|
俺の手は、身体にはついているが、俺の意志と関係ないところで、動かす時がある。滅多に無いだろう、その能力が発揮される時、一一心底この能力を憎む。
――この能力を行使する権利は俺には無い。
そう、いつも思うけれど、『命令』されてしまえば、俺は使うのだ。
自分の意志ではない――そう周りにも、自分にも云い聞かせたかったけど、結局その『手』を動かしているのは、間違いなく『俺』だ。
いつも、罪の意識に苛まれながらも、『命令』があれば、誰であろうと記憶を消す。
俺はそんな自分が嫌いだった。
――けれども、逃げ道は今のところ、ない。
コンコン。
ためらいがちに叩かれるその音に、俺は「入れ」と云う。「勝手に入っていい」と云っているのに、俺が何も云わないと絶対に入って来ない。
戸が開く。一歩入ると、人なつこい笑顔を見せる。
「こんばんわ、ハリィ」
その笑顔がいつも境界線ギリギリにあることを知っていながら、俺はその挨拶に一度も返答したことがない。用件だけを云う。
「今日は仕事があるから、寝るのは遅くなる」
「うん、わかった。じゃ、先に寝てるね」
紅葉は俺の言葉を飲み込むようにして、笑むと身を一歩後退して戸を閉める。少ししてぺたぺたと紅葉特有の足音が廊下から聴こえ、戸が開いて閉まる音がすると、消えた。
俺は机に集中する。
だが、いつも紅葉が来た後はぼんやりと眺めているだけで、集中出来ないことを知っていた。
――彼の母親の記憶を消したことがある。
異性に抱きつかれると十二支の動物に変化してしまうと云う『呪い』を受けた俺たちに肉親の対応は様々で紅葉の母親は紅葉を産んだと云う事実を受け入れようとしなかった。そうして精神が破壊されて一一記憶を消すことを『命じ』られた。
その場面を見ていた紅葉は幼い少年でありながら、気丈だった。だが、独りで寝ることを強いられたため、紅葉は彼の母親とは違いひっそりとその精神が壊れていった。
ある日、過呼吸で運び込まれて、俺はその事実を知った。
そして、同族同士、彼になにが一番必要かも知っていた。
――人の、体温だ。
気丈に笑った紅葉の顔を思い出すと、胸が張り裂けそうになる。
「ムッティを、助けてくれて、ありがとう」
そう云った言葉に嘘はなかったけれど、母親に「要らない」と云われた子供に心の傷がつかない訳がない。その後、紅葉はたくさん俺の胸で泣いたけれど、傷がそんな短時間で癒えるはずがない。
なんてあさはかだったろう、と思う。同族だからわかりそうなものだが、いまいち人の心を気にしない面も俺にはあるから、すっかり忘れていた。
なんてあさはかだったんだろう、と思う。同族だからわかりそうなものだが、いまいち人の心を気にしない面も俺にあるから、すっかり忘れていた。
――立場的には、俺が適任だろう。
決して「親」にはなれないけど。最低限に今の紅葉に必要な「体温」ならわけられる。
「眠れなかったら、俺のところへ来い」
きょとん、とした表情で紅葉は俺を見て、けれどすぐに丸く見開いた目は真摯な光を帯びて、
「毎日でも、いい? ボク、いま毎日眠れないんだよ?」
ずっと隠してきただろう事を云った。俺にまで隠すんではないだろうか、と危惧していたので正直少しホッとした。
「俺には勉強があるから、遅くに寝る事もあるけど、それで構わなければ」
紅葉は、にっこりと笑う。俺はおそらく初めて、彼の心からの笑顔を見たような気がした。
「――ありがとう、ハリィ」
思えばあれは、罪滅ぼしだったのかもしれない。
母親に子供である紅葉の記憶を消した一一、それは決して俺の意志ではないけれど、やはり俺の『手』に罪は残る。
俺と紅葉はあの日からほぼ毎日俺のベッドで一緒に眠るようになった。
体温をわけてる気分はない。むしろ紅葉の暖かい体温が俺を癒してくれている気がした。
だから最初の時(これは先入観でだが)以外紅葉と眠る事を嫌だと思った事は一度もない。
紅葉は一時期、ぱったりと来なくなった事がある。
俺が助手の佳菜と恋仲になってからで、彼なりの配慮だったのだろうが、佳菜はそんな事を気にする女性ではなかった。むしろ俺から事情を聞いて、ここに来なくなった紅葉を心配していた。俺は紅葉の意志に任せようと思っていた。だが思い出す日常にいつもいた紅葉がいないとなると、意外にもの哀しい。佳菜とは別の存在感があったから、彼女が穴を埋める訳でもなかったが、俺はその方がいいのかもしれないと考えていた。
