最近、僕の居場所がなくなった・・・・・・。
愛しきことつくしてよ
長い回廊を、両手一杯に書類を抱えて歩く小さな影がひとつ。
足元は鼻先までも積み上げられた書類によって遮られ、大変おぼつかない。
今は絶妙なバランスでなんとかもっているけれど、ちょっとでもそのバランスを崩したら・・・・・・そう、例えば次の一歩を踏みしめた床が何かの理由で滑りやすくなっていたら・・・・・・。
「どわっ!!」
その小柄な身体には不似合いなほど大きな沓に次の一歩を踏み出そうと体重をかけた途端、つるりと足が後ろに滑った。
その反動で身体は前につんのめる。
抱えていた書類か宙に舞う。
すっと重いものを抱えたままに固定されていた腕では、身体をとっさにかばうことが出来ない。
一瞬後の痛みを想像して身体を縮め、目を強くつぶった。
しかし、一瞬後にその身体が抱かれたのは硬い床ではなく、しっかりとした質量を持った二本の腕であった。
「大丈夫ですか? 太公望さま」
予想した衝撃がないことに恐る恐る太公望が目を開けると、真摯な瞳が自分を心配げに覗き込んでいた。
「どこかお怪我はありませんでしたか?」
太公望は自分の足で立つと、安心させるように2・3歩歩いてみせる。
「あぁ、心配いらぬよ。かたじけない、ビーナス」
ビーナスはほっと頬をゆるませると、散乱していた書類を手際よく集め、小脇に抱えた。
「これくらい太公望さまのお手を煩わせなくとも、私に言って下さればお運びいたしますのに」
「いや・・・そうだな、それではこれからはおぬしに頼むことにするかのう」
「うれしいですわ、私がお役に立てることといったらこんなことくらいですもの」
「いや、おぬしはよくやってくれておるよ。金鰲の者たちを束ねてくれておること感謝しておる」
「まあ、太公望さま・・・・・・」
段々遠ざかる声に、廊下の角から楊ゼンはそっと頭を出した。
後ろから太公望の危なっかしい様子を見守っていた彼は、もちろん太公望が足を滑らせたとき、助けに入るつもりでいた。
しかし、ものすごい速さで駆け寄ったビーナスによって、横からかっさらわれてしまったのだ。
2人の後ろ姿はもうだいぶ遠くなっている。
太公望の右側にちょうど3歩下がった位置で、慎ましやかに書類を抱えて付き従うビーナス。
ずっと自分の場所だった。
大きくため息を吐くと、楊ゼンは背中を丸めて今来た道を戻り始めた。
「・・・ゼン、楊ゼン」
はっと我に返ると、太公望が眉をひそめて自分をうかがっている。
久しぶりの想い人と同室の仕事だというのに、何たる醜態。
「疲れたか? 少し休憩にするか」
内心焦る楊ゼンに気づくことなく、うーん、と太公望が伸びをした。
「それでは、お茶でも・・・」
と、あわてて立ちあがろうとした楊ゼンだが、腰を浮かせたところで、太公望の背後からすっと差し出された茶碗に動きが止まる。
顔を上げると、盆を手に持ち、控えめに微笑むビーナスが・・・。
「む、すまんな、ビーナス」
当たり前のように茶碗を受け取る太公望。
「楊ゼンさまも、どうぞ」
空気椅子の姿勢で固まっている楊ゼンにも、微笑みとともに茶を出す。
「あ、あぁ・・・、ありがとう」
楊ゼンも微笑み返すが、どこかぎこちない。
「太公望さま、今日のデザートは杏仁豆腐をつくりましたの」
繊細な硝子の器に、これまた繊細に杏仁豆腐が盛り付けられている。
太公望は杏仁豆腐が机に置かれるや否や、匙を手に取り、むさぼり食べ始めた。
「楊ゼンさまも食べられます?」
ビーナスの持つ盆にはもうひとつ硝子の器が乗せられている。
甘いものはさほど好きではないが、彼女が太公望に出したものがどんなものか確かめてみたい。
「うん、じゃあもらおうかな」
いつもの人好きのする笑みを浮かべたつもりだったが、不自然に眉に力が入る。
そんなことは気にせずに杏仁豆腐を置くビーナスを見ながら、楊ゼンは茶を口に含んだ。
――こ、これは・・・!!
