「楊ゼン、街へ行こう」
育ちのよい裕福な商家の子息のような格好をした上司は、今日の快晴の空のような満面の笑みを浮かべた。
















星眼を望む (後)
















昼休みもそこそこに、いつも通りあわただしく執務室に戻る楊ゼンの行き先に太公望は仁王立ちで立ちはだかっていた。
何重にも着込んだ常とは違う、肩も露わな軽装にくらりと来つつも、数百年の功夫で培われた強靭な理性で言うべき事はかろうじて言う。
「え、僕まだ仕事残ってるんですけど・・・。それに、それはあなたもでしょう」
「案ずるな」
自信たっぷりの太公望。と、眉をひそめうつむく。
「・・・・・・それともわしと出かけるのが嫌か?」
そのままの表情で見上げる太公望に、楊ゼンの培ってきた数百年の功夫も徒労に終わる。
楊ゼンは蒼い長髪を乱してぶんぶんと頭を横に振った。
とたんに憂えていた太公望の顔が明るく晴れる。
「よし、では行くぞ、楊ゼン!」
はずむような足取りで、太公望は楊ゼンの手を引く。
握られた小さな手はあたたかかった。









夏休み前の大売り出しににぎわう街を、二人並んで散策する。
初めは、何かあるのではと警戒していた楊ゼンだったが、最近のとげとげしさが嘘のように幸せそうに丼村屋のアンマンをほおばりながら店を冷やかす太公望に、いつしか自分も楽しんでいた。
それにしても、太公望はどこへ行っても、「軍師さま」「軍師さま」と親しみを持って呼びかけられている。
まあ、自分の想い人が皆に慕われているのを横で見るのは、悪い気はしない。
「そっちのべっぴんさんは? 軍師さまとおんなじ仙人さまかい?」
果物屋の店主からの遠慮のない物言いに、育ちのいい楊ゼンは絶句しながらも一応頭を下げる。
「うむ。まだ人界に下りて日が浅いでな、豊邑の街を見せてやろうとつれてきたのだ」
豪快に笑いながら「そっちのべっぴんさんにおまけしてやろう」と袋にモモとあんずを豪快に詰める店主。



「おぬしのおかげでこんなにおまけしてもらった」と無邪気な笑顔を楊ゼンに向ける太公望。
いるか?とあんずを差し出されたが、笑顔に魅了され、首を横に振るのが精一杯だった。
そんな楊ゼンを意に介せず、自分は袋から一番大きそうなモモを取り出す。
「楊ゼン、経済の方は安定しているようだな」
「ええ、東の地方で心配されていた旱害の被害もたいしたことがないと報告されていますし、地方からの荷を襲う大規模な野盗団も討伐いたしましたしね」
太公望はよく熟れたモモをほおばりながら、満足げにうなずく。










その後もしばらく街を歩き続けて、芝居を見る。
芝居が終わって、夕飯を食べ、酒まで飲むと、夜はすでにとっぷり更けていた。
芝居は隣に座る太公望の肩が気になって何が何だかわからなかったけど、酒の席でも仕事の話ばかりだったけれど、楊ゼンは満足だった。
なぜなら、今自分の腕の中で太公望がいるのだから。
今、降るような星空の中、流星のように走らせる孝天犬の上でその小さな身体を楊ゼンの厚い胸に持たれかけている。
羽織らせた自分の薄い肩布越しに伝わる体温と、やわらかな身体の感触に「ああ、ありがとう、お星さま」と空を見上げ、内心歓喜の涙を流す楊ゼン。
やがて幸せの時間は過ぎて、庭に面した渡り廊下に孝天犬を寄せて、太公望を抱きかかえるように下ろした。
「師叔、着きましたよ」
しかし、太公望は楊ゼンの服を掴んでうつむいたまま動かない。
上半身は楊ゼンにあずけたままだ。
「師叔、どうされましたか? ご気分でもお悪いのですか?」
返事のないことにいぶかしみ、様子をうかがおうと顔を覗き込んだ楊ゼンは、同時に顔を上げた太公望のあまりの距離の近さに、目を見開いたまま固まった。
酔いで潤んだ太公望の大きな瞳が、常夜灯に反射して幻想的にきらめく。
「・・・楊ゼン」
すがるように心許なく呼びかけられた名とともに、熱い吐息が頬をかすめた。
布越しに、楊ゼンの服を掴む手にさらに力を込められたのを感じる。
楊ゼンはその天才と呼ばれる頭脳をフル稼動させて、過去の膨大なデータを今の状況に当てはめた。
刹那の間。
その結果、一つのある結論を導き出した。




――間違いない、太公望師叔は僕を誘っている・・・!!




いつのまにか荒くなっていた鼻息を、心の中で何度も大きく深呼吸して落ち着かせると、改めて太公望に向き直った。
常の洗練された自分を保つよう強く言い聞かせながらも、どうしても手は震え、それを意識すると動きがぎこちなくなってしまう。
それでも何とか左腕を細腰に回すと、右手をまだ幼さを残す頬の線に沿ってそっと撫で、軽く上向けた。
楊ゼンは音を立てて生唾を飲むと、自分をもう一度励ましてから、いつも女性を落とす時に使う甘やかな笑みを作るよう努める。



「太公望師叔・・・・・・あなたの瞳の中で星が流れている」


瞬きするたびに、万華鏡のように動く瞳の中の光に魅入られながら声を出すと、すいぶんと気持ちが楽になった。
いつもの調子が出てきた楊ゼンは、勝利を確信し、さらに笑みを深くする。


