むかし、この世界の東のはてにとても大きな国がありました。
その大きな国を治めていたのはまだ年若い王さまでした。
王さまはたいそう見目がよい方だったのですが、その顔が笑みを作ったことはなく、いつもみんなから怖れられていました。
今日も王さまは、王さまとしての仕事が終わると、額にしわを寄せ、口をへの字にしたまま部屋に戻り、一人で庭をお散歩していました。
ここは王さま専用の庭で、王さま以外はだれも入ることができないのです。
王さまは庭番が外から門を閉めるのを確認すると、ふーっとひとつ大きく白い息を吐きました。
そうして庭を歩きはじめた王さまの額には、いつもの気難しいしわはどこにもありませんでした。
への字の口もありません。
王さまはまるで今日のくもり空のような顔をして花や樹を眺めていました。
今にも雪が降り出しそうな厚くくもった冷たい空でした。
王さまはなんともなしにその空を見上げて、―――見上げて、そしてあわてて両腕を宙に差し出しました。
次の瞬間、王さまは両腕の重みに耐え切れずにしりもちをついてしまいました。
「いってー、・・・・・・なんだよ、これ」
王さまの腕の中には小さな少年が安らかに寝息を立てていました。・・・・・・口もとからひとすじのよだれをたらして。
天使が降る日
とりあえず王さまは空から降ってきた少年を自分の寝台に寝かせました。
もちろん大臣たちにはないしょです。ずっとむかし、街で仔犬を拾ったことをちょっと思い出していると、背後で身じろぎをする声が聞こえたので、王さまはあわてて寝台に飛びつきました。
王さまが見つめる中、少年はその長いまつげをふるわせると、ゆっくりとまぶたを持ち上げました。
現われた瞳は、いつか物語で聞いた深い海の色でした。王さまは海を見たことがありませんでしたが、きっとそうだと思いました。
王さまの持っているどんな宝石よりもきらめく瞳は、ぼんやりと天井を見ながら2,3度けだるげにまばたきをして、そして王さまのほうを見ました。
少年の真っ白なほおにうっすらと血の気がさすのをみとめながら、王さまは緊張のあまりごくりとつばを飲み込みました。
「・・・・・・なんだ、おぬしは」
「それは俺の台詞だ。お前誰だよ」
その容姿からはとても想像がつかないぞんざいな物言いに、王さまは面食らいながらも少年にたずねました。
少年はしばらくあたりを見回し、思案して、自分の置かれている状況を理解したようでした。ひとつうなずくと、さっきよりもずっと好意的なまなざしで王さまを見ました。
「あちこち旅をしていたのだが、足をすべらせて落ちてしまったようだな」
そう言って少年はひとりで納得してしまったようですが、王さまにはわからないことだらけでした。どうやって空から旅をするんでしょう(そのころは今のように飛行機なんて便利なものは飛んでなかったのです)。空にすべらせる足場があるんでしょうか。ずいぶん高いところから落ちてきたようなのになぜ王さまが受け止められるくらいの衝撃しかなかったのでしょう。
そしていちばんの疑問が、王さまが上を見上げたときに真っ先に目に映った、少年を包んでいた半透明の光。
今はもうありませんが、その光はたしかに少年の小さな背中から出ていました。まるで羽のように。
「お前は、天使か?」
王さまはこわごわとたずねました。はるか西の物語に羽の生えた少年が出てきたことを王さまは思い出しました。
「そう呼ばれていることもあるようだが・・・、まあ、おぬしらよりもできることは多いだろうよ」
そうして天使は、いきおいよく寝台から身体を起こすと、王さまと目の高さを合わせました。
「おぬしはどうやらわしのいのちの恩人らしい。どうだ?何かわしでできることがあればひとつだけ願いをかなえてやろう」
王さまはお願いを考えようとして、そしてむっと怒りが込み上げてきました。
天使か何かしらないけれど、どう見ても見かけは自分よりもずっと年少なのに、王さまの自分にこんなに無礼な口をきいているのですから。
王さまはわざとあごをひいて、天使を見下すように見ました。
「願い事なんてねえよ。俺は王だ。欲しいものならばなんでも手に入る」
天使はそんな王さまにも気を悪くした様子はないようでした。
「まあよい。とりあえず迎えが来るまでここにいさせてもらうぞ」
