隻腕で誘惑
先日陥落させたシ水関にて。楊ゼンは薄暗い廊下を足早に歩いていた。
手には書類が一枚。明日の会議の議題である進軍の件である。
今日中に上司である太公望に目を通してもらうつもりであったが、忙しさのあまり失念していたのだ。
「夜分遅くに失礼いたします。太公望師叔、楊ゼンです」
中からのそっけない応えの声で楊ゼンは入室する。
太公望はすでに寝間着姿であったが、机に向かい、2・3の書類を広げていた。
「おお、楊ゼン。例の件か。わしもすっかり忘れておったよ」
今日は殊のほか忙しかったと言いながら伸ばした腕の先は、寝間着の袖が半分ほどだらりと垂れ下がっていた。
長年の習慣から、今はない利き腕を差し出してしまったことに、太公望はばつが悪そうな顔をして右手を出す。
楊ゼンも気まずくなってしまった場の空気に、とっさに気のきいた言葉を言うことが出来ず、無言で書類を渡した。
未だぎこちない様子で筆を取り、書類に朱を入れる太公望に、沈黙に耐えられなくなった楊ゼンはついに口を開く。
「……あの、不便ではありませんか?」
口に出してしまってからこのようなことしか言えない自分に、楊ゼンは自己嫌悪に陥る。
太公望はいくつか細かい内容を直してから、墨を乾かすために書類を脇において楊ゼンに向き直った。
「別段不便とは思わぬよ」
そう言って太公望は人差し指を立てて楊ゼンに近寄るよう促す。
座る自分に合わせて屈んだ楊ゼンの胸元を掴んで引き寄せ、太公望は近づけた薄く形良い唇に口付けた。
「……片腕ならここにおるからな」
にやりと笑って、右腕をそのまま楊ゼンの首に巻きつける。
明確な意図を持ってなされるその行為に、楊ゼンは遠慮がちに声をかけた。
「あの、僕、執務室を散らかしたまま出てきてしまったんですけど。それにいくつか朝議後すぐに提出しなくてはいけない書類も残ってますし……」
「朝やれ」
簡潔に言われたそれに、「仕方のない人だ」といいながらも楊ゼンはたおやかな細腰をかき抱いた。
そして先ほどとは比べ物にならないくらい深く口付ける。
楊ゼンはようやく解放されて喘ぐ太公望の耳元でうっとりとささやいた。
「まずはいかがいたしましょうか?」
余裕あるその声に、太公望は潤んだ大きな目で睨み付ける。
「いちいち命じなくとも、腕は主人の一番良いようにやってくれるものだ」
言ってから太公望は少し考えて再び口を開いた。
「じゃあ、まずは寝台に連れてけ」
「…主人を運ぶのは腕の役目じゃありませんよ」
声を立てて笑いながらも、楊ゼンは軽々と太公望を持ち上げて隣室に入る。
「それからどうしましょう」
「帯を解け。片手だと結ぶのも解くのも面倒でかなわぬ」
「では、これからは僕をお呼びくださいね」
無造作に放り出された書を、頼りなげに揺れる明かりが照らす。
密やかな笑い声が、薄く開かれた扉の暗闇から転がる。
やがて明かりも消えて、暗闇と甘やかな声だけが部屋を満たした。
――了
−−−
一度も保存することなく、1時間ほどで書き上げました。
これは本当は、某所で開催されている大会に投稿しようと思ったのですが、更新もせずに投稿して何やっているんだ!!という天の声が聞こえたので、投稿はやめました。(もっともだ)
愛用の電子辞書を学校に忘れてしまい、友達に預かってもらっているので、文章が書けなくて困っています。
いかに辞書に頼っていたかがわかります。自分、ホント言葉を知らねーなあ(呆)
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