天使はこんな王さまにそのときは何をしていいかわかりませんでしたが、王さまがまだ日が高いうちに帰ってきたある日、天使は王さまを庭に連れていきました。
「なにするんだよ」とたずねる王さまに天使はひとつ笑みを送りました。
そして天使のにぎりしめた左手が光ったかと思うと、天使の背中からひかりかがやく半透明の大きな羽がまるで夢のように出てきました。
おどろき立ちすくむ王さまをおもしろがりながら、「まあ、つかまれ」と天使は王さまの腕を自分の腰にまきつけました。
「けっして手を離すでないぞ」と言うと同時に、2人の身体があっというまに空高く舞いあがりました。
王さまはもちろん一度も空なんて飛んだことがありませんでしたが、天使にうながされて恐る恐る目を開けると、目の前にはよく見知ったなつかしい城下町が広がっていました。
恐怖で天使の細腰にしっかりと抱きつきながらも、王さまはしっかりと街の様子を見ていきました。
街はどこもかしこもにぎやかで活気に溢れていました。その中でもひときわにぎわっている市場には王さまの知っている人がたくさんいました。
当然です。王さまはかつて街中の人と友達だったのですから。
そこにいる人たちは今日一日の仕事を終えて疲れてはいるものの、一人残らず明るい顔をしていました。
街を離れ、高い城壁を越えると、一面畑が広がっています。
もうすぐ収穫を控え、地平の先までそこは金色の世界でした。
天使は王さまを連れたままぐるりとおおきく一回りして、お城に帰りました。
ずいぶんたくさんのものを見たような気がするのに、日はほんのちょっとしか傾いていませんでした。
王さまは部屋に着いてもしばらく天使の腰に抱きついた姿勢のままボーッとしていましたが、やがて黒い瞳に光がともると、王さまは強く天使を掻き抱いて言いました。
「俺は王としてこれからも生きていくよ。大丈夫だ。やっていけるよ」
そして「ありがとな」とくぐもった声で何度も天使にお礼を言いました。
天使は王さまの腕が少しきついと思いましたが、何も言わずにただだまって立っていました。
その次の日から王さまはかわりました。
まず大臣たちが気付いたことは、王さまの表情でした。
ひたいに寄せていたしわもへの字の口もなくなり、聡明そうなひたいと好奇心できらめく黒い瞳、そして笑みの浮かんだ口もと。
大臣たちはみんな知っていました。知っていたけれどすっかり忘れていました。その顔は王さまが王さまになる前の顔で、そっちが本当の王さまの顔だということを。
おどろく大臣たちに王さまはひとりひとりあいさつをし(本当はそんなことをしてはいけないんですよ。しきたりですから)、そして仕事をはじめました。
仕事中の王さまもとても上機嫌で、家来たちはみんな安心して楽しく仕事ができました。
そしてその日の仕事が終わるとき、王さまはいちばんえらい大臣に言いました。
今、王さまの命令でろうやに入っている大臣たちの刑を軽くするように、と。
たしかに今ろうやに入っている大臣たちは悪いことをしたのですが、王さまの罰はあまりにきびしすぎると思っていたので、大臣だけではなく家来たちはみんなよろこび、そしていっせいに床にひざまずいて王さまをたたえました。
王さま万歳、万々歳。
王さまの変化は国中に広まりました。
王さまは今まで以上にぜいたくをやめて、税金を少しでも軽くするように努力しました。
その結果、もともと安全で暮らしやすかったこの国が、ますます暮らしやすくなりました。
そして王さまは、積極的に街へ視察に出かけました。
輿から降りてじかに民衆に話しかける王さまを、むかしの王さまの友達も、王さまのむかしを知らない子どもも、みんな好きになりました。
王さまは街で会った友達をこっそりとお城に呼んでいっしょにお酒を飲みました。もちろんいけないことですが、王さまのことが大好きな大臣たちはみんな黙っていました。
夜遅くに帰ってきた王さまは、いつも楽しそうにその日一日あったことを天使に話しました。
王さまはもう一人ぼっちではないのです。