何でもないようにさらりとあつかましいことを言い放った小さな天使に、王さまはあきれて「勝手にしろ」と言いました。
こうして、王さまの部屋には天使が住むことになりました。
もちろん大臣たちにはないしょです。
はじめは、王さまよりもえらそうな天使の態度に腹を立てていた王さまでしたが、だんだんと天使とおしゃべりをするようになってから、王さまはすっかり天使のことが好きになってしまいました。
この国から出たことのない王さまにとって、天使の話はとてもおもしろいものでした。
お返しに王さまは、天使にたくさんのお菓子とくだものを毎日持って帰ってきました。(天使はとても甘いものが好きなのです)
そしてその日あったことを――なるべく楽しいことだけを選んで――天使に話すのです。
そうすると王さまは、今日一日が本当にとてもすばらしかったような気がして、とてもしあわせな気持ちになれるのです。
天使とおしゃべりをするときの王さまの顔を大臣たちが見たら、きっとおどろくでしょう。
自室で天使といるときだけ、王さまはこころの底から笑うのでした。
王さまは王さまじゃなかったとき、とてもたくさんの友達を持っていました。
城の中の人たちも街の人たちもみんなみんな一人残らず王さまの友達でした。
けれども王さまのお兄さんが死んでしまったので、次の王さまは王さまになってしまったのです。
王さまは王さまになってたくさんのものを手に入れました。
王さまになると人に命令して、欲しいものは何でも手に入るし、食べたいものは何でも食べられるのです。
何しろ王さまは国中で一等えらいのですから。
けれども王さまはしてはいけないことも、しなくてはいけないこともたくさんあります。
まず、街の友達に会うことは禁止されました。
城の中だって自由に歩いてはいけません。
歩いていいのは広間にあるたいそうりっぱな王さま専用の椅子から、その後ろにある何重もの厚い垂れ布を抜けたところにある自分の部屋だけです。
昔からあるしきたりにも従わなくてはいけません。
王さまが家来たちに言う言葉は一語一句決まりがあるのです。服装にだって歩き方にだって、食べ方までもがすべて決まりどおりに行なわなくてはいけないのです。
そして王さまが何よりもつらかったのが、えらい大臣などが悪いことをしたとき、彼らの刑は王さまが決めなくてはいけないことです。
なぜなら大臣たちは、いえ、お城の人たちは一人残らず王さまの友達だったのですから。
昨日王さまが死刑にした大臣は、王さまがまだ小さかったころ、王さまにこの国の歴史を教えてくれた先生でした。
授業の後もたくさんたくさん遊んでくれた大好きな先生だったのです。
そのようなわけで王さまは笑うことをしなくなり、そしてみんなも王さまが笑っていたことがあったことをすっかり忘れてしまいました。
大好きな人たちに王さまは怖れられるようになってしまいました。
天使が来るまで、王さまはずっとひとりぼっちでした。
天使が来てずいぶんたちました。寒い冬はとうに終わり、暑いくらいです。
その日はめずらしく仕事が早く終わり、王さまは天使をおどろかせてやろうと、両手にお菓子をいっぱい抱えて自室にそっと入りました。
奥の寝室から聞き慣れた声が聞こえますが、内容まではわかりません。王さまは扉を少し開けてのぞきました。
すでに窓から入る夕焼けはくすんでいました。天使はいつものように椅子に腰掛けて、お茶菓子を卓子の上に山ほど積んで、お茶をすすっていました。
しかしひとつ違うことは、天使の前におどろくほどきれいな青年が立っていたのです。
本来ならば王さまはただちに人を呼び、この侵入者をつかまえなくてはいけなかったでしょう。けれどもそんな気持ちはそれっぽっちも起こらずに、王さまはそのまま2人の様子をじっと見ていました。
青年は何かを言っていました。それはいくぶん強い口調のようでした。
“ようでした”というのは、王さまには青年の声がまったく届かなかったのです。まるでそこだけガラスのカバーで覆われているように。けれども眉をひそめ、腰をかがめて、何か一生懸命に天使に向かって訴えているようだということはわかりました。
天使はお茶を飲みながら黙って青年を見つめていました。
