世界中を巻き込んだ大戦のさなか、ある一人の科学者が一つの仮説を立てた。
科学者の名は太公望。
エネルギーは等しく物質の質量に比例するというこの画期的な理論は、大戦後、若い科学者の名とともに世界中の科学者に受け入れられた。
招かれて各国を講演に回り、敗戦国であった祖国に凱旋した太公望が目にしたものは、先の大戦の傷痕が未だに深く混乱したままの経済と、先の見えない国民全体が持つ不安に巧みにつけこみ、台頭を現してきた党であった。
いつか来る日
ファシズムの思想を掲げるその党は、民族に優劣をつけ、選ばれた優等民族による民族純化政策を進めていた。
選ばれた民族以外の劣等民族には、暗に明に迫害が行われ、それは日に日に激しくなっていった。
それに危機感を抱いた太公望は、絶対平和主義を掲げ、これを国際連盟でも提唱する。
自ら旗印となり、世界中の多くの科学者や知識人、市民団体等に支持を受け、着実に運動を広めていった太公望だが、大国の一つによる他国への侵略によりその運動はあっさりと霧散した。
侵略行為一つ止められないばかりか、むしろその大国に迎合するかのような国際連盟に、太公望は落胆し、連盟におけるすべての地位を下りる。
だが、祖国において劣等民族に位置する太公望は、国際的な地位もない今、日々の生活が脅かされるようになった。
彼の著書もすべてが焚書の対象となった。
そんな時に手を差し伸べてくれたのが、大学時代に同期であった友人、楊ゼンである。
彼もまた科学者であり、大学在学中に既に論文を発表するほどの天才であったが、太公望の頭脳をいち早く認め、それ以来彼に畏敬の念さえも抱いていた。
その後、所属する研究所はそれぞれ別のところであったが、互いにインスピレーションを与え合うその貴重な存在に、現在まで親密な交友関係が続いている。
現在の社会情勢に危惧した楊ゼンは、そんな無二の親友である太公望に亡命を持ち掛けた。
「すでに、相手国の了承は取れていますし、ビザも用意しました。今は師叔の社会的名声のために奴等も手を出しかねていますが、今後の保証はありません。僕と一緒ならば出国も甘いでしょう」
楊ゼンは太公望と国籍を同じくしていたが、国家の定める優等民族に属していた。
「亡命できるのはわしだけか?邑姜は、・・・従妹は連れては行けないのか?」
今年地元の大学に入ったばかりの少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
太公望の真摯な眼差しを直視できず、楊ゼンはすまなそうに目を伏せた。
「残念ながらあなたのビザしか手に入れられなかったのです」
学会という名目でようやく手に入れたビザ。彼の従妹には出国の理由がない。
泣きそうな顔に無理に笑みを浮かべて太公望は、うなだれる楊ゼンの肩を軽く叩いた。
「楊ゼン、おぬしがわしにしてくれていることはとても感謝しておる。しかし、邑姜はたった一人の身内なのだ。彼女を置いてどうして一人で逃げることが出来ようか」
世界的有名な科学者である太公望という後ろ盾がなくなれば、確実に激しい迫害の対象になることは必至である。彼女を守ることが出来るのは自分しかいない。
だが、楊ゼンは肩に置かれたその小さな手を両手で力いっぱい握り締める。
「お願いです、太公望師叔!ひとまずあなただけでも亡命して下さい。あなたの従妹は僕が必ず、必ずあなたのもとに連れてきますから」
「しかし・・・」
その勢いに押されながらも、太公望の顔にはまだ迷いの色がある。
「絶対に約束します、僕を信じて下さい」
楊ゼンは強い意志を眼に込めて、太公望を見詰める。
しばしの沈黙の後、太公望の頭がかすかに縦に振られた。
「わかった、おぬしを信じよう」
亡命の準備は既に出来ていた。
その当日、二・三日分の着替えと書物と書類、そしてわずかな現金を古い革のボストンバックに詰めて、太公望は迎えの楊ゼンとともに船上の人となった。
長い航海の末、ようやく亡命先の大陸が地平線の彼方にうっすらと現れた。
甲板に人々が集まり、歓声を上げている。それを船室で聞いて太公望も無邪気に笑う。
そして同じように安堵の笑みを浮かべる楊ゼンに、太公望はポケットから何やら掴んで眼の前に差し出した。
「おぬしにこれを」
それは太公望らの母校の卒業記念品である銀の懐中時計。
「おぬしも同じ物を持っているだろうが、今、わしが持っている唯一の財産だ。ぜひ受け取ってほしい」
よく使い込まれたその懐中時計は、照明の光をやさしく反射した。
裕福な家庭に生まれた楊ゼンは、そのようなものを使わずとも時計などいくらでも持っていたが、学費と生活費をすべて奨学金とアルバイトで賄っていた太公望の大学生活を思い出し、また今もほとんど着の身着のままである彼にとって、この銀製の時計は文字通り“唯一の財産”である。
差し出された手ごと、楊ゼンは両手で大事に時計を包み込む。
「ありがとうございます。大切にします」
