百戦殆うからず
ここは周国、豊邑。
すでに皆が寝静まる刻である。しかし、城内の一室からは明かりが洩れている。
中をのぞくと、それほど広くない部屋に女性が十数人、皆神妙な顔つきで座っていた。
女性達が注目する先には、小柄な少年。
周の軍師、太公望である。
太公望は集まった女性達に対して何やら必死に説いている。
話が進むにつれて、女性達の顔付きも真剣になり、彼に食いつかんばかりだ。
やがて太公望の話が終わると、皆人目を忍ぶようにそっと退出していった。
太公望が明かりを消す。
あとは暗闇だけ。
「太公望師叔!!」
両手を広げ、土煙を上げて、廊下の端から自分のほうに駆けてくる天才道士が一人。
恐ろしいほどの速さである。
対する太公望は、両腕に書類を山と抱え込んでいる。
どうすることもできない。
楊ゼンと太公望の差はどんどん縮まった。
彼らの距離はあと三歩、二歩・・・・・・。
絶体絶命である。
誰もがこの後の展開を予想した。
だが、一国の軍師たるもの、いかなる状況下においても決して慌てずさわがず。
優雅ともいえる所作で片足を高く上げた。
鈍い音と共に、楊ゼンはその場にうずくまった。
――よいか、恋愛は戦と同じぞ。
――詳細に情報を集め、綿密に策を練り、攻略せよ。さすれば必ずや意中の者を落とせるであろう。
何事もなかったように、太公望はうずくまっている楊ゼンの横を通り過ぎようとした。
だがその前に、楊ゼンはすばやく立ちふさがる。
「相変わらずつれない方ですね」
自慢の長髪をかき上げ、微笑む楊ゼン。
かき上げた蒼い髪がさらさらと音を立てて流れていく。
だが微笑みを浮かべる美麗な顔には、くっきりと太公望の沓の跡が刻まれていた。
――飴と鞭を使いこなせ。
――鞭は限界まで与えるのだ。飴の甘さが引き立つように。
「ところで太公望師叔、今日の午後の御予定は?」
にこにこと満面の笑みを湛えた楊ゼン。先ほどの沓の跡はもう跡形もない。
「午後はたまっている雑務をやらねばならぬ。これがあと五山ほどあるでな。
・・・・・・何ぞ急ぎの用か?」
抱えている書類を軽く掲げて、太公望は尋ねた。
「いえ、私的なことで。あなたの好きそうな甘味屋を見つけたので、息抜きがてらにと思いまして。
そうですか・・・・・・では明日は?」
「明日は午前中は軍の方を見に行って、午後は武王の教育だ」
「では、明後日は?」
「明後日は特に急ぎの用はないが、おぬしには崑崙へ使いに行ってもらおうと思っておる」
自分が使いに出されるという事は、厄介な用事なのだろう。何日もかかってしまうような。
にべもない返事に、楊ゼンはがっくりと肩を落とし、うなだれた。
――しかし、飴を与える機会を逃してはならぬぞ。
――機を読むのだ。
「そうですか・・・・・・では、またの機会にでも」
そう言って、とぼとぼと引き返そうとした楊ゼンに、太公望が声をかける。
「おぬし、今日の仕事は終わったのか?」
「ええあらかた終わりましたよ」
太公望を誘わんがために今日一日分の仕事を午前中に八割方終わらせたのだ。
応える声にも力が入らない。
「そうか、わしはこれさえ終わればおぬしに付き合うことができるのに、残念だ」
楊ゼンが振り向くと、眉を寄せてすまなそうに微笑む太公望がいた。
――己が魅力を知れ。
――そしていつでも最大限生かせるよう日々努力を怠るな。
「せっかくわしのために店を見つけてくれたというのに、すまぬ」
そんな太公望の表情に、楊ゼンは慌てる。
「そんな、あなたが気に病む必要は全然ありません。
あっ、僕の仕事は急ぎでもないし量も少ないですから、夜にでもやるとして、あなたの仕事を手伝いますよ」
その提案に一瞬太公望の顔は輝いたが、またすぐに曇る。
「それではおぬしに負担がかかる。いつも手伝ってもらっておるのに」
「いえ、僕はこれくらい、あなたに比べたら何ともありません。それよりもさっさと終わらせて出かけましょう」