その紅葉が自分の精神の限界を越え、ついに俺のところへやって来た。
追いつめられた様はかつての過呼吸よりひどく、俺はひどく驚いた。あれより数年ほど経っている事が駄目でも「まだ大丈夫」と云い聞かせて我慢していたのは明白だった。
よろよろとやって来て、困ったように笑って、
「ごめんね、ハリィ」
と呟くような声で云って意識を失った紅葉を見て、胸が締めつけられた。
「やっぱり、紅葉くんに会いに行くべきだったんだわ!」
佳菜は幾度か俺にそうするように促していたのだ。それを拒んでいたのは、多忙だったせいもあるが、時間が全く取れなかった訳ではない。あの時頷いて行動していれば、と悔やんだ。
俺は紅葉を抱え、寝室に運んでベッドに寝かしつけた。夜だったこともあり、仕事はあと寝室の机でも処理出来る範囲だったので資料を佳菜に持ってくるように頼んだので、佳菜が来るまで俺は紅葉の寝顔を見ていた。
――精神的にやつれている……。
呪いとは云え、こんなに幼い頃からそのせいでこんな風に深い傷がついてしまうことに、やはり理不尽さは否めない。けれど、それを口に出して、慊人にぶつける勇気はない。
「はとり」
声に振り返る。佳菜が書類を持って、立っていた。その目に先ほどまでの責める光はない。
「悪かったな。俺は仕事に戻るから、佳菜はここで紅葉を見てくれないか?」
俺は立ち上がって佳菜から書類を受け取る。俺の言葉に佳菜は驚いたように俺を見る。
「――構わないの?」
俺は頷いた。佳菜がいてくれた方が紅葉にはいいのだ。これからのためにも。
「構わない。いっそのこと、紅葉を抱きしめてやってくれ。云っただろう? 彼を直す1番の薬は処方箋ではなく、愛情であり体温だと」
そこでようやく、佳菜は納得して笑顔を見せた。
「わかったわ」
本家と分家ということもあり、その大きなへだたりに佳菜がたまに変な態度を取ることがあるが、紅葉のことに関しては佳菜が正しかった。佳菜は十二支だということ以上に俺に足りないものを気付かせてくれる。
そして俺の代わりに紅葉を見た佳菜は、無意識にここを訪れたこと(それを聞いて驚愕して、本当に安心出来るまでは紅葉が来ない時は彼を訪れようと誓った)を詫びる紅葉を優しく抱きしめた。
それから紅葉は自分の精神に無理せずに、夜眠りに来たり、佳菜と遊ぶために来たり、昼にひょっこり現れるようになった。2人でいる時は心が休まったが、3人でいる時は楽しかった。佳菜も俺も紅葉を疎ましいと思ったことはなかった。それからの佳菜との日々は紅葉なしで語れないことが多い。
「家族みたいね」
佳菜がそう云って笑った。恋人同士の時間を奪われなかったことで腹を立てなかった原因はまさにそこにあるのかもしれないと佳菜の言葉を聴いて思った。
――佳菜がいた時間は短かったけれど。
佳菜がいなくなって、人前では平気な振りをしてた。けれど俺は自分が自分でない感覚をうっすらと感じていた。
そんな俺に、紅葉はずっとそばにいた。俺が今まで癒していたと思っていることを返すためだろうと、容易に察せられた。
「俺はおまえの母親からお前の記憶を消した。ずっとお前と一緒に寝ていたのは、それが俺の負い目だったからだ。誤解するんじゃない。だから紅葉、俺のそばにいるんじゃない………!」
精神状態ギリギリで覚えている紅葉に云った言葉。もっとひどい言葉は俺の手じゃなくて、病んだ精神が俺の脳から消し去った。
それでも、彼は変わることなく俺のそばにいた。そんな紅葉の強さは、俺にはない。
――それが大きな救いになったことは、わかっていた。だからなおさら彼にあんな言葉を投げつけた自分が許せない。
紅葉が俺を許しているのがわかるから、なおさらだ。
俺は立ち上がる。机の書類を集めて、戸を開け、きっとまだ眠っていないだろう紅葉がいる寝室へ向かう。
仕事をしていても、その音が安心するから一一、そう云った紅葉のために。
入ると、毛布にくるまった紅葉が、目をこすりながら、俺を見た。
「寝てたか?」
「ううん、ぽわあっとしてたけど。ハリィのベッド、寝心地いいね」
まどろむけれど、熟睡しない紅葉を知っているので、その言葉は本当だろう。
「俺は仕事をするからな」
「うん、頑張ってね、ハリィ。おやすみなさい」
俺は椅子を回転させて、紅葉を見た。
「おやすみ」
いつかこの関係に、終焉は来る。
その時は、紅葉が倖せでいるように一一俺はこの瞬間、いつも願う。
end
|