楊ゼンの背筋に電流が流れた。
いつも自分が使う、太公望お気に入りの茶葉で入れていることは確かだ。
だが、口に含んだときの鼻に抜ける香気といい、やわらかな舌触りといい、喉ごしといい、自分が入れる茶よりも格段に上であった。
楊ゼンは茶にはさほど興味はなかったが、師である玉鼎真人が茶道にも造詣が深かったこともあり、誰に出しても恥ずかしくないほどのたしなみを持っている。
しかしこの茶と比べては、楊ゼンの入れた茶なぞ話にもならない。
ショックで半自失な状態になりながら、今度は杏仁豆腐を一匙すくい、口に運んだ。
――な、なんだ・・・?!
さっきよりも数倍強い電流が楊ゼンの背を駆け上がった。
その杏仁豆腐は、甘党の太公望が十分満足できる甘さであった。
かといって、甘みの苦手な自分が食べられないかといったら決してそんなことはなく、あっさりとして後に引かない極めて上品な甘さである。
そして、その繊細な甘さを殺さない、絶妙な温度で冷やされていた。
舌触りはきめが細かく滑らかで、何度も丁寧に裏ごしされたことがうかがえる。
なにより、喉に消え失せる感触は、ある種の儚さまで感じられ、これはまさに芸術品としか言いようがなかった。
「いかがかしら? 今回の杏仁豆腐はシロップををコスタリカ風にアレンジしてみたのですけど・・・・・・」
小首をかしげて尋ねるビーナスのよく梳られた髪が、さらさらと音を立てて肩から流れる。
「かっかっか!見よ、ビーナス。楊ゼンのやつはあまりのうまさに固まっておるわ!」
「いやですわ、太公望さまったら」
頬を赤らめ恥じらいながらも、卓上の書類を杏仁豆腐で汚さないように横にどかしていった。
それもただどかすのではなく、太公望が朱を入れ、また、印を押したもので乾いたものは丸めて各関係機関ごとにまとめ、乾いてないものは端の方に、未処理のものは太公望の手が届くところにと実に手際よく分けていく。
「あら」
仕分けをしていたビーナスが書類を手に小さくつぶやいた。
「ん?どうした、ビーナス」
太公望は匙をくわえながら、目を向ける。
彼女が手に持っているのは先ほどまで楊ゼンが手がけていたもので。
「この儀式の供物の数なのですけれど、先日武王のお身内からご不幸が出ましたから・・・・・・」
「お、本当だ。数が違うのう」
仕事において完全無欠の天才道士が、このような初歩的なミスを起こすなどめずらしい。
少々無理をさせすぎたか。
「楊ゼン、今日の分はわしが片づけておくゆえ、下がって休んでおれ」
太公望からの心底いたわりの声音に、楊ゼンは慌てる。
「え、しかし・・・」
「かまわぬ。今日はそれほど込み入ったものは来ておらぬし、それにビーナスもよく手伝ってくれように」
ビーナスに顔を向けた太公望の目には、相手への信頼の光があった。
「し、しかし!!」
「よいから少しのんびりせい。これは命令だ」
そこまで言われれば、何も言えない。
小さくため息を吐くと、楊ゼンは背中を丸めて執務室を退出した。
