1.悪夢
「うああぁぁぁ…ん…うああぁぁぁ…ん…。」
少年は暗い森の中、ただ独りで泣いていた。
月は雲に隠され、歩くことすらおぼつかない夜。このような夜にダキアの森の中を歩くのは、自殺行為とも言えるであろう。
辺りに立ち込めるのは、血の匂い。
「ううっ…僕が…僕が悪いんだぁっ…。」
十歳程に見える少年は、まだあどけない顔をクシャクシャにしながら泣き続けている。しばらく洗っていなかったのか、その顔は泥と煤にまみれて浅黒くなっていた。ともすれば、短く切った黒髪とともに暗闇の中へ溶け込んでしまいそうである。
「ごめん…ごめんよ…母さん…。」
彼の目の前には、一人の女性が横たわっていた。母さん、と呼びかけられただけあり、この女性も少年と同じつややかな黒髪を長く伸ばしている。静かに目を閉じ、穏やかな笑顔を浮かべたその顔は、あたかも月の女神のような美しさであった。
だが、その左胸に突き立った一本の矢が、女神の運命の終わりを残酷に告げていた。純白の神官衣が、今や薔薇色に染まりつつある。
「うああぁぁぁ…ん…うああぁぁぁ…ん…。」
少年はいつまでも泣き続けていた。いつまでも、いつまでも。
いつまでも…。
2.目覚め
目を開けると、見慣れた白い漆喰の天井があった。じっとりとかいた寝汗に思わず顔をしかめる。窓から差し込む光は、既に正午が近いことを告げていた。
「よぉ、ようやく目が覚めたかい。」
唐突に声をかけられ、ゆっくりと体を起こす。重そうに頭を回すと、いかにも傭兵風の体裁をした若い男が、薄笑いを浮かべながらこちらを見やっていた。まだ成人してしばらくしたばかりであろうか。少しひねてはいるが、少年のような笑み。どの町にもいるようなガキ大将を、そのまま大きくしたような印象の男である。
「随分とうなされてたみてぇだが…またいつもの夢ってやつかい?」
軽くすくめられた男の肩から、燃えるような赤色の髪が背中へと流れ落ちる。
「…ああ…。」
常日頃から無愛想だとよく言われるが、それに輪をかけたような無愛想な返事を送る。
「難儀なもんだねぇ…。まぁ、どんな夢かは聞くつもりはねーがな。」
赤髪の男は大して気を悪くした様子もなく、先程まで座っていた椅子に再び腰掛け、チャリチャリと金貨の枚数を数え始めた。
「また…あの夢だ…。」
ベッドに座ったまま、額に手を当てつつ深い溜息をつく。
最近になって、頻繁に見るようになった夢。少年の頃の、思い出したくもない出来事。
消し去りたくとも消し去る術のない、心の傷。
今日もまた、憂鬱な一日になりそうだ…。
「相変わらず暗ぇ顔してんなぁ。」
ふと顔をあげると、赤髪の男がバサリと上着を投げてよこして、ニヤリと笑った。
「まっ、とりあえずメシでも食いに行こーや。なぁ、シヴァ。」
「…ああ…。」
あまり気乗りはしなかったが、相棒の誘いを無下に断る気にもなれず、シヴァは重い腰をあげて身支度を始めた。
うまく相棒を誘い出せたことに満足したのか、へへんと鼻を鳴らして赤髪の男が言った。
「たまにはこのヴィッシュ様がおごってやるぜ。」
真昼の太陽がじりじりと首筋に照りつける。遠くでギャアギャアと鳴く禿鷹の鳴き声が、更に暑さを掻き立てているようだ。乾燥した風が吹くサバンの町の大通りを、シヴァとヴィッシュは並んで歩いていた。
「しっかし、この間の仕事はちょろいもんだったよなぁ。」
ヴィッシュは先日までやっていた隊商の護衛の仕事を思い出していた。
「たいした距離でもなかったし…。途中で一度襲ってきた盗賊達も、俺の『風の剣』の一薙ぎで、ケツまくって逃げて行きやがったしなぁ。楽な割には、結構な報酬だったぜ。」
ケラケラとあげる高笑いに、行き交う人々がビクッとして二人から遠ざかる。
「まぁ、俺達二人に敵はねぇってわけだな。」
ヴィッシュは満足そうにうなずいた。
