一将功成りて















「軍師さま、おはようございます!」
「おはようございます!」
朝、宿営地をまわる太公望に兵達から次々と声がかかる。
彼は周の軍師という高い地位にもかかわらず、一介の兵士にも気さくに挨拶し返す。
「おお、今日も皆早いのう。成よ、おぬしからだの調子はもうよいのか?・・・・・・点よ、いつも元気だのう。その元気をわしにも分けて欲しいくらいだ」
彼が通るところは笑顔と笑い声が絶えない。
「塘よ、どうした。顔色が優れぬが・・・・・・」
病というほどではないが、なんとなく気に翳りが見える。太公望は声をかけた兵に近づいた。
「今朝の夢の中に妻が現れまして、そろそろ収穫期、作物の方はだいじょうぶだろうかと・・・・・・」
作物がうまく実らず、厳しい冬を一人で妻が飢えに堪えるようなことはないだろうか。故郷を思い憂えるまだ歳若い兵の肩を太公望は軽くたたいた。
「そなたの故郷は確か汀州であったな。案ずるでない、汀州からは税と共に豊作との報告が来ておる」
はっとその兵は顔を上げた。その顔を見返して太公望は力強くうなずくと、周りで話を聞いていた兵達をぐるっと見回す。
「皆の者も安心せい、今年は各地ともに天候に恵まれた。周は大豊作であるぞ!
実りの少ない地方には、武王陛下が城の食料庫を開け、すでに各地に援助を送らせておる」
うおおっと歓声が上がる。
喜びの渦の中太公望が歩を進めると、上から自分を呼ぶ涼やかな声が聞こえた。
顔を向けなくてもわかる。自分の片腕楊ゼンは優雅に宝貝哮天犬から降り立った。
「お乗りください、太公望師叔。そろそろ朝の軍議の時間です。武成王をはじめ、将軍達も皆集まっていますよ」
太公望を自分の前に乗せると、哮天犬に宙を駆けさせた。
「ぬおおぉ、乱暴だのう」
「太公望師叔」
前に座る人の抗議には耳を傾けず、楊ゼンは口を開く。
「いつも申し上げることですが、兵達と親しく口をきく事はお止め下さい」
あなたは周の軍師なのだから。
地位それ自体について言っているのではない事はわかっている。彼は太公望のためになる事しか言わない。
わかっている。だが・・・・・・。
「いつも言うことだが、おぬしは口やかましいのう」
いつものように軽口をたたく。










今朝も宿営地をまわる太公望に兵士達から次々と声がかかる。
それを受けて太公望は挨拶し返す。
彼の朝の日課。
「・・・・・・おおいかん、そろそろ軍議の時間だ。また楊ゼンに言われてしまう。まったくあやつは・・・・・・、話に聞く篤の奥方といい勝負だぞ」
「うちのカカアといい勝負じゃ、軍師さまは大変だな」
あたりで大きく笑い声が上がる。







「いつも申し上げることですが、兵達と親しく口をきくことはお止め下さい」
「いつも言うことだが、おぬしは口やかましいのう」














シ水関は周軍勝利に沸きあがっていた。
関所に住む多くの人も、殷兵として従軍していた者達でさえも。
今夜は武王の計らいで兵達には酒と肉が、関所の住人達には食料が振舞われていた。
あちこちで宴が始まる。










盆に薬湯と薬丹をのせて、薄暗い廊下をひとり楊ゼンは歩いていた。
行先は、先の戦で左腕切断という重傷を負った周の軍師太公望の部屋。
容体を慮ってあてがわれた部屋は、宴の喧騒から遠く離れていた。
程なく目的の部屋には着いたが、目的の人物はその部屋には見当たらない。
「あのような身体で・・・・・・」
臥床に盆を置くと迷わず、楊ゼンは主のいない部屋を後にした。