自室に向かう廊下の欄干に腰掛け、中庭を彩る夕暮れを、楊ゼンは見るともなしに眺めていた。
憂える佳人の顔にもだいぶ夕暮れの影が落ちている。
今日何度目かわからない重いため息を楊ゼンは吐いた。
いままで自分が誇っていたもの。
それゆえ太公望の片腕たり得たもの。
それらを彼女は全部持っている。
彼の人の身を守って戦うことが出来る戦闘力。
あの仙界の混乱の中、あれだけの妖怪仙人を助け出した判断力、実行力。
それらの妖怪仙人をまとめあげる統制力。
他人への、けっして演技ではない細やかな気遣い。
深い知識、高い事務能力。
そして、あの人への想いの強さ。
彼女がうらやましい。
あの人に想いのすべてをぶつけていける、彼女の強さがうらやましい。
自分が時間をかけてやっと手に入れたあの人の信頼を、かくも容易く手に入れてしまった彼女が。
「ああっ、もう!」
混乱した気持ちそのままに、楊ゼンは髪の中に片手を突っ込み、掻き回した。
心に反して、くせのない蒼い長髪はさらさらと音を立ててほぐされていく。
太公望が変わらず自分に信頼の情を向けていることはわかっているのだ。
「わかっちゃいるんだけどねぇ・・・・・・」
たまには確かな言葉が欲しい。態度が欲しい。
楊ゼンは憂えた顔に自嘲的な笑みを浮かべた。
「何がわかっておるのだ?」
油断していたところに、自分を憂悶させる張本人の声を思いがけず間近に聞いて、楊ゼンは思わず後退って身構えてしまった。
「な、な・・・師叔! 何かご用ですか?!」
意図せず、声も上ずる。
「いや、特に用はない。仕事が一段落したのでな、少し休もうと思ったのだ」
邪魔なら去るが?と尋ねた太公望に、楊ゼンはとんでもないと首を強く振った。
「最近おぬしの様子がおかしいように映るのだが、もしわしに原因があるのならば遠慮なく申してみよ」
「いえ・・・、いいえ、師叔。あなたに原因などありませんよ。
・・・・・・強いて言うならば、それは僕の原因なんです」
楊ゼンは眼を伏せ、緩く頭を振った。だが、彼はそれ以上言葉を続けようとはしない。
一時、2人の間に静かな時間が流れた。
塒に帰る鳥の声が、はるか遠くで鳴いている。
先に静寂を破ったのは太公望の方であった。
「言いたくなくば、無理に言わずともよい。
ただ、最近わしはおぬしに頼り過ぎておるゆえ、それがおぬしにとって負担になってしまったのではと少し案じておったのだが」
楊ゼンは慌てて太公望の華奢な両肩を強く掴んで向き合った。
「違います!!そんなことはありません!」
あまりの勢いに圧倒されて目を見開いたまま固まった太公望に気がついて、楊ゼンは慌てて肩を掴んでいた手を離す。
未だ無言で目を瞬かせている太公望に、自分の突然の行為を恥じて頬を少し赤く染めながらも、この勢いに乗じて言うべき事は言っておかねばと楊ゼンは意気込んで口を開いた。
「負担だなんてとんでもない。むしろあなたがそれだけ僕を評価してくれているのだとうれしく思っています。
どうぞ、今まで以上に僕を・・・この僕を頼ってください!