ヴィッシュとシヴァはこのサバンの町で傭兵稼業を営んでいる。弱冠25歳ながら、二人の名はこの近辺では広く知られ、ヴィッシュは『サバンの赤い風』、シヴァは『サバンの黒い炎』という通り名で呼ばれ恐れられていた。通り名の由来は、二人の外見と共にそれぞれが持つ魔法剣にもあると言えるであろう。
ヴィッシュの持つ『風の剣』の一振りはつむじ風を巻き起こし、巻き込まれたら最後真空の刃に切り裂かれ、血飛沫がつむじ風を赤く染める。彼自身の赤い髪は、実は手にかけた者の血で染め上げているのだ、と噂されるほどであった。
また、シヴァの持つ『炎の剣』の一振りは炎を巻き起こすのだが、不可思議なことに彼の巻き起こす炎は黒い炎なのである。その剣だけが持つ独自の力なのか、それとも彼が持つからそうなるのかは定かではない。いずれにしろ、黒髪に黒ずくめの服という出で立ちは死神を連想させ、人々から恐れられていた。
軽そうだが親分肌のヴィッシュと、無愛想で人を寄せ付けない雰囲気のあるシヴァ。二人の出会いは、ある仕事で傭兵仲間として出会ったのが最初であった。あまりにも共通点がなさそうな二人であったが、ある出来事を通してお互いの力を認め合い、それ以来組んで仕事をしている。幼くして両親を無くし、孤児として育ったという環境も、通じ合うものがあったのだろう。
「おっ、この店にすっか。」
手ごろな食堂を見つけ、二人は中に入った。昼時なので賑やかであったが、二人が入るとともに一瞬ぴたっと会話が止まった。そして、声をやや落として再び会話が始まる。しかし彼等にとっては既に慣れた出来事であり、気にすることなく空いたテーブルに腰掛けると、それぞれ軽食とともにエールを注文した。
「おっと、そういやぁ…。」
ヴィッシュはふと思い出したように腰の皮袋を探り始め、金貨のぎっしり詰まった小袋を取り出した。
「この間の仕事の、お前の取り分だ。」
見ただけで相当な金額であることがわかる。これだけあれば半年は遊んで暮らせるであろう。だがシヴァはあまり興味を引かれた様子もなく、小袋の口を開けて金貨を三枚だけ取り出すと、その小袋をヴィッシュの手元へ押しやったのだった。
「俺は…これだけでいい…。」
ずる、とヴィッシュは、机の上についていたひじの上からあごをすべり落とした。
「お、おい、ホントにいいのかっ!?これだけありゃぁ、うまいもんは食い放題、女は抱き放題、それに武器防具を買ったってお釣りが来るってもんだぜ!?」
信じられぬという表情でまくし立てるヴィッシュを前に、シヴァはいつもと変わらぬ表情で一言つぶやいた。
「そういったものに…興味はない…。」
「そ…そうかい…。」
あきれ果てたような顔をしながら、ヴィッシュは浮かした腰を元の椅子に戻した。
「しっかし、お前も変わった奴だよなぁ…。いつもいつもこうじゃ、さすがの俺だって良心が痛んでくらぁ…。」
と言いつつ、しっかりと金貨の小袋を自らの皮袋にしまいこむ。
「つくづく思うんだが、お前は一体、何の為に傭兵稼業なんかしてるんだ?」
ヴィッシュが投げかけた問いに、シヴァはスッと目を閉じた。
「何の為に…か…。」
何の為に…。その問いに対する答えは、彼自身としては解っているつもりだった。何の為に…それは、復讐。愛する者を殺した、あの者達へ。そして、愛する者を殺した、自分へ…。
俺は死に場所を求めているのかもしれんな…。
そんな冗談めいた結論に至り目を開けると、いつの間にかやって来ていた料理に猛然と取り掛かっているヴィッシュの姿が目に入った。
「俺にも解らん…。」
今更のように返ってきたシヴァの言葉に、改めてヴィッシュは目を丸くして言った。
「本当に変わった奴だよなぁ…。」
3.出会い
二人が食堂を出たのは、もう日が傾きかけた頃であった。町外れの安宿へと帰る途中で、通りの脇に人だかりができているのを見かけた。
「嫌っ!放して下さいっ!」
「へっへっ、ねぇちゃん、ちっとくらい付き合ってくれたっていーだろ。」
若い女性が、いやらしい目つきをした二人の大男に絡まれている。人だかりを作っている者達も、しかめ面をしつつ誰一人として助けに入ろうとしない。ここ最近よく見かける光景である。
