浮雲の思い
「だーっ!いいかげん放さぬか!!」
太公望が楊ゼンの胸を強く突いた。
体格のよい楊ゼンは太公望の細腕が何をしようと堪えることはないが、それでもさすがに長いと思ったのか、名残惜しげに顔を離す。
まだ物欲しげに自分を見つめる楊ゼンに、身の危険を感じた太公望は、強く相手を睨み付けた。
だがその行為は相手をひるませるどころか、さらに欲情を煽ることとなってしまう。
再度口付けを、と伸ばした楊ゼンの腕を飛びすさってかわした。
「何度すれば気が済むのだ。今日で何度目か知っておるのか?
まったく顔を合わせれば・・・」
「回数なんて問題ではありませんよ。あなたに会えた喜びを僕は行為として表しているのです」
太公望の言葉もどこ吹く風で受け流し、目を細めて甘やかに笑いかける楊ゼン。
「そのたびにこうして口付けをされていては、わしの唇は腫れてしまうぞ」
先ほどまで熱烈な愛撫を受けていた小さな唇をわざとらしくさする。
そして下唇を少しめくり、腫れた様子を出していった。
「だめだこりゃ」
楊ゼンの笑みが止まる。
「だ・・・・・・、何ですかそれは?」
知らないらしい楊ゼンに太公望は意外げな表情を浮かべた。
「何だ知らんのか、意外と人界に疎いのだのう」
その言葉に楊ゼンの自尊心は傷ついた。人界に降りる際に、兵法、政治経済はもちろん大衆文化までありとあらゆることを余さず詰めてきたつもりなのだ。
「も、もちろん知っていますよ!」
むきになって言い返した楊ゼンに疑わしげな眼を向ける太公望。
疑われていることに気付いた楊ゼンは、今の状況から必死に意味を考える。
まず、何かの詩から来ていることには間違いないだろう。
詩は重要な教養の一つである。投げかけられた詩にさらりと返せなくては恥ずかしい。とくに女性と接する機会の多い楊ゼンは、もらう文や閨の中で詩を投げかけられることも多い。
だから、詩はすべて覚えていたつもりだったが。彼の頭の中にはいくら探してもそれらしいものはなかった。
ならば自分で推測するしかない。
後世では学問の対象になり、高尚なものと位置づけられている詩だが、内容はたわいのない日常の生活や恋愛を韻を踏んで詠っているに過ぎない。
恋愛詩も大半はひねりのないものだ。
ならば・・・・・・、
「単なる惚気の詩でしょう、口付けが過ぎる恋人に対する」
知っていて当たり前だとの態度だが、内心はこれ以上ないほど動揺した状態であったので、太公望の「知っておったのか、つまらぬ」の言葉に心底安堵する。
「ともかく、もうするでない! これ以上やられては洒落にならぬぞ」
そう言って太公望は、もう一度小さな下唇をさっきよりも大きくめくると「だめだこりゃ」と言い残し、廊下の向こうへ去っていった。
半月の控えめな光が降る部屋で、ひそやかで濃密な時間が過ぎていた。
広くはない寝台の掛布に膨らみが二つ。
それは時折蠢いて、その動きと合わせるように中からは高い女性の嬌笑が洩れ出てくる。
やがて静かになると、掛布の中から男の影が抜け出てきた。
その影は乱れた長い髪を掻き揚げると、ゆっくりと身支度にかかる。
その背に艶めいた声がかけられた。
「もう帰ってしまわれるのですか、楊ゼンさま」
随分と長い時を過ごしていたのだろう、半身を起こした女性の掛布から覗かせた白い肩はしっとりと濡れ、頬は窓から射す月光でもわかるほど紅く上気していた。
「申し訳ありません。名残惜しくは思いますが、明日も早いものですから」
寝台の上から両腕を差し出すその女性に近づいて、望むままに口付けをしてやる。
伸ばされたたおやかな腕は、楊ゼンの首から未だ裸の背中に回り、明確な意図を持って撫で擦り始めた。
だが、それで男の身体を繋ぎ止めておくことには失敗した。やんわりと自分を縛めている腕を解くと、楊ゼンは椅子に掛けられた上着に手を伸ばす。
「随分とつれない方。まだ夜は長くてよ」
今度は一重の薄物を羽織り、自ら寝台から楊ゼンの方へ進みよった。
躍るように近寄ったその女性は上着の止め金具を上げようとしていた楊ゼンの手を押し止めて、もう片方の手で楊ゼンの精悍な頬を撫で上げる。
潤んだ瞳を挑むように投げかけられて、その瞳に吸い込まれるように楊ゼンは顔を寄せて軽く唇を合わせた。
それを機に女性は両腕を楊ゼンの首へ再び回し、引き寄せるようにして深く口付ける。
女性の、この場にひどく似つかわしい甘い香と柔らかい体臭の混ざった芳しい薫りを愉しみながら、楊ゼンはどうやって引き上げるかを巡らせていた。
いい加減女性の唇での求めにも辟易してきたころ、楊ゼンの脳裏にひらめくものがあった。
――こんなにも時宜に適っているものはない。
楊ゼンは自分の考えに思わず声を立てて笑ってしまう。
女性は唇を放し、しばし楊ゼンの顔をのぞき込んでいたが、あまりにも楽しそうに笑う楊ゼンにつられて笑い出した。
そのまま二人で笑っていたが、楊ゼンは一息吐いて笑いを収めると女性に目線を合わせた。
その真摯な眼差しに女性も笑いを止めうっとりと見返す。
しばしの静寂。月明かりは変わらず二人を照らしていた。
楊ゼンの整った長い指が形よい唇を摘まむ。
そしてそのまま下唇をめくり上げた。
「だめだ、こりゃ」
翌日の豊邑での話題は、天才道士さまの閨での奇妙な性癖であった。
当の天才道士さまは、その日半日憤怒の様相で軍師さまを城中捜し求めていたが、昼過ぎには城はもとの静けさを取り戻した。
白い大きな犬が空に向かって閃光の如く駆け上がっていったのが多数目撃されている。
「久しいのう、太公望。そなたが私のところを訪ねてくるとは、何ぞ急ぎの用か」
そう言って純血の仙女は太公望に椅子を勧め、弟子の一人に茶を持ってこさせた。
だが、太公望に焦る様子は見られない。
「それとも私の無聊を慰めに来てくれたのか」
冗談半分で尋ねたのだが、太公望の「そんなところだ」と言う言葉に竜吉公主の顔が輝く。
「ではゆっくりしていけ、そして私に下界の話をしてくれ」
太公望は出された茶の馥郁とした香りに目を細めた。
「下はどんな感じじゃ、無理をしてはおらぬか」
昇仙して当初から今でも変わらず実の弟のような扱いに何だかくすぐったい感じになる。
それをごまかすかのように太公望は茶を一口含むと、“姉”を安心させるように微笑みかけた。
「いや、忙しいことは忙しいが・・・・・・なかなかよいところだよ。居心地は悪くないし、計画も順調に進んでおる。それに・・・・・・」
一度言葉を切ると、もう一口茶を啜った。鳳凰山の茶はいつ来ても美味い。
「それに・・・・・・?」
先を促す竜吉公主にいつもの食えない笑みを浮かべた。
「面白い玩具を手に入れたでな、当分飽きずに過ごせそうだ」
――了
−−−
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あいたたた・・・という気持ちでいっぱいです。やっちまったよ。
ごめんなさい。テストが終わった開放感でタガが外れすぎてしまったと許してやってください。
あいたたた・・・・・・(爆)
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