初戦で大勝利を収めた余韻で盛り上がる宴席から、主役が抜け出したことに気が付いたものは誰もいなかった。
武王姫発は、酔いを覚ますために部屋を出て城内を足の向くまま探索していた。
ふと、向かいの離宮の二楼の欄干に黒い影が動いているのが目に入る。
おぼつかない足で駆けて、姫発は離宮に入ると目星を付けた部屋を横切り、回廊に出た。
「何してんだよ、太公望」
欄干に腰掛ける隻腕の小さな影は、月明かりに照らされた青白い顔を後ろ向けて、にいっと笑った。
その横で香炉が紫の煙をくゆらせていた。
月夜を包む
「そんなとこで、寝てなくていいのかよ。またあいつに怒られるんじゃねーのか」
そう言いながら姫発は太公望のすぐ横に立って、ちらりと“無い腕”を見る。
「薬が切れたらしく、今、目が覚めたところだ。楊ゼンはいないが・・・・・・そのうち来るであろうよ」
失血のせいか、それとも未だ薬が残っているのか、その口調はいつもよりもけだるげだった。
白い単衣が寒々しくて、姫発は上着を脱いで小さな身体に無造作に頭から掛ける。
太公望は、投げ出した足をぶらつかせてされるがままに任せていた。
「おまえ、戦の経験って何度目だ?」
「・・・初めてだ」
「ホントかよ、それで勝っちまうなんてすげえな。将軍たちが誉めてたぜ。兵の数では不利なのに、あんなにあっさりと決まっちまうなんてって」
「そうか・・・」
「それにさ、王太子と戦ったお前を間近で見た奴等も言ってたよ。みんなおまえのこと仙人としては弱っちい奴だと思ってたから、そのおまえが王太子のすごい攻撃と対等以上に戦って、兵たちを守るために、その・・・片腕まで犠牲にして。酒の席でもずっとおまえの話題だった。軍師太公望は強いって。強いだけでなくて情もあるって」
姫発は酔客特有のどこか上ずった口調で話し続ける。
太公望は香炉に眼をやり、足をぶらつかせたまま口だけで薄く笑った。
「・・・そうか」
冷たい月明かりに照らされた、その自嘲的な微笑みに、姫発の酔いが覚める。
「わりぃ。俺が言いたかったのはそんなことじゃなくて、・・・おまえはどうだったのかなって。・・・・・・恐くなかったか?」
「恐い」
風に吹かれて消えてしまうような小さな迷いを、太公望は聞き逃さずに間髪入れずに答えた。
「恐い。だがわしは、周の軍師太公望だ。そしておぬしは・・・」
顔を横向けた拍子に、太公望に被せていた姫発の上着が肩までずれ落ちる。
熱で潤んできらめいた瞳の光が、姫発を貫いた。
「武王姫発」
射抜かれた瞳のあまりの激しさに姫発は思わず息を呑んで、そして欄干を抱くように前かがみに身を乗り出した。
「・・・俺はやっぱり王って器じゃねーよ。今日だって、一番安全なところにいてただ見てただけだもんな。王太子なんて俺よりもずっと若いのに、自分で大軍を率いて国のためにって戦ってたのにさ」
眼下に、手入れをされていない中庭が常夜灯に照らされて濃い陰影を作り、いっそう荒れた様子に映る。
「俺さ、ちっちゃい時から南将軍たちの武勇伝聞くのがすごく好きで、それ聞きながら、いつかは俺もおやじや兄貴の命を受けて、旅軍を率いて出陣するんだと。兵車を駆けさせ、翻る軍旗の下、立ちはだかる敵をばっさばっさとなぎ倒して行くんだと、ずっとあこがれてた」
姫発は太公望の左腕に眼をやった。
「今日の戦まで・・・いや、片腕のない血塗れのおまえが楊ゼンに抱えられてくるまで、俺は“戦”が何かわかっちゃいなかった。兵の中には俺の知り合いもたくさんいる。それどころか、遊び仲間だっているんだ。俺が王さまやるって言ったら、徴兵の対象でもないのに自分から志願して一緒に戦ってやるって。俺、その時、いつもの調子で『おぅ、頼むぞ!』なんて言っちゃって・・・」
大きな背中をいっそう丸めて、姫発は一つ身震いする。
「あいつら、無事かなあ・・・」
「・・・・・・」
「敵の刃にかかる寸前でも、あいつらは変わらず俺をダチと思ってくれるのかな」
「・・・・・・」
「全部終わって、豊邑に帰った時、あいつらのおふくろさんたちは変わらず俺に茶をごちそうしてくれるのかな」
「・・・・・・」
「全部終わった時・・・・・・俺には何が残るんだろう」
姫発の取り止めのない独白を、太公望はうなずくでもなく、ただ横で身じろぎもせずに座って、香煙を眺めていた。
「なあ太公望、人は死んだらどこへ行くんだ?」
「・・・・・・さあな」
「悪いことをした人間は、地獄に行くって聞いたぜ。・・・・・・俺も地獄に行くのかな」
これから何万という罪もない敵兵を殺し、さらに味方も死なせることになる。革命のためという大義名分に隠れた自分の罪が恐ろしい。
「地獄などというものは人が人を戒めるために作ったもの。その者の負った罪は肉体と共に滅び、汚れた肉体から開放された魂魄は、新しい肉体を得て再び生まれ出るのだ」
「へえ、さすが仙人さま。詳しいな」
「わしの持論“其之一”だ」
