7.そして、また
既に痛みは感じず、心地よい光を受けているような、漠然とした感覚がシヴァの全身を包んでいた。
これで…いい…。
不思議と穏やかな気持ちで心が満たされている。
こうなる…べきだったのだ…。これで…ようやく…。
シヴァの意識が、少年の日のそれと重なってゆく。
僕が…悪いんだ…。僕が…あの時…転んでいなければ…。僕が…母さんを…殺したんだ…。
少年は、今までずっと泣き続けてきた。母を殺したという罪悪感に苛まれ、それを償う手立てすら見つからず。
少年は母を殺した自分を憎み、自分を傷つけながら今まで生きてきた。そしていつの日か、自らの命を以ってしか罪を償うことが出来ないと思うようになり、死に場所を求めて彷徨うようになっていったのだった。
これでいいんだ、母さん…。
母が喜ぶ筈はないとは解っていたが、少年にはこうせざるを得なかった。そして、こうせねば自分が許せなかったのだった。
母の困った顔が頭をよぎり、少年は苦笑した。
ごめんよ…母さん…。でも…ようやく…母さんのもとへ…。
少年は目をつぶった。次第に意識が希薄になってゆく。
その時であった。
「しっかりしなさい!」
叱咤の声が、少年の頭の中に響く。
母さん…?
なつかしい、母の声。と共に、厳しい目をした母の顔が目の前に浮かぶ。
どうして…?なぜ、そんな顔をするの…?
少年は困惑した。
僕はただ…母さんに謝りたいだけなのに…。ただ母さんと…一緒にいたいだけなのに…。
少年の想いに、母は少し困った顔を浮かべた。
そして…穏やかな笑みを浮かべてこう言ったのだった。
「あなたは、悪くない…。」
どくん…。
少年の心に、何かが芽生える。
「生きて…。」
うっすらと目を開けると、一人の女性の顔が視界いっぱいに広がっていた。
額に玉のような汗を浮かべながら、必死になって癒しの呪文を唱えている。
宿を焼く炎の光を受け、薄紅色に染まる肌。呪文による負荷の為、眉間に眉が寄せられていながらも、なお美しいその顔立ち。頬にかかる、彼女のつややかな黒髪の感触が心地良い。
エルナ…。
シヴァはもう見間違えることはなかった。
彼女の膝に頭を乗せながら、彼女から流れ込む癒しの魔力を全身で受け止める。
体中の痛みが徐々に引いてゆく。痛みだけではない。ようやく訪れた春の温もりに溶け出す雪のように、心の中の何かが氷解してゆくのを感じた。
替わりに、何とも言えぬ開放感と安心感が広がってゆく。
「エルナ…。」
シヴァの呟きに気付いたエルナは、呪文の詠唱を止め、シヴァの顔を覗き込む。
「シヴァ様…。」
彼女の目は涙に濡れ、真っ赤になっていた。
「間に合って良かった…。」
エルナの顔に、安堵の色が浮かぶ。
「エルナ…。」
シヴァは、エルナの瞳をじっと見つめた。強い意志と共に、限りない慈愛が溢れるその瞳。
その瞳に、かつては母の面影を認めていた。だが、今は違った。
今まで誰に対しても感じたことのなかった感情。目の前の女性が、なぜか自分にとってとても大切な存在のように思える。
シヴァは初めて感じるその感情に戸惑いを覚えたが、素直にその気持ちを受け入れることにした。
と、エルナの目が驚きに見開かれる。
「シヴァ様…その…瞳…。」
そして、喜びの涙に満たされる。
二人はしばらく無言のまま見つめ合った。
シヴァが、エルナの顔に手を伸ばす。その手が、彼女の頬に優しく触れる。エルナは、ゆっくりと目を閉じた。
「エルナ…。」
その時だった。
ヒュン!!