あなたのためなら、たとえ火の中水の中!千里の道も一歩から!欲シガリマセン勝ツマデハ、デス!!」
・・・どうやら意気込み過ぎたらしい。
常の洗練された彼を知る女性たちが見たら泣いて逃げ出したくなってしまうような、いっぱいいっぱいさである。
見詰め合う二人の間に、冷たい風が音を立てて通り過ぎる。
心の底まで縮こまらせるその風に一つ身震いすると、たまらず楊ゼンは頭を下げた。
「そのような申し出、とてもうれしく思うぞ」
頭上に響く涼やかな声。その声に楊ゼンが勢いよく頭を上げると、想い人の顔には大輪の笑みが花開いていた。
「おぬしは十分わしの役に立ってくれておるよ。もちろん他の誰もくらべものにならぬほどだ。
だが、わしはそれを当たり前のように享受していて、おぬしに対しての配慮をついおろそかにしてしまっておる。
本当はおぬしには言葉に出来ないほどいつも感謝しておるのだよ、楊ゼン」
常日頃の太公望からは想像もつかないような言葉に、楊ゼンの膨大な脳内の情報伝達回路が緩慢な音を立てて停止する。
脳から美形を保つ司令が行かず、顔の筋肉をすべて弛緩させている楊ゼンにかまわず、太公望は言を進める。
「これからもわしの片腕として、いや、両腕としてどうかわしを手伝って欲しい」
楊ゼンのぶら下がった両腕をぽんと叩いた。
「期待しておるぞ、楊ゼン」
そうしてもう一度艶やかな笑みを送ると、太公望は軽やかに自室の方向へ消えていった。
その夜の豊邑の話題は、執務室で高らかにヨーデルを歌い上げながら仕事に励む美しき天才道士さまであった。
一晩中奏でられた美声に、城内の文武百官は眠れぬ夜を耐え忍んだ。
宰相のハリセンをもってしても、歌を止めることは不可能であったらしい。
「楊ゼンさま、元気になられてよかったですわね」
出来上がったばかりのモモのタルトを切り分けながらビーナスはにっこりと微笑む。
「うむ、ビーナス。おぬしの言った通りであった」
差し出されたタルトの皿を、逞しい彼女の手から引っ手繰るようにして受け取り、フォークで突き刺す。
そのまま自分を見向きもせずほおばり始めた太公望の碗に、なめらかな動作でビーナスが冷茶を注いだ。
「お慕いする方からの言葉は何よりもうれしいものですわ。私がお見受けするかぎりでは、太公望さまは楊ゼンさまにあまりお声を掛けてらっしゃらない様子でしたので。たとえ信頼し合う同士でも言葉は必要ですのよ」
太公望は咀嚼したタルトとともに、冷茶をその小さな身体に流し込んで一息つく。
「おぬしは本当によく気がつくのう。おぬしの夫となる者は幸せものだ」
美味い菓子で小腹も膨らみ、仕事もない。太公望は碗を掴んだまま満足げにうなずいた。
そのささやかな幸せに背後から長い影が忍び寄る。
「勤務時間中に何をあなたは和んでいるのですか! あの楊ゼンさんを何とかなさい!!」
高らかに音を立ててしなるハリセン、ヘドを吐きながら吹っ飛ぶ太公望。
「まあ太公望さまったら、こんなところでプロポーズだなんて、大胆ですわ」
その横ではビーナスが赤らめた頬に両手を当てて、その雄々しい筋肉でしなを作っていた。
誰一人として文官のいない執務室も何故か二倍に増えている仕事も意に介せず、徹夜明けの美麗な天才道士は絶好調だ。
「師叔が、太公望師叔が僕に・・・・・・むふ、むふふ、ふふふふふ・・・・・・」
未だ顔の筋肉には司令が行きわたっていないままらしい。
「ああ、やはりあなたの横に立つに真実相応しいのは、この天才・楊ゼンしかいないのですね。ふふふふふ・・・・・・」
蒼天の空の下、西岐城内にヨーデルが高らかに響き渡る。
――了
−−−
場所を間違えてしまったのですが(ビーナスがいるのに西岐)、気がついたのはほぼ書き上げてからなのであきらめ(ダメ)
ねこはビーナス嬢がお気に入りでして。
いいですよねえ。強いし、頭はいいし、しっかりと現実を見る目はあるし、それでいて料理は上手くて気が細やか。
うちのダメダメ楊ゼンよりもずっといいですよ(笑)
というわけで突発的に書いてしまいました。
本当は日頃ムゲに扱われている楊ゼンにゴホウビを、というコンセプトから書き始めたのですが・・・・・・どこをどう間違えてしまったのでしょうか(悩)
でも、何かテンポが悪いなあ。だらだら書きは悪いクセです(ダメダメ)
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