関所の門に一番近い広場に、戦死者達の遺体が安置されていた。
遺体が遺体剥ぎや獣や物の怪などによって汚されてしまうことを厭い、明日彼らを埋葬するまでと、太公望が塀の内側に運ばせたのだった。
見張りはおらず、ましてや自分から足を運ぼうという物好きもいない。
・・・・・・はずであった。
「太公望師叔」
白い寝間着をまとっただけの小柄な人影に楊ゼンはそっと声をかけた。
それは、くるりと振り向く。
「おお、楊ゼンか」
その場所には明かりは置いていない。楊ゼンも太公望も明かりを持っていなかったが、城壁にかけられた常夜灯の明かりがかろうじて届いていた。楊ゼンが太公望の横に並ぶと、ようやく彼の顔が見える。
そこにはつかみ所のない飄々とした表情が浮かんでいた。
「『おお、楊ゼンか』ではありません。薬の時間です。もう腕の麻酔が切れかけているでしょう」
いくら仙道とはいえ、決して浅くはない傷だ。だが太公望は立ち去る様子を見せない。
「人の身体を馬鹿にするでないぞ、楊ゼン。人の身体は痛みに対して耐性を持っておるのだ」
そう言って、呵呵と笑った。そんな太公望に、楊ゼンは強い口調で言い放つ。
「それでこのようなところにいて、同じように感傷に対してもあなたは慣らすおつもりですか」
口に出してから、失言であったと思った。だが今更どうすることもできない。楊ゼンはわざと太公望の顔を強く見据える。
「それは違うぞ、楊ゼン。そのような感情は決して慣れるものではない。また、慣れるようなことになってはならぬのだ」
見据えた横顔からは先ほどの飄々とした表情は消えていたものの、太公望の口調はあくまで穏やかだった。
「わしの命令一つでこれだけの人間が命を落としてしまう。わしがここにいるのはその現実を受け入れる義務があると思ったからだよ」
無名の一兵士まで軍師たる太公望が気に病む必要はない。 すでに王太子殺害という重いものを背負っていながら、この人はまだそんなものまで背負おうというのか。
楊ゼンの顔を見上げた太公望は少しかなしげに眉を寄せた。
「彼らは歴史に名が残ることはないであろう。だが、彼らには一人一人名があり、生活があったのだよ」
死後、人相は変化するものである。ましてやここに運ばれたものたちは皆一様に苦悶の表情を浮かべている。それにもかかわらず太公望は生前と変わらぬであろうやさしい眼差しを彼らに向け、見知ったものの名をつぶやく。
ふと太公望の視線が止まった。


「すまぬのう、おぬしの奥方にはこれからの冬をずっと一人で過ごさせることになってしまった」

そしてもういちど「すまぬのう」とつぶやいた。














戦において、兵の上に立ち指揮するものは、兵を個として見てはいけない。あくまで兵は手駒だと割り切らなくては彼らを死地に追いやる命令を下すことはできない。
自分が毎朝言うまでもなくこの聡明な人はわかっていたはずだ。わかっていてあえて兵士達を個として扱った。
軍師としては失格である。だが・・・・・・、














「そろそろ戻りましょう、四不象が心配します。それから痛み止めはいいですから、解熱剤だけはお飲みください」
楊ゼンは肩布をふわりと太公望のその小さな身体に頭からかぶせた。布の上から抱きしめたくなる衝動をぐっとこらえる。
この人はそんな慰めは求めていないだろうから。
優しい言葉も要らないだろう。自分にできることといったら、身体の痛みを取り払わないことによって少しでも精神的な痛みを紛らわせることくらい。
一晩左腕の痛みに耐えることはできるだろうが、一晩心の痛みに耐えることは辛い。無理に薬で眠らせても夢の中には夢魔が現れるに違いない。
「思いっきり苦く調合しました。あなたの体格に合わせた量をお持ちいたしましたから一滴たりとも残すことは許しませんよ」
本当は太公望のためにできるだけ飲みやすく作ってあるのだ。けれどもなぜか訳もなく腹の立った楊ゼンは、つい意地悪なことを言ってしまう。
苦いという言葉に太公望は過剰に反応した。
「なにー、苦いだと?!わしは飲まぬぞ。そんなものを飲むくらいなら熱があったままの方がましだ!」
「いいえ、その熱では脳に影響が出てしまいます。あなたのその狡い頭はすでにあなた一人のものではなく、仙界と人界の財産なのです。勝手なことは許しません」
「人の頭を勝手に共有物にするでない!」
文句を言い続ける太公望にはいはいと適当に相づちを打って、楊ゼンは戻るよう肩を押した。
太公望は相手にされないことにぷっと頬を膨らませて抗議をし、二・三歩進んだところで思い出したように首だけで後ろを振り返る。
歩みの止まった太公望を、楊ゼンがまた優しくうながすと、並んで部屋に向かって歩き出した。



―― 一度も振り返ることなしに。














「おはようございます、軍師さま!」
「おはようございます!」
今朝も宿営地をまわる太公望に兵士達から次々と声がかかる。
それを受けて太公望は挨拶し返す。
「おはよう。素よ、朝から精が出るのう。そういえば宇の姿が見えぬが・・・・・・、なに?あやつまた寝坊か!」
彼の軍師としての日課。
「今朝も皆元気そうで何よりだ」







「いつも申し上げることですが、兵達と親しく口をきくことはお止め下さい」
「いつも言うことだが、おぬしは口やかましいのう」
いつものように哮天犬の上で軽口をたたく。
彼の太公望としての日課。







一日がまた始まる。
























――了





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『封楊太域』様に載せていただいた作品です。
ちょっと重めのテーマなので書きたいことが書ききれなかったのが残念。
ねこの楊太さんはしっかり自分の足で立ってお互い向き合っているのが理想です。
いや、お互い"べったりあまあま〜"っていうのも好きなんですけどね。
書くのは恥ずかしいので読むだけ。
「一将功成りて」は有名な詩から。















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