、ハリィの寝室はベッドサイドのスタンドの明かりだけになる。
 するり、とハリィがベッドに入ってくる。変な趣味じゃなくて、誰かが一緒に寝てくれないと僕が壊れてしまうから、ハリィが寝てくれるのだ。別にハリィのベッドってだけで大丈夫だったりするから、ハリィが遅くまで仕事しても気にならない。その仕事は大抵寝室でやってくれるから(僕が来た時だけだと思うけど)、ぐっすり眠れる。それに僕は結構ハリィの仕事をしてる時の音って好きだ。人のいる空間はすごく落ち着く。ハリィは他の人に比べて無表情(ってみんな云うけど、そうかなあ?)らしいけど、ハリィの周りの空気は優しいのに。だからハリィといると自分の心もなんとなく優しくなれる。それは多分ずっとボクには与えられていた空気だけど、いつもそんな空気になったのは、カナと心が触れ合うようになってからだと思う。それまではボクの予想だとハリィと長く時間を共有している人じゃないと知らないんじゃないかなあ。ハリィの優しさはすごくわかりにくいところにあるんだ。でもその優しさがすごく深いことも知っている。優しさがわかりにくい分、傷ついたこともわかりにくいハリィはすごくもったいないと思う。けど、それがハリィっていう人間だって、もう、知っているから。
「あたたかいな」
 ちょっと広めのシングルベッドは、僕が年齢に適していない身体のために特に不都合はない。けれど広めといっても、1人用のベッドだから、身体はぴったりとくっついているけど。枕は2つ。僕が遊びに来た時に出してくる、ボク専用のやつ。
 中でぐるぐる寝返り打っているうちに眠るのに必要以上の温度で、ボクもちょっと熱いと思う。でも上に掛けるものがないと、落ち着いて眠れないのも本当。ハリィの言葉にボクはちょっと申し訳なさを感じて謝る。
「ボク、体温が高いから。寝れなくなったら、ごめんね、ハリィ」
「……気にするな」
 ぽん、とボクの頭を軽く叩く。そして互いに「おやすみ」と云って、沈黙が降りる。 
 ――こんな日が、また来るとは思わなかった……、な。
 いつもはあっさりと寝ついてしまうのに、僕の意識は妙に冴えたままだ。
 それはきっと、ハリィが『独り』になってしまうとは思わなかったから。
 ムッティの記憶をハリィが消してから、僕はずっとこうやってずっとハリィの甘えていたけれど、ハリィが助手のカナと仲良くなってからは、ちょっと行くのをやめにしてた。カナが嫌いな訳じゃない。カナとはハリィのところで何回か話したことがある。明るくて優しい、そんな人。ボクはすぐ好きになった。だから、好きな人同士が仲良くしているのを邪魔する気はなかったんだ。
 でもどうしても駄目な時に、無意識に行っちゃった時があった。その時はハリィもカナも優しかった。カナは、まだ書類整理の残っているハリィの代わりに、ボクをハリィのベッドに寝かせた。カナの言葉を覚えている。恋人との時間を邪魔されたのに、怒るより、遠慮するボクに呆れたように、それで口調はすごく優しかった。
「もう、子供なのに、大人に気を遣うんじゃないの。紅葉くん、そうやって気を遣ってくれるのは嬉しいけど、紅葉くんが自分に負担を掛けてまで隠されるのは、部外者かもしれない私が云うのもなんだけど……淋しいわ」
 毎日のようにハリィのところに来るか、カナが現れて仲良くなって行くのを見てぱったり顔を見せないか、両極端なことしか出来なかったボクは、カナの言葉に目が醒める想いだった。
「……カナ。ボクね、毎日眠るのが、淋しいんだけど、でもね、ボクはもう少し心が強くなりたいんだ。そう思っても、1番つらい時はここがかきむしられる位、苦しい。だからね、そういう時だけ、ここに来るようにする」
 するとカナは、そっとボクの頬に手を当てて、それからキュッとボクを包み込むように抱きしめた。会話が聞こえるくらいのところにハリィがいたけれど、カナの行動を見て止めなかったから、ボクたちのこと知ってるんだ、と安心してカナの体温に触れる。ボクたちは不用意に女の子に触れられないから、こういう貴重なチャンスは嬉しい。ハリィの体温も大好きだけど、女の子の体温はあたたかくて、やわらかい。