「へっ、相変わらず芸がないねぇ。もてない馬鹿の一つ覚えってやつだぜ。」
ヴィッシュは鼻で笑いとばすと、我関せずといった顔で通り過ぎる。シヴァもいつものように無視して通り過ぎようとした。
しかし、その女性の横顔がちらりと目に入ったとたん、彼の足がぴたりと止まった。
白い神官衣。長くつややかな黒髪。嫌悪に顔を歪めながらもなお美しいその横顔。
「お、おい、待てっ!関わるだけ面倒だぜっ!」
ヴィッシュの静止の言葉も甲斐なく、シヴァは咄嗟に駆け出していた。
走りながら、腰の剣をスラリと抜く。
次の瞬間、彼の剣先は暴漢の喉元でピタリと止められていた。
「は…?」
女性の腕を握っていた男は、突然起きた出来事に対応できず、間の抜けた声をあげる。
「その手を…放せ…。」
シヴァは静かに、しかし迫力のこもった声で言った。その剣先から染み出る黒い炎にあごひげを焦がされ、男はようやく我に返る。
「サ…サバンの…『黒い炎』…。」
その男の相方が、情けない悲鳴をあげる。
「ひっ…『赤い風』…も…。」
シヴァの後ろで、興味なさそうにそっぽを向いているヴィッシュの姿を捉えたのであろう。
「わっ…悪かったーっ!!」
二人の暴漢達は一目散に逃げ出していった。
しかし、シヴァの視線は既に二人にはなく、服の埃をはたいて立ち上がろうとする女性に向けられていた。
「あ…ありがとう…ございました…。」
ようやく顔をあげた女性と、視線が合う。
シヴァは息を呑んだ。
夕日に照らされたその女性の顔は、白い肌がやや朱色に染まって、幻想的な美しさを醸し出していた。真っ直ぐに腰まで伸びた黒髪は澄み渡った夜空のようであり、その瞳からは強い意志とともに限りない慈愛が溢れている。まだシヴァやヴィッシュと同じ年齢程でありながら、高原の湖水のような落ち着いた雰囲気。その姿を例えるなら、まさしく月の女神といったところであろうか。
似ている…。
全身を雷が走ったような衝撃を覚え、シヴァはしばし呆然としながらその女性を見つめていた。
「あ…あの…以前お会いしたことが…ありましたでしょうか…。」
じっと見つめられ、その女性は恥らうように顔を赤くしてうつむいた。貞淑な女性らしい。
その声でシヴァは我に返った。そして、頭を軽く振って自らに言い聞かせる。
「いや…そんなはずはない…そんなはずは…。」
彼は踵を返すと、再び帰路に着くために歩き出した。
「あっ、あのっ、せめてお名前を…。」
呼び止められるが、まるで耳に入っていないように早足で遠ざかってゆく。
ヴィッシュがシヴァの隣に並び、冷やかすような口調で言った。
「へっ、柄でもねぇ。気に入ったのか?」
「…。」
シヴァは何も答えず、黙々と歩き続けるだけであった。
ヴィッシュは軽く肩をすくめ、それ以上何も言わずに相棒の後に続いていった。
だが歩くシヴァの心中は、時化にあった船のように激しく揺れていたのであった。
「そんなはずは…。」
4.悪夢再び
ハァッ…ハァッ…。
暗い夜の森の中を、一組の親子が必死に走っていた。
このダキアの森の中は、鬱蒼と茂った木々の為に日中ですら薄暗い。ましてや今夜は、頼みの月明かりも雲に遮られて届かない。
「急げっ、シヴァッ!!」
父親と思しき人物が、低いながらも鋭い声をあげる。
ハァッ…ハァッ…そんなこと…言われたって…。
シヴァ、と呼ばれた少年は、胸中で一人ごちた。
「あと少しだから、頑張るのよ。」
隣を走る黒髪の女性から声がかけられる。
うん…わかったよ…母さん…。
息苦しく声をあげられないため、少年は無言でうなずいた。
くそっ…『黒鷲(くろわし)』の…奴等め…。
疲労の為ともすると朦朧とする意識の中で、少年は怒りを燃やした。