やがて青年は口を閉ざし、小さくため息を吐くと天使の手の中に何か小さい光るものを握らせて、そしてそのまま両手でしっかりと天使の白くほっそりとした手を自分に引き寄せながら、天使の大きな藍の双眸を見つめ返しました。
王さまは暮れなずむ夕の光の中、困ったように微笑む天使の顔をはっきりと見ました。
それから、片手を預けたまま青年に話しかける天使の声をはっきりと聞きました。
「すまぬ」と一言。
たしかにはっきりと聞こえたはずなのに、それは空の薄墨に溶けて消えてしまうかのようなはかない声音でした。
青年はまるでその答えを知っていたかのように、夕日にもやがて来る闇夜にも決して染まらぬだろう蒼い長髪をさらさらと揺らしながら力なく頭を振りました。
そして名残惜しげに手を離すと、一瞬だけ扉の向こうでのぞいている王さまに視線を移しました。
王さまはとてもおどろきました。たしかに王さまがここにいると知って青年はこちらを見たのですから。王さまは、青年は天使と同族で天使を迎えに来たのだろうと何となく感じていたので、青年はひどく王さまのことを怒っていると思ったのです。
王さまはあわてて後ずさりました。そして廊下まで出てしまうと一度大きく深呼吸をしてからもう一度部屋に入りました。
今度はわざと大きな足音を立てて。
「おおい、帰ったぞ」と言う声が少し上ずってしまったことにどきどきしながら王さまは寝室に入っていきました。
すでに日が落ちて真っ暗になった部屋には、天使が一人いつものようにお茶をすすっていました。
あとはだれもいません。
明かりをともしてから王さまはいつものように今日一日あったことや、視察先で見ためずらしいものを天使に聞かせてあげました。
天使はよろこんでそれを聞いていました。
その様子には少しもおかしいところはなくて、はじめはそれとなく青年のことを聞き出そうと思っていた王さまもいつしかすっかり忘れてしまいました。
やがて夜も更けて、王さまはもう休むことにしました。もちろん天使も一緒です。
やわらかい絹の掛布につつまれて眠りに落ちる寸前、王さまはあの蒼い髪の美麗な青年を思い出し、思わず目を開けてしまいました。
突然身じろぎをした王さまに天使はおどろいて眠たげな眼をぱちぱちさせましたが、王さまがもう一度胸に深く天使を抱き直すと、天使は安心したかのようにやがて寝息を立てました。
王さまも昼間の疲れに誘われて、するすると深い眠りに落ちてゆきました。
今度はもう蒼い髪の青年を思い出すことはありませんでした。
――自分を見て、たしかにあわれみの表情を浮かべた青年の顔を。
うだるような暑さも過ぎ、涼やかな風がお城を走りまわります。
その日部屋に帰ってきた王さまは、いつになく力なく肩を落として大変落ち込んでいました。
王さまは寝台に倒れこむと、いつものようにお菓子をほおばる天使に、その理由を話してくれました。
ある大臣が王さまの弟のひとりを王さまにしようとして、じゃまな王さまを殺そうとしたのです。
その大臣はむかし王さまの数学の先生で、その大臣が王さまにしようとした王さまの弟はまだほんの8歳なのです。
どちらもとても王さまは大好きな人でしたが、王さまはその2人を死刑にすることにしました。
王さまが命を狙われたのはこれが初めてのことではありませんでしたので、ほかの大臣がこのようなことを考えないように、あえてきびしい罰にしたのです。
天使には王さまが王さまの仕事をやめたがっているように見えました。
だから「王を辞めたいか?」と聞いてみました。
王さまはまるで知らない言葉をなげかけられたように一瞬眼をまんまるにして、それからしずかに首をふりました。
「いいんだ。俺が王さまにならなきゃ、この国は平和にならないから。俺が王さまになってダチがしあわせに暮らせたら、俺はそれで満足なんだ」
王さまの兄弟はみんな子どもだったので、王さま以外にひとりで王さまの仕事ができる人はいないのです。
そう言って笑った王さまの顔は、けれどもとてもつらそうでした。
――続
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もう少しお付き合い下さいマセ
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