風が、悲鳴をあげる。
そして。
グサッ…。
瞬間、時が凍る。
エルナの胸に突き立った、一本の矢。
あっ…という小さな悲鳴をあげ、エルナは倒れた。
「エルナッ!!」
シヴァは素早く身を起こし、エルナをかばうように身構える。
だが、二人に弓を向ける敵はいなかった。シヴァの目に入ったのは、弓を焼き切られたボウガンが一つ。宿を焼く炎が、発射されなかったボウガンの弓を焼き切り、矢が勝手に発射されたとでもいうのだろうか。あまりにも残酷な、運命の悪戯。
シヴァは優しくエルナを抱き起こした。幸い、矢は心の臓のやや下に外れている。だがエルナは女性であり、しかも大量の魔力を使った直後で、精神的に疲労しきっていた。傷口から流れ出る血が、純白の神官衣を徐々に赤く染めてゆく。
「エルナッ…!しっかりしろっ…!」
シヴァは我を忘れてエルナに呼びかけた。
やがて、エルナはわずかに目を開ける。
「シ…ヴァ…様…。」
そこまで言うと、苦しそうに顔を歪めてコンコンと咳き込んだ。
「もう…何も言うな…。」
シヴァは激しい後悔にとらわれていた。
俺が…悪いのだ…。俺が…エルナを…。
シヴァの胸中に、再び昏い思いが蘇ってくる。
「違う…の…です…。」
エルナの声に、シヴァは我に返る。
「ご自…分を…責め…ないで…下さい…まし…ね…。」
まるでシヴァの胸中を察したように、エルナが言う。
「エルナ…。」
シヴァは彼女の手を固く握り締めた。
「シ…ヴァ…様に…出会…えて…私…は…幸せ…です…。」
弱々しくも、にっこりと微笑んで見せる。
「あ…なたの…お役…に…立て…て…良かっ…。」
エルナの手から、力が抜けた。
「エ…ルナ…?」
ウソだ…。
「エルナ…」
目を…開けてくれ…。
「エルナァァァァァァァッ!!」
8.夜明け
サバンの街外れの小高い丘の上に、早朝の涼しげな風が吹いていた。夜中月を隠していた雲も、今は風にちぎられてまばらに棚引いている。ようやく解放された月も、もはや西の空に沈もうとしていた。もうすぐ、鮮やかな朝焼けと共に夜が明けるだろう。
その丘の上に、シヴァとヴィッシュは立っていた。
彼らの前には、作ったばかりの墓標が一つ。
シヴァはその墓標を見つめながら、一人考えにふけっていた。
エルナ…。
彼女との出会いが、走馬灯のように思い出される。初めて出会ったのは、悪漢に絡まれていた彼女を助けた時。次の日、目が覚めると突然彼女がいて驚いたこと。初恋の話に、頬を染める彼女の姿。口論し、思わず掴んだ彼女の肩のぬくもり。瀕死の自分を救ってくれた、彼女の癒しのわざ。そして、最後に語ってくれた、彼女の言葉…。
「自分を責めるな…か…。」
シヴァはエルナの言葉を繰り返した。
そして、続いて思い出されたのは、瀕死の重傷に薄れ行く意識の中で出会った母の姿。
あなたは、悪くない…。
「そうか…そうだったのか…。」
もう二度と、あの夢を見ることはないだろう。そして。
生きて…。
母の瞳は、遠い彼方の記憶と違わず、どこまでも慈愛と、そして許しに満ちていた。
「これで…簡単には…死ねなくなったな…。」
その時だった。
遥か向こうの山の端から、朝一番の日の光がこぼれ出す。あまりの眩しさに、シヴァは目を細めた。
だが次の瞬間、シヴァは驚きに目を見開くこととなる。
日の光を背中に受ける、エルナと母の姿が目に映ったのだ。
エルナ…。母さん…。
二人はいつものように穏やかな笑みを浮かべていた。そして、計ったように二人同時にこくりと小さく頷く。
日が昇るにつれ、光は益々明るさを増してゆく。それと共に、二人の姿も見えなくなっていった。
あたかも、朝日を受けて霞み行く月のように…。
俺は…。
眩しそうに朝日を見つめながら、シヴァは呟いた。
俺は…もう泣かぬ…。
細められたシヴァの目の端から、最後の一滴が流れ落ちた。
「本当に行っちまうのか?」
今まで黙っていたヴィッシュが、シヴァの背中に声をかける。
「ああ…。」
シヴァはゆっくりと振り向いた。
「そ、そうかい…。」
珍しく、さびしげな声を上げるヴィッシュ。
「すまぬ…。」
「いっ、いやまぁ、気にすんなって。お前にも思うところがあるだろうからな…。」
照れ隠しに肩をすくめようとするが、左肩に走る痛みに一瞬体をこわばらせ、顔をしかめる。
「俺は、もう少しここに残るぜ。やり残しちまった仕事があるからな…。」
肩の傷をいまいましげに見つめながら、ヴィッシュは呟いた。
「世話になった…。」
思いもよらない言葉をシヴァから受け、ヴィッシュは目をしばたたかせた。
「お前…変わったな…。」
「ああ…。」
そう言うシヴァの口元は、わずかにほころんでいた。
そんなシヴァの様子に、ヴィッシュは満足そうな笑みを浮かべた。
「楽しかったぜ、相棒。またな。」
そう言って、くるりと背を向け歩き出す。
「ヴィッシュ…。死ぬなよ…。」
ふと思い立ち、シヴァがヴィッシュの背に声をかける。
ヴィッシュはピタリと足を止め、振り返った。その顔には、不敵な笑み。
「おいおい、俺を誰だと思ってるんだ?俺は…」
片目をつむり、親指を立てて見せる。
「俺は、ヴィッシュ様だぜ。」
ヴィッシュの姿が見えなくなってから、シヴァは歩き出した。
そろそろ、気温が上がり始める。遠くからギャアギャアと、禿鷹が鳴き出す声が聞こえる。
今日も暑い日になりそうだ…。
The end...