「はるか西の国では、流れ星に願いを託すとその望みがかなえられるといいます。
あなたの瞳に、僕の願いを・・・・・・」


その願いを受け入れる承諾のように、大きく瞬きした瞳から星が一つ流れた。
楊ゼンは太公望の両睫に軽く口付けして眼を閉じさせると、いったん顔を横向けて心の準備をする。
夜の静寂の中、遠くで時刻を知らせる鼓が地をはうように低く響いている。
一日が終わり、また新しい一日が始まる。
自分らの関係を象徴するかのようなそれを合図にして、楊ゼンは薄く開かれたみずみずしい花びらに唇を寄せた。














「ブ―――ッ、時間切れー」




寸前で目を開かれ、意味不明な言葉を投げかけられて、楊ゼンの動きが思わず止まる。



「これで終了だ」


今までのしどけない態度は何だったのか、太公望はしっかりと抱きしめているはずの楊ゼンの腕から、いとも容易くするりと抜け出して、自分の足でしっかりと立つ。
「な、何なんですか? いったい、あなた、何のつもりなんですか?!」
取り乱す楊ゼン。色事においての不測の事態は、いつもの冷静さは働かないらしい。
しかし、常に百戦百勝であったのだからそれも仕方のないことであろう。
太公望はそんな楊ゼンの問いに生真面目に少し考え込むと、軽くうなずいた。
「夏のボーナス・・・かのう」
まだわからないとあからさまに顔に出す楊ゼンに、太公望は言葉を補足する。
「いつも世話になっておるからのう。他の文官らとは違って、夏に休みをやれそうにないしな。代わりに何かおぬしの欲しいものでもくれてやろうと思っておったのだ」
その言葉に、聡い楊ゼンははっとする。
「まさか・・・」
太公望の顔に浮かんだ笑みがそれを肯定していた。
「欲しかったのであろう、『わしのやさしさ』が」
途端に頬に血を上らせる楊ゼン。
昨夜の痴態をしっかりと見られていたことを知り、また先ほどの、素面では恥ずかしすぎる台詞を思い出して、思わずその場で自爆してしまいたくなる。
赤くなったり青くなったりところころと顔色を変え始めた楊ゼンを面白そうにしばらく眺めてから、不適に微笑みかけた。
「では、次は冬のボーナスだな。せいぜい願うがいいい。“お星さま”にな」
自室に戻りかけて、気がついたように太公望が引き返す。
「風邪引くぞ」
頭から肩布を無造作に掛けられながら、楊ゼンはひざまづくように両手を床に突いてただうなだれていた。















今朝の豊邑の話題は、見晴らしのよい渡り廊下の真ん中で燃え尽きたように真っ白になってうずくまっている美しき天才道士さまであった。
執務開始の時間を報せる鼓が鳴らされたので、取り巻いていた者たちの中から勇気ある一人の女官が肩をゆすって道士さまの名を呼び、仕事を促すと、やがて何かを悟ったように頬に血の気が戻り、遠巻きに見守る百官を尻目に、含み笑いをしながら夢見るような足取りで執務室のほうへ歩いていったという。









「スース、あんたまた楊ゼンさんになんかヘンなこと言ったさね」
「別に、・・・ただわしはおぬしの言っておった願掛けを使わせてもらっただけだよ」
太公望は空とぼけたが、天化には大体の事情が分かったらしい。
「楊ゼンさん、朝からずーっと薄笑いを浮かべながらぶつぶつつぶやいてるさ。おかげで文官たちが恐くて印がもらえずにいるさ。天祥も楊ゼンさんに近づかないようにさせなきゃいけないさ」
「あやつは何を口走っておるのだ?」
「それは、ちょっと・・・俺っちの口からは言えないさ」
純粋培養の青年は、顔を赤らめて答えた。
しかし、二・三度強くうながされると、しぶしぶ太公望の耳元に口を近づけて報告する。
「む、・・・それは・・・」
青年期をとうに過ぎた少年は顔を赤らめさせるような事はなかったが、しばし思案し、そして眉をひそめながら口を開いた。




「・・・・・・星が流れる前に三度も言いきれるのかのう」
「スース、ツッコむところはそこじゃないさ・・・・・・」













昨日の昼と今日の分の書類に加えて、何故か昨日太公望に振り分けられたはずの雑務まで両脇に積まれていることも意に介さず、楊ゼンは嬉々として仕事に励んでいた。
薄く笑みを浮かべた口元は、絶えず何かをつぶやいている。
そして時折遠くを見上げて、悦に入る。




「太公望師叔。約束は必ず守ってもらいますよ。フフフ・・・、天才であるこの僕に出来ないことはないのです。フフフフフ・・・・・・」





いつの間にやら、いつも斜め後ろにいるはずの勤勉な文官の姿は見えない。
代わりに、きちんと片づけられた彼の机の上にきちんと封をされた書が置いてあった。






『異動願』























――了





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副題は「上司に恵まれなかったら、スタッ○サービス」(バカ)

600hitを申告してくださったユウナさまからいただいたリク内容は

> 「流れ星にお願いしているのを師叔に見られてあせる楊ゼン」です。
> それでできればギャグで。

ユウナさま、申し訳ありません!
リクをしていただいたのはもう一年も前・・・。
しかもそこまで時間をかけておいて、出来上がったのはこんなブツだし。
あんまりにも時間をかけてしまい、最初の設定と変えたので、もし変なところがあれば教えてください(サイテー)

ユウナさま、リクをありがとうございました。
こんなダメサイト、まだ訪れてくださっているのでしょうか・・・、どちらにしても、ユウナさまに心から感謝を込めて捧げます。







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