彼の父親は、トラキア半島では広く名の知れた傭兵であった。彼自身の剣の腕もさることながら、弱者を虐げるような輩には一切手を貸さず、時には圧政を敷く領主と戦う領民の肩を持つといった行いなどにもその理由があると言えよう。『モーニング・グローリー』(暁の勇者)の二つ名で呼ばれる強く優しい父親を、少年は尊敬し、将来は自分もかくありたいと心から願っていた。
その父の傍にいつも寄り添うようにして立つ母も、少年は大好きだった。
いたずらをして叱られて帰って来た時も、喧嘩に負けて悔し涙を流しながら帰って来た時も、何も言わずに温かな胸で抱きしめてくれた。
その穏やかで慈愛に満ちた目で見つめられると、いつも心の中のわだかまりがスッと消えていったものであった。かつては小さな町の教会の神官長を勤めていた程の癒し手でもあり、村人から慕われている母は少年の自慢だった。
だが、そんな少年の幸せな日々は、突如として奪い去られたのだ。
父の噂を聞きつけた盗賊団『黒鷲』の頭目が、彼を団へと引き入れようとしたのだ。『黒鷲』はここ最近ダキアの森を縄張りとして勢力を伸ばしていた新興の盗賊団であり、目的の為には手段を選ばず、女子供だろうと容赦をしないやり方は近隣の村々を震え上がらせていた。
少年の父は無論この誘いを断ったが、頭目はそれを見越していたかの如く、すぐさま彼の妻子を人質として奪った。やむなく彼は頭目の命に従い、ダキアの森のアジトまで来ることとなったが、その日のうちに隙を見て妻子ともども抜け出してきたのであった。
「うわっ!!」
突如として目前に広がった地面に顔をしたたかに打ち付け、少年の思考は停止された。考え事をしながら走っていたため、木の根に足を引っ掛けたらしい。
「シヴァッ!?大丈夫!?」
少年の母が駆け寄る。
「う…うん…大丈…うっ!?」
立ち上がろうとして力を入れた足に激痛が走る。転び方が悪かったのか、足首をくじいてしまったようだ。
母が無言で少年の靴を脱がせると、その足首はパンパンに腫れ上がっていた。
「これでは走るのは無理ね…。」
救いを求めるように夫に目を向ける。彼はしばらく目を閉じた後、意を決したようにつぶやいた。
「迎え撃つしかない、か…。」
その時だった。
ヒュン!」ヒュン!
少年の目の前を何かが高速に通り過ぎる。慌てて飛んできた方向を見ると、五、六人程の弓兵達が弓を引き絞っているのが目に入った。
「くそっ、もう追いついてきたかっ!」
舌打ちをしつつ素早く剣を抜く父。
「シヴァを頼むっ!!」
妻にそう一言告げると、烈風の如く追っ手達の元へと駆け出していった。
それに気づいた追っ手達が、慌てて矢を繰り出す。風を切って走る矢が、複数の角度から一度に襲い掛かる。
「ハァッ!!」
だが、裂帛の気合で放たれた少年の父の一撃は、飛び掛かる矢をすべて薙ぎ落とした。そしてそのまま返す一撃で、弓兵の一人の首を刎ねる。弓兵達の間に戦慄が走った。
「お前達の好きにはさせん…。」
一方、少年の母は息子に癒しの魔法ををかけるべく、皮袋の中から杖を取り出していた。
「魔法で少しは楽になるから…。」
片言呪文を唱えると、パアッと暖かな光が杖から漏れ出す。足首の痛みが徐々に薄れていくのを、少年は感じていた。
「父さん、大丈夫かな…。」
心配そうにつぶやき、必死に呪文を唱える母の横顔を見つめる。
ごめん…母さん…。僕が…転ばなければ…。僕が…もっと強ければ…。
キュッと目をつむると、悔し涙が滲んでいるのが感じて取れた。
やがて足の治療が終わり、母は顔をあげた。少し疲れた顔をしているものの、少年を見つめる目はいつもと変わらず穏やかで慈愛に満ちている。
ありがとう、母さん…。
少年が言おうとした、その時。
グサッ…。
少年はしばし目を疑った。
母の左胸に突き立った、一本の矢。手からこぼれる、癒しの杖。ゆっくりと倒れる、母。
一連の光景が、やけにゆっくりと目に映った。
母さん…。
頭の中が真っ白になったような感覚。
母さん…。
剣戟の音も、既に耳に入らない。
かあ…さん…。
純白の神官衣の胸元から広がる、真紅の薔薇。
「かあさぁぁぁぁぁーん!!」