しっぽを引き千切れんばかりに振って喜ぶ楊ゼン。
――飴は少しでよい。
――自分を安売りするではないぞ。
「おぬしには本当に世話になっておるのう。どれほど感謝してもしきれぬほどだ」
「師叔・・・・・・」
その言葉に感極まった楊ゼンは、その華奢な身体を抱きしめようと腕を伸ばす。
だがその身体は楊ゼンの腕におさまる寸前、するりと抜けた。
代わりに大量の書類が楊ゼンの腕に抱きしめられる。
――時間をかけてゆっくりと相手のこころを捕らえるのだ。
――気付いたころには自分なしでは生きられぬほどに。
「では、わしは残りの書類を取りに行くゆえ、おぬしは先に執務室でこれをかたづけていてくれ」
ちょっと不満気な顔をする楊ゼンに、太公望は「楊ゼン」と呼びかけた。
「わしはおぬしを誰よりも頼りにしておるよ」
花開くようにやわらかい笑みを残して太公望は去っていった。
その日の豊邑での話題は、大量の書類を抱えて廊下を歌いながら小躍りする美しき天才道士さまであった。
それを見た人達は、廊下を歩き進めるうち、なぜか勤務時間中にもかかわらず中庭で傍らにモモとアンマンをつんで高笑いする軍師さまの姿を見て、さらに首をかしげることとなった。
一部始終を見ていた女官が数人、柱の陰から出てきた。
「さすが太公望さま」
「あの楊ゼンさまをいともたやすく手玉に取るなんて・・・・・・」
「いつもながらなんて鮮やかなお手並みでしょう」
「あの最後の微笑み、あれで魅了されない人なんてどこにもいませんわ」
「ぜひともあの笑みをものにしたいわ」
「ええ絶対に!」
「そしていつか軍師さまのように素敵な殿方を手玉に取るのよ」
「がんばりましょう!」
己の未来にうっとりする女性達であった。
他の柱にも一部始終を見ていた者が、こちらは二人。
「いっつも見てるけど相変わらずすげえな、太公望」
「たしかスース、午前中は中庭でモモ食べながらサボってたさ」
「じゃああの大量の仕事はサボりのツケか?おまけにあいつが歩いてった方向、書庫とは逆だぜ」
「でも楊ゼンさん、いーかげん気が付かないさ?」
「いや、あいつのやり方知ってる俺でも、あんな顔されたら躍らされると思うぜ」
「俺っち、ちょっとスースが恐いさ。俺っちも知らない間にスースに躍らされてるかもしんないさ」
「そんなこといったら、俺んちはオヤジを含めて一族みんなあいつに躍らされてる事になんぜ」
「一国の王サマを魅力で操るなんて、殷の皇后といい勝負さ・・・・・・」
「・・・・・・いったいどんな戦だ」
己の未来に一抹の不安を感じる若者達であった。
月に一回開かれる軍師主催の恋愛戦略。
軍師となるにあたって太公望が研究した、人心を惹きつける術や敵陣を攻略する術を恋愛用に応用したものである。
最初は個人的な相談に快く応じていたのが思いのほか評判になり、より多くの者が聞けるようにと開講した。
講義内容はさまざまな分野の理論に基づいたもので、それだけでも成功率は高いが、一般的理論だけでなく個人に合った細かな助言も受けられるとあって、公にはされていないにもかかわらずあっという間に人づてに伝わり、もはや城内で知らぬ女官はいないほどである。
最近では男性の中でも受講する者があって、競争率は高く、たとえ一国の王であっても毎回受講することはむずかしい。
いままでの講習内容が書かれた『太公望軍師の恋愛戦略概論 第一巻(宰相無認可)』は闇取引され、そのため多くのモモとアンマンが裏で動いているという噂である。
ちなみに次回は「表情としぐさの分析学2――笑顔の作り方とその効果的活用について」
受講料はモモ3つにアンマン3つ。
すでに受講希望は締め切られている。
――了
−−−
これは、身のほど知らずも『封楊太域』様に載せていただきました。
師叔の魅力をもっと出したかったのですが・・・うーん。
個人的には姫発と天化の組み合わせってスキです。
「百戦危うからず」は中国の故事から。
もどる