天使はそれをうれしそうに聞いていました。
その日は今にも雪が降り出しそうな厚くくもった冷たい空でした。
仕事が早く終わった王さまは、最近ゆっくりと顔を会わせていない天使のために急いで部屋に戻りました。
いつものように両手いっぱいお菓子を抱えた王さまを迎えてくれたのは、卓子においてある飲みほした茶碗とお菓子の包み紙でした。
天使はこの部屋に来てから一度も王さまを出迎えなかったことなんてありませんでした。
王さまはなんともなしに庭に足を向けていました。
吹きかけられる冷たい風に肩をすくめながら、しばらく歩いたところでよく見知った小さな背中を見つけました。
天使は王さまを見て一度だけ眉のはしっこを上げましたが、すぐに王さまに笑いかけました。
天使の肩に外套をはおらせるときに近くで見たその笑みは、王さまが知らない顔でした。
「帰るのか?」
王さまはちっともそんなことを言うつもりではありませんでした。言ってから自分でひどくびっくりしました。
「還るよ。・・・・・・いや、行くのかな?」
小さくつぶやいた天使の言葉の意味は王さまにはわかりませんでした。けれどもなぜか王さまは全身が心臓になったみたいにドキドキしていました。
まるで大きい子どものようにいやいやと王さまは首をふりました。
「俺も行くぞ!」
王さまをやめたってちっともかまわないとそのとき王さまは本気で思いました。
天使はそんな王さまを困ったような顔で見ていました。その顔を見て王さまは、本当に子どもになったみたいだと自分で思いました。
「願い事はひとつだけだ」
やさしくさとすように言われて、王さまは思わず天使を外套の上から抱きしめました。
そしてもう一度「帰るのか?」と聞きました。今度ははっきり自分の意志で聞きました。
いつか見た、天使をまるで大切なたからもののような目で見る青年のところに帰れるのならば、それでもいいと王さまは思いました。
天使はそんな王さまのやさしさを知っていました。だからこそ困ったように笑うしかありませんでした。
「あやつには荷が重いだろうよ」
王さまは天使を絶対に一人ぼっちにはさせたくありませんでした。
「この身体には少々いろいろなものを詰め込みすぎたようだ」
「お菓子とか、お菓子とか、お菓子とか・・・」と言う天使の言葉に、王さまは天使の小さな肩にうずめた顔をくしゃくしゃにしたまま笑いました。
王さまとともに笑っていた天使は、王さまを抱きしめたままやがて空を見上げてはかない声音で言いました。
「すまぬな」と。
空には厚い雲がどこまでも広がっているだけでしたが、だれに向けて天使が言っているのか王さまは知っていました。
そうして王さまの腕の中の天使がゆっくりと重くなっていきました。
王さまは天使を外套にくるんだまま自分の寝台に寝かせました。
きらめく深い海の瞳がふたたび見られるのを王さまは横でずっと待っていましたが、やがてそのまま眠ってしまいました。
そのとき王さまは夢を見ました。
夢の中で、いつか見た蒼い髪の青年が出てきて、寝台で寝ている天使をそっと連れていってしまいました。
目が覚めたときには寝台の上には王さまの外套がたたまれて置いてありました。
卓子の上もすっかりかたづいていました。
いつのまにかに、窓の外ははらはらと雪が降りはじめていました。
やがて雪は国中をまっしろにしました。
王さまのお庭も残らずまっしろにおおわれてしまいました。
いつも陽気で情け深い王さまは、死ぬまでみんなにしたわれていました。
やがて王さまはすてきなお姫さまと結婚し、たくさん子どもができました。
王さまはときどき王妃さまや子どもたちを連れて、王さまの庭で散歩しました。
そこで王さまは子どもたちに草木の名前を教えたり、虫をつかまえてみせたりしました。
そして、なぜかときどき王さまはなつかしそうに目を細めて上を見上げました。
なぜなのかは王妃さまや子どもたちにもわかりませんでした。
――了
−−−
いつも訪れてくださる方々へ、感謝の意をこめて。
Sweet Christmas.
もどる