「他にも『泰山の石になる』とか『月の兎に生まれ変わる』とか色々あるぞ。好みの物を選べ」と言われ、本気で感心していた姫発は「何だあ」という顔をする。
いつもの調子が戻ってきたらしい姫発に太公望は少し安堵した。危なげなく欄干の上に立ちあがると同時に背後から緩やかに風が吹き、くゆる薫香をさらに遠くまで運ばせる。
「何を信じるのもおぬしの勝手だ。地獄を信じ、おのれを戒めるのもかまわぬ。だが、現世でこれだけあがき、苦しみ生きておるのだ。この後なお苦しみを求めることもあるまい」
「自虐的な趣味があるならかまわぬが」そう言って欄干の上からからかうように自分に眼を向ける太公望を見上げて、姫発も笑いかえした。
「そりゃいいね、そう思うことにしよう」
盛大にくしゃみをした姫発に、上着を返して宴に戻るようにうながした太公望は、彼が駆け戻って行くのを眼で見送って、そのまま欄干の上でたたずんでいた。
その背に小さく声がかかる。
「太公望師叔・・・・・・」
まるで夜空を切り取って出てきたかのように、蒼の道士は静かに太公望の背後に控えていた。
「薬湯のお時間です。お身体も冷えますので・・・お部屋に戻りましょう」
自分を気遣う呼びかけに返事をして、だが太公望は身じろぎもせずに香が立ち上り消え行く先を見上げている。
「楊ゼン」
煌々と輝く満月を背に、振り返った太公望の顔には何の表情も浮かんではいなかった。
楊ゼンは、彼が欄干から降りやすいように、しなやかに整った左手を差し出す。
その瞬間、静かに凪いでいた太公望の瞳の奥で、ほとばしらんばかりの強烈な光が渦巻いた。そして、それを押さえつけようとするかのように、眉根を寄せてうつむく。
楊ゼンはそれを見定めようとしたが、その前に彼は差し出された手を借りて飛び降りた。
軽い着地の衝撃に下向けられ前髪で翳っていた顔が、たっぷりと時間を取った後再び上げられた時、またどんな感情もそこからは読み取ることが出来ないものであった。
未だ手を取りながら、横で黙って様子をうかがう楊ゼンに、彼は真っ直ぐ前を向いて口を開く。
向きを変えた風に運ばれて、香の薫りがやわらかく二人を包んだ。
「・・・・・・大丈夫だ」
楊ゼンは長い睫を軽く伏せた。
「・・・・・・はい」
楊ゼンが自らの肩布を細く小さな肩に羽織らせると、太公望はそれをそっと引き寄せ、歩き始めた。
その後ろを楊ゼンは影の如く従って行く。
残された香炉は降り注ぐ月の光の下、変わらず紫の煙をくゆらせた。
香はどこまでも風に乗り、冷たい月夜からやさしく護る。
うち捨てられた兵士の骸を、無事の帰還を待ちわびる愛人を、ひとときの休息に酔う将を。
唯人の心を持つ優しい天子を。
そして、片腕をなくした少年の眠りを。
――了
−−−
リクも書かずに何書いてるんだって感じですが(ダメ)、どうやら続けてギャグを書くことは、ねこにとっては困難であるらしいです。
なので、だいぶ前に書いた書きかけを仕上げてみました。
いつものように書きたいところから書いていったのですが、いくらずいぶん前だからといって文体はともかく、テーマにも一貫性がないってどうよ?!(大ダメ)
ねこにとっての“楊太”“発太”観を凝縮。(うわーっ、“ようたい”“はつたい”が一発変換できちゃうパソってヤだな・・・)
姫発に対しては、どんなに辛くったっていつも笑顔。迷ったり、立ち止まったりしたら、叱咤激励して、歩くべき道を進ませてやる。(教育ママ?・笑)
なんてったって(イロんな意味で)愛する人の愛息なんですもの。
それに、あんなスナオでカワイイ子に無条件で懐かれ頼られちゃえば(ねこの妄想)、いくら希代の軍師といえどもめろめろ〜んvよねぇ。
で、楊ゼンに対しては、別に導く必要がないからもうちょっと心情を出している。
でもプライド高いので、表立って「わし、すごく辛いのー。なぐさめてん」とは言わずに、逆に何でもない振りをしちゃったり。
それでいて「わしの辛い気持ちを察せんかい!」とワガママ。
だから、周軍の中でも(一応表向きは)自分の面倒が自分で見られて繊細で気のきく楊ゼンは、太公望にとっていい感じ。楊ゼンもそれを感じるから「太公望師叔の心を本当に理解できるのは僕だけだ。僕がこの人をお守りしなくては!」と、どんどん深みにハマっていく(笑)。
こうして、「あ・うん」で会話する、一種独特の近寄りがたいオーラをまとった熟年カップルが誕生するわけですな(バカ)。
だとしたら楊ゼンは、子ども(姫発)に奥さん(師叔)を取られるんじゃないかと密かにライバル心を燃やすお子様な父親ですかい・・・。
ラストはもう一行書きたかったんですけど、いいのが思い付きませんでした。
なぜ一行にこだわるかといえば、今回のラストはとある有名小説の影響が大だから。
わかります? わかってもイヤかも。ファンの方に石投げられそう・・・。
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