 体温はすごくボクを落ち着かせてくれるから、こんな体質なのに、こんな体質だから体温をもらえなかったけれど一一誰かが、特に女の子がボクに事情を知ってても触れてくれるのは心が踊るくらいに嬉しい。
 変身したボクにカナが云う。
「大人になるには時間が必要で、心が強くなるにも時間が必要だと、私は思うわ。私もまだまだすごく子供だもの。だからね、紅葉くん、急いで大人になる必要はないの。つらい時に我慢しないで。大人だってつらい時は誰かにすがったりするのよ。もっと大人な歳になったら、いやでも我慢する時が来るわ。でもせめて今は我慢しないで」
 カナの言葉が嬉しかった。ボクはウサギの姿のままで、ポロポロ泣いた。ああ、こうやってカナはハリィの心に触れたのか。
 その日からちょっと時間をおいて、カナはこっそり教えてくれた。
「はとりには内緒だけど、紅葉くんが来なくて淋しそうにしてたわよ、はとり。だから紅葉くんが自分を責めることはないのよ。人ってね、1人では生きられないし、1人でバランスは取れないの。紅葉クンははとりに迷惑掛けてるって思っているだろうけど、頼られることではとりが自分を肯定出来たりしているかもしれない。……後の話は私の推測だけど」
 そういうものなのかな。カナの話はその時のボクには良くわからなかったけど、今なら少しだけわかる。
 ――ボクにもいつか、こういう人に出逢って、恋人になりたい、な。
 そんな風に願いながら、ハリィとカナの倖せを願った。
 ――その倖せは長くは続かなかったけど。
 カナを失って、荒れたハリィを僕はそばで見ていた――多分誰よりも長い時間。
 やつあたりされたこともある。やつあたりっていうのかな、僕がそばにいることでずっと負い目を感じていたハリィの本音。
 それでも、僕は普段ハリィといる時のように、一緒にいた。
 ハリィは云った後自分を責めたと思うけれど、ハリィがそう思っていたのはなんとなくわかっていたし(そのくらい同じ時間を共有していたんだろう、さすがに空気でわかるようになったと思う。全部は見えないけど)、ボクはそんなに(全然とは云えないけど)傷ついていない。そういう強さはハリィといることで自分の居場所を見つけたから、とわかっていたから、なおさらハリィのそばにいたかった。
 人と一緒にいることで、なんとなく落ち着くこともある。ボクはその場所を求めて、ハリィにすがったけれど。ハリィは人にすがったりしない(したとしてもそれは以前のカナだけで)から、僕から会いに行った。ハリィの負い目につけこんで、甘やかしてくれたその代わりに。僕がそばにいるくらいじゃ、ちっとも返せやしないけれど、それでも今ボクに出来ること。でも、元気になったハリィにはその時のことを聞いてないし、云わないからどう思ったか知らないけど。

 1年経った今、ハリィは見た目は普通になったけど(カナがいなくなった直後、慊人の前だけで平然とした振りをしていたのはおいといて)、カナの優しさを今でも忘れないボクを基準にしてみると、きっと忘れていないと思う。うん、ずっと忘れないんだろうな。
 ボクは一時期、『化け物』だった。ムッティが僕のことをそう云ってたから、ボクは自分が『化け物』だと自分で思っていた。
 その考えを言葉にして否定しなかったけど、「人間」として接してくれたのが、ハリィだった。パパもたくさんたくさん限られた時間の中で愛してくれたけど、ハリィがいなかったらボクはもっと壊れていたのかもしれないな、と思う。
 ハリィにとってカナは、そういう存在だった、とそばで見ていて知っているから、ハリィがカナを忘れることは、ボクがハリィのことを忘れるくらい有り得ないことだって知っている。
 いつかまたハリィがカナみたいな女の人に出会えたらいいけど、それ以上にカナがハリィに与えていたあたたかい気持ちをハリィが体験出来るといいな。
 ボクとハリィは慰め合うのは、同じ傷をなめ合うようなことだって知っている。それでもボクはハリィにたくさん、癒されたけど。その逆は、ない、と思う。
 だから、十二支じゃない誰かに頼ってしまうけれど一一。
 そんな人が現れるよう、珍しくボクより先に寝ついたハリィの背中を見て、祈った。 end