太公望の亡命先であり、国際連盟の第一大国であるところの大統領は彼を歓迎して、滞在中の衣食住の保証を約束した。
だが、そこの政府が求めていたものは、太公望のその頭脳。
どんな物でも、その物質に光の速さを加えればその質量と同量のエネルギーを生み出すいうその仮説がもし本当ならば、すさまじいエネルギーを得ることが出来、それは今までとは比べものにならないほどの兵器の開発が可能であるかもしれない。
それの影響の大きさが誰よりもわかっている太公望は、自らの理念である絶対平和主義の立場から、再三の仮説証明の要請を断り続けた。
太公望の頭脳が他国へ流出することは絶対避けたい政府は、断固として拒み続ける太公望に対しても待遇を変えることはなかった。
そしてやがて無駄と悟ったか協力を請求することもなくなった。
ただ一人、友人である楊ゼンだけはたびたび彼のもとを訪れた。
彼とは様々な話をした。移りゆく季節の話、庭に来る小鳥の餌付けに成功したこと、学生時代の思い出、祖国に戻った後のこと、そんなにたわいもない話から、幅広い学問についての議論、果てやこの世の真理まで。
最愛の従妹を祖国に残して逃げたという負い目を持ち、また、他人から歓迎も必要もされない空虚な生活を送っている太公望にとって、楊ゼンの訪問は唯一の慰めであった。
しかし、帰り際に必ず言っていく彼の言葉だけはどうしても歓迎できなかった。
「研究に協力して下さい。絶対平和主義では今の状態はどうすることも出来ないのですよ」
太公望の返事はいつも否であった。
太公望のあてがわれた家がある長閑な田舎の街とは裏腹に、世界は一触即発の状態であった。
その緊張状態を破ったのは、太公望の祖国による隣国侵略である。
これを引き金に、再び世界中を巻き込んだ大戦が勃発した。
従妹の身は案じつつも遅かれ早かれ予想していたことに、太公望はすでに諦めの境地にいた。
只々犠牲者が少しでも出ないように祈っていた彼に、久しぶりに訪れた楊ゼンの言葉はまさに寝耳に水であった。
「何故だ?!何故いまさら祖国へ戻る必要があるのだ!」
「僕は研究がしたいのですよ、師叔。あなたのその理論を証明することが出来れば、すさまじい威力を持つ兵器が造れる。別に兵器自体には興味はありませんが、本当にそれは可能なのか、純粋な知的好奇心ですよ。科学者ならば・・・・・・」
当然でしょう、という言葉はぱちんという乾いた高い音に遮られた。
楊ゼンの白皙の頬に赤く痕が付いている。
――自分の亡命に加担し、再三研究を促したのはこのためだったのか・・・!
普段めったに怒りの感情を出さない太公望であったが、楊ゼンの言葉に顔を真っ赤にさせ、引き結んだ唇はわなないていた。
だが、楊ゼンは一向に意に介さない。
「先日、国から極秘にアプローチがありました。優等民族である僕はあなたとともに亡命した罪も咎められず、それどころか特別待遇で受け入れてくれるそうです」
うっすらと微笑みさえ浮かべて、高待遇を与えられた我が身を話し続ける。
主義も思想も倫理もない。あるのは科学の追求という名のおぞましいエゴ。
「出ていってくれ、今すぐ、ここから」
太公望は机に両手を突き、前かがみにうつむいた。こんな男と同じ空気を吸っていると思うだけで吐き気がする。
「どこへでも行くがよい。そして、二度とわしに顔を見せるな」
楊ゼンはちょっと肩を竦めると、微笑みを浮かべたまま慇懃に礼をした。
そして大人しく出口に向かい、ドアノブに手を掛けたところで引き返す。
「これはお返しします」
机に付いた太公望の手のすぐ横に置かれたものは、銀の懐中時計。
それは照明の光を受けて、鋭く光った。
「平和主義では何の解決にもならないのですよ、力にはそれ以上の力を持ってしか押さえることは出来ないのです。
それはあなたもわかっているでしょう、師叔」
小さく扉の閉まる音がした。
――続
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突発的に書きたくなった物です。
背景としては、第一次・二次大戦のころです。
師叔のモデルはいわずと知れた天才科学者、アルバート・アインシュタイン。
ねこは前々からこの人がとても好きでして。
相対性理論はよく理解できないんですけど、受験のときに社会で倫理を選択して、「ラッセル=アインシュタイン宣言」とかを勉強したとき、物理学者としてのアインシュタインさんじゃなく、平和運動に貢献した彼の存在を知ったのです。
写真であかんべしたりして、てっきり能天気で科学バカな天才だとばかり思っていたんですけどね。
全然違いました(反省)。
それで「好きだな」と思っていただけなんですけど、こないだNHKで彼の特集をやっていまして、「これは使えるぞ」と。
でも、こんなに長くするつもりはなかったんですけどねえ。
もう少しお付き合い下さいマセ。
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